君は悪夢になり得ない 彷徨海カルデアベース。深夜1時を回った頃、眠る藤丸立香のマイルームに蠢く影があった。その大きな影はゆるゆると立香に近づき、黒ずんだ手を伸ばす。眉根を寄せて脂汗を浮かべる立香を拭うと、うっすらと笑みを浮かべて影は……蘆屋道満は何かを唱え立香の夢の中に潜っていった。
立香は毎晩悪夢を見ていた。そのきっかけは妖精国で見せられた失意の庭だが、その不安自体はそれ以前から立香自身が抱えていたものに他ならなかった。今日も立香は夢を見る。
「これでキミも『予備』に戻れる!」
「もう無理に頑張らなくていいんだって」
「事件解決後、キミの目の前に広がっているのは何もかも壊れた後の、絶望的な地球の姿だ」
仲間達から立ち止まるよう言われる優しい悪夢。今までがむしゃらに走り続けてきた人類最後のマスターにとっては何よりも苦しい要求だった。それでも、と彼女が立ち上がれる人間であったとしても、毎夜夢に見る度に少しずつ心はすり減っていく。一度傷のついた心は決して元には戻らない。眠ること自体を敬遠するようになるも、マスターとして万全を期すためには眠らなくてはならないと言うジレンマ。ここ最近の立香がノイローゼ気味だったことに気付かない者は少なかった。
「ああ、やっぱりキツイな」
誰も答える者のいない夢の中で立香は独り言つ。潜在的な恐怖に慣れは存在しない。その後ろ姿に黒い狩衣を着た男が近付いていく。
「代わりの効く存在となった御気分は如何ですかなマイマスタァ」
男の手が立香の両肩を置かれる。
「カドック殿も目覚めた今、最早人類最後のマスターとは呼べますまい。魔術師としても上の存在がいるのですから、貴方はいつでもその足を止めて良いのですよ」
首だけで振り返る立香に目一杯顔を近づけ男は続ける。甘い囁きがゆるく立香の首を絞めていくようだ。
「しかしご安心召されよ。もし他のサーヴァントが主を鞍替えしたとしても、拙僧だけは貴方のサーヴァントであり続けましょうぞ。儂を殺したのは他でも無いお前なのですから。それに、『予備』のマスターだとしても己のサーヴァント一騎も持たぬのは不便でしょうや。哀れな二番手同士傷を舐め合いましょうぞ」
黒曜石の瞳がギラリと光り、獣が獲物を捕まえようとした瞬間。
「道満、何してるの」
「は?」
「夢じゃなくて本物の道満でしょ」
蘆屋道満は目を瞬かせ、怪訝な顔をして立香を見る。
「何故分かったのです?」
「だって君、現実とちっとも変わらないから」
そう言って笑いをこぼす立香に道満は調子を崩されたように小さく唸った。
「夢の中の皆はね、わたしに優しくて都合のいい事しか言わないの。でもそれって本当の優しさじゃ無いんだ。現実の皆は本当に優しいから」
魔術師として未熟な少女を幾たびも命を懸けた戦いに向かわせるのは優しさなのか、と蘆屋道満は脳内で悪態をついた。あからさまに不機嫌なその表情を見て立香は笑う。
「道満も優しいね」
「はぁ?」
「心配してくれたんでしょ」
「ンン勘違いしないで頂きたい。拙僧は悪夢に怯え震えるマスターの顔を拝みに来ただけで」
立香はすました顔で道満を見つめている。その何でもお見通しだとでも言わん表情に道満は苛立ちを募らせる。気に入らない、もっと取り乱した姿を見せればいい。しかしそうして今までも道満が呪ったり、脅してみることがあっても、立香は動じる事なく何でもない顔で対処してしまうのだ。
「君の顔見たら何だか安心しちゃった。悪夢も終わっちゃったし」
立香のその発言に道満は眉をひくつかせる。夢の中のそこはいまだカルデア内であるものの、他の職員の姿も消え、立香と道満二人きりであった。