(仮)山行こ!【1】「聡実くん、山行こ!」
という成田狂児からの誘いに、岡聡実は五秒ほど考えて
「ええですよ」
と答えた。
狂児四十四歳、聡実十九歳、付き合い始めて一年目の夏だった。
蒲田の古い喫茶店に向かい合い、テーブルの下でなんとなく足などぶつけ合いながら、ふたりは顔を見合わせていた。
「ずいぶんあっさりやね。山、好きやった?」
狂児は、相変わらず無駄に男前な顔で目を細める。
聡実は少々照れて視線を逸らしつつ、もごもごと答えた。
「別に……学校で行ったくらいやから、好きでも嫌いでもないけど。狂児さんにしては、珍しく健全なお誘いやないですか?」
「うそーん。普段そんなに不健全やったっけ?」
普通やない? と言いながら、狂児は古めかしいプリンアラモードにスプーンを突っ込んでいる。普段のこの男とのデートといえば、どうしても食事とホテルになりがちだ。
(普通といえば普通やけど、多分、狂児やから不健全に思うんかな)
ぼわわんと思い出すのは、レストランでの異様にスマートなエスコートぶりと、その後の頭が痛くなるような色っぽい展開で、聡実は昼間っから頭がくらくらしてきてしまう。
慌てて小さく首を振り、アイスコーヒーをストローで引っかき回した。
「と、とにかく、山は野外やし、運動やし、昼間の活動やし、ええと思います。やくざとは思えない……あっ」
「ん? どしたん?」
「……まさかその山って、何か埋めに行くわけじゃないですよね?」
じろりと上目使いで聞いてみると、狂児はあっけにとられた顔で主張する。
「んなわけないやろ。埋めるときはキャンプ場とかいかん、組で持っとる山行くわ!」
「いや、持っとるんかい!」
「ふ、あはは、冗談やて~。今時そんなん、ないない。信じて、ね?」
わざと可愛らしく首をかしげたのち、狂児は穏やかに言う。
「単に、昔から好きなんや、山。あっこではどんな人間も、ただの命やし」
(ただの、命)
そんなことを言われると、聡実は何も言い返せなくなる。
(普段は色々、気にするんやろな。立場とか、なんとか)
何せ目の前の男は、大阪ではそこそこの規模の暴力団の幹部なのである。
日々をそれなりに人間的に生きるには、あらゆるしがらみから逃れられる場所が必要なのだろう。
「わかりました。九月まで休みありますから、どこかで都合つけます。場所はお願いしていいですか?」
「もちろん、任せとって。装備も一式、一緒買い行こ?」
狂児は嬉しそうに言い、聡実をそれこそきれいな景色みたいに見つめた。
■□■
それから一ヶ月後。
狂児と聡実は、某県のオートキャンプ場にいる。
「はあ……すご……ほんとに山やないですか」
聡実はレンタカーのSUVから降り、しみじみと歓声を上げた。
目の前に広がるのは、鮮やかな緑と青。
美しく整えられた下生えの向こうには堂々たる山々が連なり、真っ青な空にもうもうと夏の雲がかかっている。どこまでも鮮やかな夏の光を感じるのに、標高が高いせいで気温は二十度をわずかに下回っている気がした。
(涼しい……きれいや……木と土の匂いしかせん)
思った以上にすがすがしい景色に、聡実の顔もふわりと緩む。
続いて車から降りた狂児が、隣に立って面白そうに言う。
「聡実くん……それ、どういう感想なん? 山行こ~言うて、山以外に連れてかれること、ある?」
「狂児さんならありうる」
「傷つくわあ」
わざとらしく胸に手を当てて目を閉じる恋人を、聡実はくすりと笑って見やった。
スポーツブランドの山着に身を包み、髪型もゆるい今日の狂児は、いつもの私服にも増して『ふつう』に見える。
ふつうに立場と余裕のある三十代後半から四十くらいの、上等な男。
ここでは誰も彼をやくざだとは思わないだろうし、聡実との二人旅も『会社の先輩後輩か親類でキャンプに来ているんだろう』とのみ込むだろう。
(狂児さんが山が好きなの、わかるわ)
「ごめんな。すごいきれいなとこで、感動してるだけ」
自然と笑みを零して言えば、狂児も蕩けるように笑った。
「夜はもっと綺麗やで。大阪でも蒲田でも見えない星が、やまほど見える」
「楽しみです。あの、僕、何しますか?」
「おっ、張り切っとるやない。じゃあ、まずは焚火の準備しよか。俺が薪買ってくるから、聡実くんはそのへんで松ぼっくりでも拾っといてくれる?」
「松ぼっくり、何にするんです?」
遊ぶわけじゃあるまいし、と聞くと、狂児は車を駐めたキャンプサイトのすぐそば、松林のほうを指さす。
「焚き付けやね。松は油を含んどるからよく燃える。松ぼっくり、湿気ると縮こまるから、なるべく開いたやつにしてな」
「わかりました。たくさん集めてきます」
「よろしくな」
ぱすん、と頭を撫でて、狂児は売店のほうへと歩いて行った。
子供扱いや、と思うものの、まあ、ここまで知識差があれば子供扱いでも腹も立たない。山装備一式も、まんまと狂児にあつらえられてしまったし、ここはせいぜい言いつけられた仕事を立派にこなすしかない。
聡実はマウンテンパーカーに登山靴という姿で、松林へと向かう。
小さいころは川遊びなどをした覚えがあるが、ある程度の歳になってからプライベートのキャンプや登山に来たのは初めてだ。
(狂児さん、どうやって山遊び覚えたんやろ。大阪生まれ大阪育ちって聞いた気がする。ひょっとして、祭林組のみんなと来たんかな)
れっきとした暴力団体である祭林組だが、年に四回カラオケ大会をやるぐらいだから遊びにも熱心なイメージがある。山奥で人目を気にせずバーベキューなんかやるのは似合いそうだ。
(狂児さんにとっては、あそこが学校で、職場で、家族みたいなもんなんやろなあ)
恋人が暴力団幹部を続けることに関して、正直不安はある。
不安はあるが、四十を過ぎた人間から、友人と同僚と親同然のひとと、仕事と職場を引っぺがすのはさらに不安だ。
(……あかん。暗くならんどこ。今日はせっかく、デートなんやし)
聡実は小さく首を振り、足下に集中した。
しばらくは目が慣れないが、集中すると松ぼっくりはあちこちに落ちている。
しゃがみこみ、いそいそと手を伸ばした、そのとき。
「あの、すみません」
「えっ?」
不意に声をかけられ、ぎょっとして顔を上げる。
気づけば、視線の先にひとがいた。
地味な山着をまとい、少し猫背になって立つ黒縁眼鏡の男性だ。
(狂児さんと同じくらい……? も少し若いんか? なんや、わかりづらいな)
聡実が首をひねったのは、その男があまりに特徴に乏しかったからだ。
体型も、顔も、服も、何もかもが、ふつう。
とっかかりがなさすぎて、次会っても覚えていられる自信がない。
(圧つよ狂児とは正反対や)
妙に感心していると、男は気弱そうな声を出した。
「わたし、友人とふたりで登山に来たんですけれども。先ほど友人が、あっちの山道で動けなくなってしまいまして……」
「えっ、大変やないですか。ええと、キャンプ場のひとに来てもらいます?」
「そうしたいんですが、友人をひとりで残していくのも心配で……。すみません、わたしが連絡に行く間、付き添うだけでいいので。ついてきてくださいませんか?」
「……わかりました、それだけなら」
一瞬狂児のことが脳裏をよぎったが、まだ日は高い。
少しくらい寄り道をしても問題はないだろう。何より、緊急事態である。
すぐにうなずき、男の後について行く。男はそんな聡実の横顔を眺め、問いを投げた。
「ありがとうございます……ひとりでいらしてるんですか?」
「いえ。その……」
叔父と、とごまかそうかと思ったが、言葉をのみ込む。
聡実は柔らかく笑い、
「恋人と、来てます。僕よりゴツい恋人ですけど」
と、言った。
ついに言ってしもた……とも思うが、まあ、いいだろう。ここは旅行先だし、遭難した、しないの状況だ、他にも男手があると知らせるのは悪いことではない。
男はそんな聡実を見つめて、浅くうなずく。
「なるほど。わかります」
「え? 何が?」
まさか、男の恋人がいるのが見た目でわかるんか⁉ と、聡実は引きつる。
が、相手はまったく冷静に、三歩先を歩きながら言った。
「わたし、趣味で狩りをするんですが」
「狩り。鹿とか……?」
「はい。特に、兎が好きで」
(兎。日本にそんな、兎が狩れるところがあるやろか)
見当がつかないな、と思っていると、男が足を止めた。
くるりと振り向いた彼の手には、スプレーがある。
「あなたは兎です。猟犬に好かれるタイプだ」
至極淡々と言い、男はスプレーを噴射した。
聡実の、顔に向かって。
「っ……げほっ、ぁっ……ぁ、」
目の前にチカチカと星が飛んだ。ぴりり、という刺激が喉から入ってきて、肺でスパークしている気がする。吐き出したい。この刺激を吐き出したい、と、体が急激に反応している。しかし、激しく咳き込む前に、すべての感覚が遠くなる。視界が端から白くなり、喉を掴もうとした指の感覚は消え、木漏れ日、最後に、空の欠片が見えて――。
――暗転。
■□■
「ええ~? ですから、行けません。今俺、山ですって、山。はあ? ちゃいます、オヤジの山やない。まあ、ご近所ですけど。あんなとこ連れてったら、俺のセンセイが呪われます!」
売店に向かった狂児は、薪の束を抱えてうんざり顔でスマホと喋っている。
聞こえてくるのは、祭林組組長のダミ声だ。
『そしたらお前の射撃小屋か。また、えっぐいとこに連れてくのぉ。間違ってセンセイ撃つんやないで』
「撃ちませんよ。連れてきませんし」
狂児は憮然とする。
聡実には色々ぼかして伝えたが、実際、祭林組所有の山はこの近辺に存在する。穏便なところではバーベキュー、不穏なところでは諸々の処理のために確保してあるのだ。
そして狂児自身が、三十代後半で手に入れた狩猟小屋も、別に存在した。
所有の目的は、組長が言うとおり。
趣味の銃コレクションの保管と、試射である。
『せやかて、うちの山に近いんなら、お前の小屋もご近所や』
(しつこいオヤジや。あんなん俺がギラッギラしとった頃の趣味の家やし、万が一聡実くんに知れたら雷落ちるわ)
二十五歳年下の恋人と知り合ってから、狂児はこれでも『ふつう』に歩み寄ろうと努力しているのだ。譲れないところはもちろんあるが、見せなくていいものだってある。
三十代、やくざとしての仕事が軌道に乗り、何もかもをやり過ぎていたころ。
あのころの自分と自分の趣味など、聡実に見せなくていいものの筆頭だろう。
「土地勘あるから、ご近所選んだだけですよ。あの~、もう電話切ってええですかあ? 僕、ちゃんと休み捻出したやないですか」
『ええ歳こいてかわいこぶるな、気色悪いわ。しゃーない。そしたら、しっかりセンセイのこと接待するんやぞ』
「センセイは接待とかやないて……あっ、クソオヤジ」
向こうから勝手に切れた電話に毒づき、狂児は自分たちのキャンプサイトに薪を下ろす。周囲に聡実の気配がないのを確認し、スマホを見た。
「聡実くん、まだか」
キャンプ場周辺はWi―Fiも飛んでいる。
先ほどまでの浮かれた聡実なら、松ぼっくりの写真の一枚も送ってきそうなものだが、反応は何もない。
(夢中になっとるだけか?)
そうだと思いたいが、なんとはなしに気になった。
GPSアプリを起動すると、聡実がまだ松林付近にいるのは間違いない。間違いはないのだが、なんとなく放っておくのも気が引ける。
(ま、迎え、行っとくか)
年下の恋人はどうも、急に思い切りがよくなるところと、ひとの頼みを断れないところがある。そのせいで狂児などにとっ捕まったのだが、この特性は今も健在で、しばしば他の人間にもとっ捕まる。
とっ捕まる相手がただのキャッチや、近所のおばあちゃんなどならいいのだが、万が一凶悪犯でもとっ捕まえたら大事件だ。
(我ながら過保護やな)
自分で自分に呆れながら松林に入ったとき、狂児はぴくりと眉が動くのを感じた。
妙な、匂いがする。
明らかな刺激臭。
自然由来のものでは――ない。
(どっちからや)
神経がびりりと冴えて、視界が鮮やかになる。
体が、ここを修羅場だと認識している。
のどかな鳥の声と葉ずれの音が遠ざかり、自分の呼吸が大きく聞こえる。
刺激臭がするのは、松林の奥。
足音を潜めて進む。
常緑樹の森なのが幸いした。落葉が少ない。
木々の向こうに、ちらと人影が見える。
ひどく目立たない、灰色の山着。丸まった背。
聡実ではない。
そして、その足下に、何かある。
何か――誰か。倒れたひとを前に、そいつは自分のナップザックを下ろす。
カン、と頭が沸騰しそうになったのを、無理矢理引き戻す。
笑え。
こんなときほど。殺気を殺せ。
愛想のいい、一般人の顔で、へらへらと近づけ。
相手を、一撃でたたき伏せられる距離まで。
「こんにちはぁ。ええ天気ですね。登山です? キャンプです?」
自分でも笑えるくらい脳天気な声が出た。
あと、十歩。八歩。五歩。
そろそろ、手が届く。
灰色の男が振り向く。
「ああ、こんにちは。今日は、兎狩りです」
なんの特徴もない声で、男は言う。
(兎狩り?)
妙な単語に、一瞬気を取られた。
その瞬間に、びゅ、と、風を切る音。
何かが、顔の横手から襲い来る。
とっさに腕を交差させ、受ける。
ぱきっ、と、乾いた音がした。
(あかん)
狂児は目を見開く。
灼熱が腕に弾ける。
視界の端に、灰色の男が振るったものが見えた。
特殊警棒だ。素手の攻撃なら受けられたが、骨がいった。
んふ、と、笑い声が聞こえる。
痛みと衝撃。だが、倒れたら終わり。
狂児はぎりぎりで踏みとどまる。
男の特殊警棒が振り上げられる。
次は頭に来る。
とっさに判断して、地を蹴った。
前へ出る。男の腰にタックルを仕掛けた。
体格では、狂児のほうが上だった。
避けきれず、頭に灼熱が走る。
が、そのまま男を木の幹に押しつけた。
男がよろける。その腕を掴み、警棒をねじりとる。
同時に、反対の肘を男の側頭部に叩きこんだ。
確かな手応え。男はよろめく。
んふ、と、また男が笑う。
なぜ笑う。
たらり、と、血が狂児の顔に落ちてくる。
頭に傷が入っている。どれくらいだ。わからない。
わからないまま、相手の喉に警棒を突き出す。
男は避ける。異様な動き。
そのまま地面に転がって距離を取り、跳ね起きる。男はそのまま走って、松林の間に姿を隠した。
「……っ、たぁ……」
狂児は荒い息を吐き、血まみれの顔をぬぐった。
頭がガンガンと痛む。左腕も同様だった。一瞬でこんなに痛めつけられたのは初めてだ。相手は素人ではない。喧嘩慣れしたチンピラでもない。
とにかく、ここを離れなくてはならない。
ふらつきそうになる足を踏みしめ、倒れたひとに歩み寄る。
「……聡実くん」
嗄れた声をかけたが、そのひとは目を閉じたままだ。
一瞬心臓が酷い暴れ方をする。が、大丈夫だ。よく見ろ、死人の顔色じゃない。呼吸だってしてる。大丈夫、大丈夫だ。
とにかく、車まで連れて行く。
まずはそれすら、出来るのかどうか、怪しいところだ。
(なんや、久しぶりやな、こんな気分は)
孤立無援の無力感。四肢から力が抜けそうになるのを、ぐっと奥歯を食いしばって止め、狂児は気絶した聡実の体を担ぎ上げた。
■□■
聡実の目が一度覚めたのは、夕暮れのころだった。
(あれ……僕、どうして車で寝とるんやろ)
車の後部座席に転がって、山道の振動に揺られている。
体を起こそうと思ったが、全身が酷く重くて、ダメだった。
(多分、狂児と一緒に山行こ、って話になって……キャンプ場に、ついたような?)
だとしたら、どうしてまた移動しているのか。
わからない。
(狂児さん)
運転席の狂児は、前だけを見ている。
車の中が妙に甘ったるい、生臭い匂いで満たされているのはなんでだろう。
問おうにも、意識がおかゆみたいにどろどろで、またすぐに眠りの中に押し込められてしまう――。
二度目に目が覚めたとき、聡実はベッドの上にいた。
(んん……? 家ん中……?)
車の中で目覚めたときよりは、体が動く。
聡実はおそるおそる体を起こし、がんっ、という頭の痛みにうめいた。
(い、いたたた……なんやこれ……なんかされた? 殴られた……わけない。スプレー……せやった、知らん男にスプレー噴かれて……気ぃ失ったんやった)
急激に記憶が戻って、聡実はぶるりと震える。
まさか、あんなことが起こるなんて思ってもみなかった。
あの地味な男は一体何者で、自分はなんのスプレーを噴かれたのだろう。
怖い。狂児に、事情を聞きたかった。
(きっとまた、狂児さんが助けてくれたんや)
おかしなものにからまれやすい聡実にとって、狂児は一種のヒーローだった。薬でおかしくなった宇宙人を一撃で伸した他にも、狂児が出て行くだけで解決した事態は数多い。頼り切りの自分が情けなくはあるが、とにかく、今は心細かった。
(ここは、山小屋の寝室か)
こじんまりとした部屋は床も壁も天井も木で出来ており、装飾はほとんどない。ベッドにかかったキルトのベッドカバーが、かろうじて山小屋らしさを感じさせるくらいだ。
頭痛に気をつけながら慎重にベッドを降りた。
カーテンをめくってみると、外は夜だ。
九月とはいえ、ここも標高が高いのだろう。冷気が忍び寄ってくる。
聡実はドアに歩み寄り、押した。
が、何か、抵抗がある。
(鍵がかかってるわけやない。何か、重いもんが立てかけてある?)
少し迷った末に、思い切って力をかけた。
ドアは開き、ごとん、と、ドアに寄りかかっていた誰かが、倒れる。
(ちょ……きょ、狂児さん!)
ひやり、と肝が冷える。
倒れたのは、狂児だ。
野外用のランプひとつで照らされた、これもこじんまりしたリビングに、狂児が倒れている。聡実はとっさに狂児の顔をのぞきこむ。
ひっ、と、悲鳴が喉に引っかかった。
彼の顔は、半分が乾いた血に覆われている。
(うそ、狂児さ、ん、え? なに? 僕、声、出てへんやん!)
今にもその名を呼んですがりつきたいのに、喉が酷く痛んで声が出ない。
酷い風邪にかかったときよりも、さらに酷かった。喉にまったく動かないところがある。スポンジでも詰められたかのように、自分の体の一部が異物になっている感覚。
(まさか、あのスプレー……?)
心当たりはそれしかない。一体自分の喉はどこまでダメになったのか。
そもそも、狂児だ。狂児はどうしてこんな怪我をしているのか。
考えねばならないことが多すぎて、頭がの中身がぐちゃりとする。
そのとき。
「っ……たた……」
(狂児さん!)
低いうめきが聞こえ、聡実は必死に狂児にすがった。
狂児は眉間に皺を寄せ、右手で頭をかばうようにしてのろりと上半身を起こす。薄闇の中で、真っ黒な瞳がぎらりと光った。
(っ……)
ごくり、と、思わず唾を飲む。
なんだろう。すぐ側に居るだけで、ぞっとする、この感覚。
気軽に触れて、支えることすらためらわれる。
狂児は冷え切った目で周囲を見やり、雑につぶやく。
「あー……俺の小屋か」
(狂児さんの、小屋? ここが?)
聡実は軽く目を瞠り、狂児と同じように周囲を見やった。
リビングもまた、装飾の少ない簡素で機能的な作りだ。狂児がこんな小屋を持っているだなんて、初めて知った。
なぜ教えてくれなかったのだろう、と思って視線を戻すと、射るような瞳と目が合う。
顔を半分血で染めた狂児が、真っ黒な目をして、笑う。
「――で。きみ、誰?」