(仮)山行こ!【2】「――で。きみ、誰?」
(誰、て、僕は……)
あまりに意外な問いに、聡実の唇は震える。
「これやったの、きみ?」
狂児は乾いた血でぱりぱりになった前髪をつまむ。
そんなわけない、と思った次の瞬間、はっ、と腑に落ちた。
(怪我……頭の怪我や!)
狂児は多分、自分のせいで事件に巻き込まれたのだ。
顔が血まみれなあたりからして、頭を負傷したのだろう。
その拍子に、記憶が飛んだのではないだろうか。
(そんな……狂児、大丈夫なん?)
我がこと以上の不安に襲われつつ、聡実は必死に首を横に振った。
もしも狂児が、頭の怪我で自分のことを忘れているのなら――どうしたら、いい?
自分は声すらも、出ないのに。
■□■
目覚めた瞬間から、狂児の全身はバカみたいに痛んだ。
熱に浮かされたような感覚があり、頭痛が酷い。
他の痛みは、どこから来たのかもわからない。
(喧嘩……したんやろなあ)
狂児はうんざりと思い、血でぱりぱりになった前髪を揉む。
あまりに酷い頭痛で思い出すのも面倒だが、これだけやられたなら相手は複数だろう。
どうせ狂児のシノギが派手なのを逆恨みした奴らだ。
胆力のない無能こそ、かっさらわれた金を暴力で取り戻そうとする。
(俺のこと殴っても一円も儲からん。あほらし)
そんな暇があったら、少しでも何か学んで頭を使え、と狂児は思う。
所詮極道の世界も金、金、金で、金を稼ぎ出す奴が一番えらい。そういう単純なゲームなのだから、ちゃんとルールをのみ込んで戦えばいいのだ。少なくとも狂児はそうした。教わったルールを丸呑みにして、自分なりに転がした。
――このまんま行けば、三十代のうちに役職つくかもなぁ。
満足げに自分のことを見ていた小林のことを思い出す。
あれは、いつ言われたことだった?
(ああ、くそ、頭いった……)
低くうなって頭を抱えると、そっ、と誰かが袖に触る。
反射的に睨み上げれば、相手はびくりと震えて動きを止めた。
(で、このにーちゃん、なんなん)
目覚めた瞬間に視界に入ってきた、この男。
歳は十歳ほどは下だろうか。明らかにぽややんとしたカタギだ。
ランプで照らされた肌が異様に白く、真面目そうな眼鏡の奥で、薄茶色い瞳がガラスみたいに光っている。
透き通るような、なんて男相手に言う言葉ではないが、そんな印象の青年だった。
こんな華奢な男に殴り倒されたとは、はなから思っていない。
ただ、思い出せない。
(なーんか、距離近いねんな……)
やくざとして生きていくと決めたときから、あえて殺気を香水のようにまとう努力をしてきた。それこそが最低限のトラブル回避の方法で、礼儀だと心得ているからだ。
それをこんな兄ちゃんに無視されたら、心楽しいわけはない。
「それとも、俺に誘拐でもされたんかな、おにーちゃん」
痛みのイライラを載せて、狂児は低く歌うように言う。
青年は、見るからにびくりと震えた。
白い喉仏が、こくりと動く。
それを見ていると、心のどこかがざわめいた。
「ほらぁ、お返事は?」
問うた自分の声に、妙な色気が載っている。
血で汚れた指を伸ばして、喉に触れた。張りのある肌の感触。
ぞくり、と、ざわめきが強くなる。
(なんや、これは)
妙だ。この感覚は、知らない。
とっさにこの喉笛に噛みつきたくなる。
このまま首を掴んで押し倒し、渾身の力で締め上げたくなる。
腹の底から、ぞわぞわと切実な欲求がせり上がってくる。
暴力の気配。
なのに、憎くはない。倦みもない。
ただひたすらの、興奮――。
「…………ぁ」
狂児の変化に気づいたのか、青年がかすれきった声をあげる。
やっとその顔に恐怖が載ったのを見て、狂児は少しほっとした。
同時に、青年の異常にも気づく。
はくはくと空気を吸っているのに、ろくに声が出ていない。
「ん? ああ」
そういうことか、と思いながら、青年の喉を軽くつかんで、指で撫でてやった。
「っ、……!」
青年は身じろぐけれど、逃げる気配はみじんもない。
必死に顔をあおのけ、震えることしかしない。
なんて従順で、弱いのだろう。
てのひらの下でぴくぴく動く喉の感触が心地よくて、狂児の顔には薄ら笑みが載る。
「ちょお、思い出せんのやけど。その喉つぶしたの、俺?」
「……!」
さっ、と青年の顔が青くなった。
(かわいいなあ。子犬ちゃんやないか)
徐々に余裕が戻ってきて、狂児は喉の奥で、くくっと笑う。
なんだか従順そうな子犬だし、喉がつぶれているならうるさくもない。
狂児は青年から手を離すと、痛む体でどうにか立ち上がった。
「酷いことするなあ、俺は。あたたた……あーくそ、なんで腕イカれとるんや~。お久しぶりの戦争か? きみぃ、なんか覚えとる? 覚えとっても答えられへんやろけど」
雑に話しかけながら、小屋のキッチンへ向かった。
気絶前のことはどうにも記憶があやふやだが、この小屋のことはわかる。
組の連中にも詳しい場所を教えずに買った山荘で、普段使っていないぶん日用品の多くは野生動物の食害を防ぐため、冷蔵庫に入っているはずだ。
ぱか、と開けると、ぶぅん、と音がする。
(電源入っとる。俺が入れたんか)
おそらくは、そうなのだろう。冷蔵庫の中には煙草や非常食が揃っている。
煙草を引っ張り出して一本雑にくわえると、ポケットからジッポを出して火をつけた。
紫煙を吐くと、少しだけ頭がすっきりする。
(……で。明らかにやられとんのは、頭と腕かあ。どうにかせんとあかんけど、片手でやるの、面倒やな)
ちらり、と青年のほうを見ると、すぐにばちんと目が合う。
相変わらずおびえきっているようなのに、なぜか狂児から目を離さない。
逃げる気配もないし、本当に、一体何者なのだろう。
(ま、もうちょい落ち着いたら、思い出すやろ)
それまで少し利用させてもらうか、と思い、狂児は猫なで声を出した。
「なあ、兄ちゃん。ちょっとお手伝い。痛いことせんから、こっちおいで」
「…………」
不安げな顔のまま、青年は素直に寄ってくる。
心配になるくらい素直やな、と思いつつ、狂児は彼にニコニコと指示を出す。
「寝室のほうに救急箱あるから、持ってきてくれる? お願い」
すると青年はこくんとうなずき、言われた通りに寝室へ消えた。
(……なんやろな、あの子。こんなけが人相手に、逃げる気ゼロやん。従順すぎて心配なるわ)
狂児は少し怪訝な気分になりながら、シンクの蛇口をひねる。
水も、出る。
自分はこの小屋を使う気で準備して、力尽きている。
一体なぜ。
(この小屋使うときは、面倒ごとの処理か、銃の試射。他人は連れて来ぉへん)
水の下に頭を突っ込むと、山の湧き水の寒さが肌に染みた。が、そのおかげで傷の痛みは鈍る。頭と顔から血を洗い流して顔を上げると、そこにはやはりあの青年がいる。
大分低いところから、じっと見上げてくる瞳には、妙な色がある。
優しさと、侮り。
いや――違う。
もっと、やわらかい。
慈愛と、心配……?
(俺に?)
思わずまじまじ見つめていると、青年がタオルを押しつけてきた。
「あら、気ぃきくやん」
へらりと笑って狂児が髪を拭いている間に、青年は救急箱を開けていた。
消毒薬、ガーゼ、医療用テープ、三角巾、痛み止め。
おおよそ必要そうなものを準備する手際にも、迷いがない。
「なんや、慣れとるね。あと、冷凍庫から冷やすやつと。あー、どっかに段ボールないかな。腕に当てとく用」
新たな指示を出せば、これもさくさくと片付けられた。
狂児は、自分の腕をタオルで包んだ冷却剤で冷やし、添え木をして三角巾で縛っていく青年を、じっと見下ろす。
清潔に借り上げられたうなじ。
やっぱり、噛みつきたい。
思い切り力を込めて、肌がぶつんと切れる寸前まで痛めつけたい。
きれいな若者の匂いを嗅ぎながらしなやかな肌を見ていると、すぐに興奮がひたひたに満ちてくる。
「なあ。俺、ひょっとしてきみのこと抱いとった?」
「っ……」
ぱっ、と青年が顔を上げた。
(あら、顔真っ赤)
耳まで真っ赤にして睨み上げてくる青年は、ずいぶんと幼く見えた。
なんだか嬉しくなってしまって、狂児は台所の灰皿に灰を落としながら言う。
「図星の顔や~。なんや色っぽいもんなあ、きみ。大人しい顔してウリの子? いくらでここついてきたん? それとも、なんかの落とし前?」
積極的に男を抱いたことはないが、やり方は知っている。
これだけ興奮するなら、充分抱けるだろう、とも思う。
あんあん言う女に飽きたり刑務所で味をしめたやくざが、より征服欲を満たそうとして男に手を出すのもよくある話だ。
狂児は短くなった煙草を手に、目を細める。
「あのなぁ。もう説明したかどうか思い出せんのやけど、この小屋、他人に知られたらあかんとこやねん。だから、きみ、生きてここは出ていかれへんの」
青年の目が見開かれる。
(ほんまにきれい)
こんなにもきれいなものを目の前にすると、どうしても心がざわついてしまう。
指に挟んだ煙草を、きゅっとここに押しつけたら。
この目はどんなふうに灼けるのだろう。
酷い想像だけれど、きっと自分はこの青年を殺すのだろうから、遠からずもっと酷いことをする。
そうでなくて、どうしてこんなところにふたりでいるのか。
(思い出したいけど、思い出したないな)
この青年がひどくくだらない理由で殺されるのだとしたら、そんなもの思い出したくもない。そんなことより、痛みも遠のくような、この甘ったるい気分に浸っていたい。
見上げてくる瞳に顔を近づける。
「気晴らし、する?」
ふう、と煙草の煙を吐きかけて、たっぷりの毒を注いだ甘い声で囁いてやる。
「っ、けほっ……」
咳き込んだ青年の、透明な瞳がゆうらり揺れて、奥に淡い熱がともったのを見た。
狂児は、ふ、と笑って、煙草を消した。
そのまま、青年の目の上に唇を落とす。反射的に閉じられたまぶたに、唇が触れる。
まぶた、鼻筋、唇の端。決定的ではないところばかりにキスを落とすと、そのたびに青年はかすかに震えた。
するりと顎の下に鼻先を滑り込ませて、喉仏にキスをする。
ひときわ体が跳ねた気がして、喉の奥で笑った。
「――声出ないの、かわいそうでかわええね」
喉に唇を触れさせたまま囁くと、青年の喉が痙攣する。
ちら、と見れば、青年はぎゅっと目を閉じたまま、何かを堪えているようだった。
目の端から堪えきれなかった涙が零れる。
ぞわり、と心臓が心地よくなり、狂児は熱い息を吐く。
(泣いとる。かわいそ。かわいい。かわいい――)
頭の中が、甘ったるい。
もうすぐ、本格的に情欲に火がつくのがわかる。
この喉笛に噛みついて血を流させるか、組み敷いて女みたいに啼かせたい。
どちらもいい。
どちらも狂う。
ふう、と息を吐き、狂児は青年の胸に手を置いた。
そのままぐい、と押して身を離し、にっこり笑う。
「寝室で待っといて。薪取ってきてストーブ焚くわ。続きは、その後な」
気づけば、辺りはしんしんと冷えている。
山の、長い夜が来る。
■□■
(……狂児のアホ……)
寝室に追いこまれ、外から鍵をかけられた途端、悔し涙が聡実のまぶたを割った。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
ぐちゃぐちゃにしたのは狂児だ。
いつだって勝手で、唐突で、言ってみれば異常な男だ。
振り回され続けている自覚はある。
が、今回は度を超している。
(大怪我して記憶飛ばしたあげく、なんや、あれ)
黒くうろんな瞳で自分をねめつけ、殺気まじりの甘ったるい声を出して。
ナイフでいたぶるみたいに、肌に触れて。
ウリだのなんだの言ったあげく、殺すだなんだと、脅しつけてきた。
(……ちゃうねん。多分、ほんまに、殺すなんや、あいつ)
そう自覚すると、ますますぼろぼろと涙が零れた。
話しているかぎりでは、狂児はここ数年……下手をすると十年くらいの記憶をすっ飛ばしている。聡実と出会った三十九歳よりも前の感覚でものを言う。
そのころのことは、狂児自身からも聞いたことはなかった。
が、三十九歳で若頭補佐になっていたあたりから、若い頃の無茶は想像がつく。
ちょうど無茶をしていたころの人格に戻った狂児には、カラオケに誘ってきたころの愛嬌もなければ、空港で再会したころの疲れた落ち着きもない。
あるのは、むき出しの殺意。
(阿呆。僕のこと殺して、どうするつもりなん。そのあと記憶戻ったら、どうするねん)
いっそ一生忘れてくれるならいい。
だが、万が一にも、聡実のことを思い出すことがあったら。
――想像するだけで頭が痛い。
ダメだった。
殺されるわけにはいかなかった。
どうにかして、今の狂児と意思疎通を図り、生き延びなければ。
そのためになら、なんだってしよう。
聡実は思う。
(でも、どうやって? なんか、筆談でもなんでもええから、話す?)
メモでもなんでも持っていないか、と自分の体を探っていると、不意に枕元に置いてあったナップザックが震えた。
「……?」
ぎょっとして中を開いてみると、自分のスマホが震えている。
(えっ。こんなんが没収されてないんか)
狂児の奴、甘いんちゃう、と思いつつスマホを手にして、あっ、と思う。
(そうか。狂児の記憶が十年くらいすっ飛んどるとしたら……そのころのスマホ、衛星リンクしとらんわ。山ん中じゃ通じないと思っとるんか)
そうだとしたら、不幸中の幸いだった。
さらに着信の通知を見て、聡実は大急ぎで通話ボタンを押す。
『――聡実センセイか。狂児のアホはそこにおるか? おったらはよ電話取らんかい、このボケぇ! 言うとったって。そっちから県警に連絡取るよう言うてきたんに、さっぱり出えへんやないか。ええ? ……なんや、だんまりやな、センセイ。どうした?』
(組長や)
カラオケ大会で出会い、その後も何度か挨拶したことがある。
これは祭林組組長の声だ。
自分を覚えているひとの声に安堵して、聡実はため息を吐いた。
が、それ以上しゃべることはできない。
もどかしく沈黙していると、組長の声音が代わった。
『……言えん状況か? 夕方の連絡のとき、狂児も怪我しとったな。……あー、わかった。ええか、体動くなら、近くのもん叩け。はい、が一回、いいえ、が二回。どっちでもなきゃ三回や。できるか?』
さすが、という他ない判断に、聡実は相手に見えないのを知りながらうなずく。
部屋の隅で膝を抱えて、壁を叩く。
一回。
『よぉし。センセイ、狂児は無事か? あいつ、電話出ぇへんねん』
二回。
『死んだ?』
二回。
『生きてはおる。けど、電話には出せんか。……わかった、ひとまずセンセイに説明しよ。キャンプ場で妙な男に襲われたらしいな?』
一回。
『そいつの正体なぁ、公安出の狂犬や。センセイは法学生や、公安わかるな? テロ集団に潜入捜査しとった公安が、気ぃくるってしもたんやと。人間追いこむ狩りがくせになってしもて、地味に殺してまわっとる』
……一回。
『びびるわなあ、そんなん。そいつの面倒なとこなんやけど、半端に歯ごたえある奴が好きらしいねん。運が悪い、で済ませたないけどな、狂児とセンセイ、見込まれてしまったんやろな』
一回。
『今は狂児の小屋か?』
一回。
『わかった。警察には、大体の位置知らせとくわ。狂児の子飼いも助け行く言うて張り切っとるけど……組のもんも、そこの正確な位置はわからん。結局のとこ、自分の身は自分で守るしかないかもしれん』
……一回。
『運試しやな、センセイ。ま、狂児は運はええほうや。よろしく伝えたってな』
そこまで語って、組長の電話は切れた。
(……夢のようやな。悪い夢)
自分に降りかかるとは夢にも思わなかったことが、どんどん振ってくる。
思えば、十四の梅雨の時期から、ずっとそうだったかもしれない――。
そんなことを思っていると、かちゃり、と鍵の外れる音がした。
「大人しくしとった? 子犬ちゃん」
のんびりとした声と共に、扉が開く。
向こうではストーブが燃えているのだろう。
火の気配がこちらまで漂い、うっすらと男の輪郭が浮かび上がる。
「それとも兎なんかな」
乱れた髪で笑っている男は、見ているだけでぞわつくほどに殺気がむき出しだ。
手負いの獣。こちらを食い散らかす対象としか見ていない、けだもの。
だが、こいつもまた、他の獣に狩られている。
ただ、そのことを忘れているだけ。
(……どうにかしてこの男、使えるようにせんとあかん)
聡実は、腹の奥にどすんと覚悟みたいなものが決まったのを感じた。
自分たちは、狙われている。ならば、せめて、協力関係を築かなければ。
すべてを忘れられたとはいえ、一度愛し、愛された男だった。
もう一度、つかまえる。
こいつを生かすために。