終わりと始まり.
一つ、ページをめくる。あざやかによみがえる記憶に人知れず笑みをこぼした。
「何してるんだ」
「…ん、懐かしいモン見つけた」
背後から声を掛けられ、ワースは膝に乗せた本―アルバムを差し向けながら斜め上を見上げる。そこに立つ空色の髪と瞳を持った男。ぐっと寄った眉間が、ワースの手の中にあるアルバムを発見してぱちりと瞬く。
「こんなのあったのか」
「あったんだよ」
隣に座った男―ランスはワースの手許を覗き込み、一枚の写真をなぞる。
それはランスが神覚者として魔法局に入った日であり、二人の門出。巨大なシュークリームを持って現れたマッシュに困惑して、けれど写真の中のランスとワースは楽しそうに笑っている。
こつん、とランスの肩にもたれかかり、ワースは息を吐く。
「これ、どーすっか」
「……オレが貰っておく」
「………マジ?」
「大マジだ。全部寄越せ」
「はいはい」
差し出される、二十歳をとうに超えて男らしく育ったてのひらに閉じたアルバムを乗せる。きちんと握ったのを確認して、ワースは身を起こした。
「そんなモン持っててどーすんだよ」
「オレの勝手だろう」
「そー、だけどさ」
もごりと口を動かして、ワースは俯く。二人の思い出が詰まったアルバムを、どうして今更ランスは求めるのだろう。嵩張るだけだろうに。
「それより部屋の片付けは済んだのか?」
「あー、ん…だいたいは片付いた。書籍類は全部持ってくから後で頼むわ」
「じゃあこっちを手伝え。食器は処理するのもあるんだろ」
「わぁったよ」
言いながらランスが立ち上がった。ワースはランスの数倍の速度でゆっくり立ち上がり、こちらを見下ろしているランスを見上げる。初めて顔を合わせた時より、ずっと精悍に育った顔つきとぐんぐん伸びた身長。ワースだって低身長ではないつもりだが、やはり性差というものがあるようで丸みを帯びたワースの肉体とは反対に、ランスは男らしく育った。
「…なんだ」
「なぁにも」
じっと見上げるワースの視線に気付いたのか、ランスの顔が顰められる。それをケラリと笑って見たワースはランスを追い抜いて部屋の外へ出て行った。
慌てて後を追ってくる足取りに肩を震わせ、ワースはダイニングテーブルに並べられた食器類に目を走らせる。スープカップにサラダボウル、平皿、角皿、ティーセット。ペアで買ったマグカップ。
「思ってたよりいらないかも」
「…お前」
「だってずっと使ってるから染みがついてんだよ、新しく買った方がいいって」
言いながらワースはマグカップに指を掛ける。料理による染みは綺麗に洗うように心がけているので目立たないが、マグカップは珈琲を淹れて半分残った状態で寝落ちなんてことも少なくないのでしっかりとこびり付いた染みがもう簡単には取れないところまで来ている。じっと見降ろすマグカップの中身は、そこに時代を感じて少しだけ面白い。ふぅ、と背後に立つランスが溜息を吐いた。
「分かった」
そう云って、ランスはワースの手の中からマグカップを抜き取り処分用の箱の中に入れた。他の食器類もどんどん詰め込まれ、テーブルの上はすぐにがらんとする。それが、少しだけ寂しいと思った。
「家具は全部処理していいのか?」
「……」
「ワース?」
「……ぇ、なに?」
「…やっぱりあのマグカップは残すか」
「ああああいらねえよ取り出そうとすんな」
箱からペアのマグカップを取り出そうとするランスは慌てて止める。一度処分すると決めた物を回収するのは愚の骨頂だ。ランスの腕にしがみつくと、ランスはぴくりと反応した後ゆっくりとワースの手を自身の腕から剥がしていく。その動きに面食らったワースは、ランスとの接触面積がゼロになって困ったように笑った。
「こんなに広かったんだな」
気を取り直すように、ワースはランスから目を逸らして部屋の中に目を向ける。同じように周囲を見渡したランスは、カーテンを取り払われた大窓に目を細めた。
「お前、周りを気にする余裕も無かったからな」
「うっせえ」
咄嗟に言い返し、ワースはランスを睨む。
家から除籍処分を受け、とりあえず居住はあるといったレベルの暮らしをしていたワースの目の前にランスが現れた日を、きっとワースは死ぬ瞬間まで忘れる事は無いだろう。生きる事も、愛する事も、全部ランスに教えられた。人の腕の暖かさも、―恋の切なさも。ぐっと腹に力が宿って、ワースは顔を下に向ける。じっと見降ろされていることを理解しながら、ワースは努めて平然を装った。
「意外と楽しかったぜ、ここ」
「……オレもだ」
にっこり笑ったはずなのだけれど、ランスがあまりに切なそうに声を出すから、数か月前から上手く被れなくなった仮面が剥がれ落ちてワースはころりと涙を流す。伸びてきたランスのてのひらが恐る恐るワースの頬に伸びて、ワースはそっと目を閉じた。
今日、二人は六年間共に暮らしたこの家を出ていく。
*
始まりは些細な事だった。元々お互い口は当然として手も足も出るので、本気の喧嘩は毎度魔法も拳も使って周りをドン引きさせるありさまで。何度フィンに怒られたか数えるのも億劫だ。
しかしその日のワースはどこかおかしかった。ランス個人調べで一番面倒な仕事を終えて帰ってきたランスを出迎えたワースは仕事着のままで、盛大に顔を顰めた。
「くせえ」
「ハ?」
目算3m。いつもならランスに寄ってくるワースは距離を取って口元に手を当てている。行きたくもない食事会で疲労がピークに達しそうなランスはワースのその態度に苛立ち、コートをひるがえし大股で近付いた。
「っ、こっち来んな」
「誰が貴様の云う事を聞くか」
「…ざけんじゃねえ」
後退ったワースが自室に逃げ込む前に腕を掴んで捕まえる。特別細いわけではないが、やはり女性的ななめらかな肌とランスの指先がぐるりと回る細さではあるワースの手首に息を呑んだ。
「は、なせ臭いんだよてめえ」
「断る。オレのどこが臭いんだ」
「全部だよッ。ほんと、臭いって…さいあく…っ」
腕の中にすっぽりと包まれるワースはランスのスーツベストに爪を立てて唇を歪ませている。じっと見降ろしていると、観念したのか早くランスから離れたかったのかぐっと唇に力を入れた後ゆっくり開いた。
「香水の臭い…吐きそう」
ワースの言葉にきょとんとしたランスは、ニィと上がる口角を抑える事が出来ず口元を手で覆い隠す。
「ワースお前…」
「ア?」
「今日のは仕事の一環だ。お前以外とどうこうなることはない、断言する」
「……、っそういう話はしてねえだろ」
打てば響くというのはこういうことを云うのだろうか。頭の回転の速いワースはランスの言わんとしていることを理解したようで、顔をカッと赤らめて大きな声で怒鳴った。
ワースの変化はそれだけで済めばよかったのだが、そうはならなかった。
元々喧嘩っ早い部分はあったが、怒りっぽくなり、常にイライラしている。本当に些細なことでランスを怒鳴ることが増えた。涙腺の緩みが酷く、泣きながらランスに攻撃をしかける始末。
何かストレスを感じることがあるのではないかとワースの職場に探りをいれてみたが、普段通りに過ごしているようで大した成果は得られなかった。
そして、最後は、あぁなった。
*
荷物を詰めた箱は玄関の方に並べている。明日の朝全て配達業者に預けて、午後には新居に届く予定だ。家具は大半が処分する。リビングに置いていたソファやテーブルはすでに運び出してガランとした空間がそこには広がっていた。柔らかい丸型クッションの上に腰を下ろして、ワースはうとうとと今にも溶け落ちそうな瞼をこする。部屋の片付けは思っていたより体力を使って疲れてしまった。
「ワース?」
「ん…」
後ろから声を掛けられ、小さく声を漏らして返事をする。振り返ることはしなかった。カーテンを外したリビングは太陽光を遮断する事無く明るく床を照らしている。
ワースの背中に暖かいぬくもりが生まれて、無意識にほうと息を吐いた。当然のようにもたれかかった胸板は安定感があって、腹に回ってくる腕に手を添える。
「明日だなァ」
「あぁ、明日だ」
なんだか感慨深くて、二人で実の無い会話を交わす。ぐっとランスの腕に力が入った。ちらりと見上げた顔は不満がありありと浮かんで、ワースはあまりの面白さに噴き出してしまった。
「ふは、なんて顔してんだよ」
「うるさいな、お前はどうしてそう軽いんだ」
「あー、まあ、そーなんのかなってのは、ちょっと思ってた」
「なんだと」
「キレんなよ」
ワースはランスに全体重をかけてもたれかかりながら笑う。頭上ではランスが低い声を上げて、ワースはふらふらと手を伸ばしてランスの顔に触れる。
「今日は喧嘩したくねえ」
「………オレも」
ぎゅうと抱き締められて、ワースは目を閉じる。肩に乗ったランスの額。ぽんぽんと頭を撫でながら、ワースはゆっくり深呼吸する。
郊外のアパートメント。ここがワースは好きだった。人の気配の少ない豊かな自然の残るのどかな土地。除籍されたのに中心街に住むのはダメだろうと言うワースと、何をしてでも距離を縮めようとしたランスの妥協点の象徴。出迎えるのも、出迎えられるのも、全部が愛しかった。こんな穏やかな世界が、確かにワースの宝だった。だから、ここで過ごす最後の日を、綺麗なもので終えたかった。
「…ランス」
「どうした」
「今日は……」
一緒に寝るか。ワースの言葉にぴくりと反応したランスの強い視線がワースを焼く。それにゆるく笑って、ワースはすり、とすぐ傍のランスの鎖骨に擦り寄った。こんなこともできなくなるなァ、なんて。
朝の目覚めは健やかだった。きっちりと着込まれたパジャマ姿で、ワースはすぐ傍のランスの寝顔を見上げる。最近ではめっきりすることがなくなった行為。当然かと笑いながら、ゆっくり体を起こす。むずがるように眉間に皺を寄せて唇をまごつかせたランスの瞼が押し上げられて、中から煌めくスカイブルーが顔を出した。
「……ワー、ス?」
「…おはよ」
ふわりとワースの黒髪が揺れた。片側を耳に掛けて、はく、と何かを言いたそうにしているランスの顔を覗き込む。
「結婚、するぞ、ワース」
「…懐かしいなァ、おい」
寝惚けている様子のランスの口から飛び出たのは、六年前と一言一句変わらぬ言葉。ワースは零れるように笑った。
*
―お兄ちゃんをお願いします。
そうワースに頭を下げた妹の姿は、ワースがランスから散々聞かされて想像していたものよりうんと力強い目をしていた。優しさを目いっぱい詰めたような愛らしい少女。妬ましい前に尊敬してしまって、ワースは頷くしかできなかった。
キラキラと輝く左手の薬指。そこに何かが嵌まる想像は、残念な事にワースは全然出来ていなかった。外すと指の付け根に痕が残って、外しているのにつけているような不思議な感触がある。これを、ぐるりと回すのがワースの癖、らしい。
―確かめてるみたいだな。
何か不安があると触っているらしいワースに、甘く笑んだランスが言った。恥ずかしくて振るった杖から飛び出た泥は平然と避けられて、ワースは更に苛立ちが増した。
きゅっと噤んだ唇で、キッチンに立つランスを離れたところから見る。だいたいのものは片付けてしまったので今生み出されているのは簡単に作れる朝食だ。揺れる水色をぼんやりと見ながら、ワースは水色の丸型クッションを抱きしめた。
「…らんす」
「どうした?」
聞こえると思っていなかったけれど、すぐにくるりと振り返られてワースが驚いてしまった。クッションに口元を埋め、もごりと言葉が彷徨う。
「……そっち、行ってもいーか」
「ダメに決まってるだろ」
「…っ」
意を決して言ったのだけれど、ばっさりと切り捨てられた。息を呑むワースに気付く事無くランスはまた背中を向けて、処分予定の皿に料理を乗せていく。
片手に皿と、もう片手に湯気が立つマグカップ。それを持って現れたランスはクッションを抱き締めて眉間に皺を寄せているワースに溜息を吐いた。
「気を付けろって言ってるだろ」
「……神経質」
「うるさい」
テーブルが無いので食事を床に置いて、ランスはその場を離れた。ワースは恐る恐るマグカップに手を伸ばして口をつける。一口飲んで、ほうと息を吐いた。
「あとちょっとだな…」
ぽつりとこぼして、ワースは笑みを浮かべた。
もう少しで、苦しい期間も終わる。最近はずっと苦しかったな、なんて、思い出してしまったこの数か月を思って息を吐いた。
「かけとけ」
「ん」
肩に掛けられたブランケット。遠目に確認するとリビングにぐしゃぐしゃにまとめられていた簡易寝具一式からブランケットが無くなっていた。ワースとランスの匂いがまざって、どちらのものか分からなくなったブランケット。胸のところで布を合わせて握りながら、隣に座ったランスにもたれかかる。ゆっくり深呼吸した。今日は少し楽な方らしい。
*
終わりはやはり、何を願っても訪れる。やってきた配達業者を前にランスは顔を顰めた。
「そんな顔すんなよ。ちゃんと届けとくから」
「……」
「さっさと仕事行けって。間違えてこっち帰るなよ」
しっしと手で払われる。不快そうに歪んだ顔を前に、配達業者は気にした風もなく頭を掻いた。けれど、ここで問答を繰り返した処でこの家を出ることはもう決まっていて、ランスの出勤時間も迫っている。仕方ない、と滲ませた溜息をついて、ランスは配達業者とワースを見た。
「いってくる」
「いってらぁ」
「……ん」
どうして配達業者の方がしっかりと返事をするのか。ギロリと睨み付けても変わらない笑い顔に顔を顰め、ランスは玄関を出た。
家を出ようと思ったのは何も衝動的な話じゃなった。二人で話し合って、ワースも勘付いていたのかきちんと受け入れて。言葉にすればそれだけだったのだけれど、一つ一つ思い出を箱に詰めて空っぽになっていく間取りは、何故か心が締め付けられた。
大切だった。大切にしたかった。たったひとつの楔になりたかった。卒業と同時にどこかへ消え失せたワースの背中を探し、記憶の中のものより一回り細くなった気がする体躯を衝動的に抱き締めた。離したくないと思った。離さないと誓った。愛と呼ぶのか、欲と呼ぶのか。ただ確かなのは、他人を理由に泣くワースを赦せなかったこと。
笑うと下がる目尻。当然のようにもたれかかる肩。触れると力が抜ける身体。その全てにあふれ出たのは安堵と愛しさ。ただいまと言われた時、おかえりと言われた時、ランスは気付かれないように涙を流した。ランスにしか与えられなかったそれらは、これからもずっとそうだと愚かにも信じたワースの愛は、もうランスだけのものじゃなくなる。
それがバカらしいほどに悲しくてしょうがない。
住所変更の書類を提出するランスに、感情の見えないカルドの口角が笑みを形作る。偶然その場に居合わせたオーターの目を見る事が出来ない。居心地の悪さに身を捩った。
「確かに。不備もありませんし、受理しました」
「よろしくお願いします」
頭を下げてその場を辞そうとするランスの背中に、オーターの鋭い視線が刺さった。それを振り払うようにランスは部屋を出ていく。
今日はずっと執務室で書類と格闘していた。そういう業務をわざと与えられた気配を感じつつ、機械作業のように全てをこなしていく。何か言いたげな局員に口を挟まれないように手を動かし、今日の分の書類を片付け終わったのはちょうど18時ぴったりだった。夏が近付き、日照時間も伸びて夕焼けが窓から差し込んで部屋を赤く染める。
「終わられたんですか?」
「……あぁ」
「お疲れ様です、ランス様」
年上の部下に生返事をしながらランスは手慰みに羽根ペンを触った。ニコニコと笑う部下達に、相変わらずの居心地の悪さ。誰が喋ったのかと疑っても、可能性のある人間が多すぎて誰にグラビオルをぶつければいいか分からなくなる。
カタリと椅子から立ち上がり、局員に見送られながら退勤の準備をする。その廊下で、ソフィナに大きな紙袋を渡された。局員一同かららしい。気が早い事だと思いながら受け取って、新居へ向かう。
神覚者の肩書に見合った、一等地にある一軒家。そこが今日からランスの家になる。
さすがのランスも緊張しているらしい。足取りが重くて、何度も深呼吸をしながら道を歩く。
辿り着いた一軒家の前で、ランスは扉の前で呼吸を鎮めた。ゆっくりと伸ばした手で扉に手を掛け―。
「あ、お兄ちゃん」
けれどランスが何かをする前に中から扉が開き、ランスの同じ色彩の女性が顔を出した。つい先日魔法学校を卒業した妹のアンナは、女性らしさの中に残る愛らしさで笑んだ。
「早かったね。皆待ってるよ」
「あぁ」
大きく開かれた扉の中に入り、先に家の奥に行ってしまったアンナを追う。
ガヤガヤと楽し気な大人数の話し声が聞こえた。
開きっぱなしのリビングに足を踏み入れてランスはピシリと固まった後、盛大に顔を顰めて大きく口を開いた。
「オレの妻だぞ触るな」
パチリと瞬いた翠が弓なりに反るまであと3秒。
大口を開けて涙を流すほど笑うまであと5秒。
大きく膨らんだ腹の中で存在を主張するように小さな足が動くまであと8秒。
ランスが我が子とワースを取り合うまであと――。
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