ハニーの日 痛いほどに突き刺さる視線。
それもそうだろう。目の前で瓶に入った蜂蜜を素手で掻き回している姿を見せつけられて、不快に思わない人間の方が少ない。
ラスカル・スミスは眉間に皺を寄せて、心底嫌そうな表情を刻みながらも、椅子から動かない。紫草がそう依頼したから。
ここは紫草の部屋。
紫草の依頼を受けて、ラスカル・スミスはここに居る。つまりは、彼女は紫草に買われた存在であり、紫草には逆らえない、ということだ。もちろん制限はあるが。
「嫌そうだね」
「当たり前だろ。急に呼ばれたと思ったらこんなものを見せられて、気持ち悪いと思わない方がどうかしてるぜ」
「だったら帰れば良い。ただし、その場合は契約不履行。支払いは無し」
紫草がそう言えば、不満タラタラ、と言うように口を尖らせるラスカル。
そんな顔をしても愛おしいだけなのにねぇ、と口には出さずに、微笑むと。
「さぁ、そろそろかな」
紫草は立ち上がり、ラスカルの前に立つ。
ラスカルは上目遣いで、忌々しげに、紫草を見ていた。これからやらされることを想像したのだろう。
「さぁ、どうぞ」
「どうぞって、君なぁ」
ラスカルが大きなため息を吐く。
「確かに、ぼくは便利屋として君に雇われた身だよ。だからって、そんな不衛生なものッ!」
話の途中で、紫草はラスカルの唇に己の手を擦り付けた。ベタベタと広がる蜂蜜が、ラスカルの口元をてらてらと濡らしていく。
「安心したまえ。大事な大事な君に、不衛生なものを私が与えるわけがない。君が来る前にきちんと手を洗ったさ。ブラシを使って爪の間まで、皺の一本だって見逃さず。その後はアルコール消毒。もちろん、人体に無害なものでね」
にっこりと紫草が笑えば、人よりも発達した犬歯が覗く。
紫草はもう一度、瓶の中に手を突っ込んで蜂蜜をさらうと、ラスカルに近づけた。
顔を背けるラスカルの唇に爪で触れて、それをこじ開ける。案の定、歯をかみ締めていて、それ以上の侵入を許そうとしていない。
「強情な子だねぇ」
瓶をテーブルに置くと、その手でラスカルの顎を掴む。無理矢理に自分の方を向かせ、顔を近づけた。
「私は君の時間を買った。今の君は私のものだ。私の言うことを聞かないのなら私の好きにするけれど、良いのかい?」
睨みつけるラスカルの瞳に紫草が映る。我ながら極悪な顔をしているな、と舌なめずりをすれば。
ラスカルは小さく息を吐いた。諦めたように。閉じていた口を開く。
瞬間、彼女のペースなど無視をして、紫草は指を滑らせた。
「うぁ……っ」
呻くラスカルを無視して、紫草は彼女の口内へと侵入していく。好き勝手に指を動かし、蜂蜜を擦り付けた。
「甘いだろう?君のために特別高価な蜂蜜を用意したんだ」
ラスカルが紫草の手を掴んだ。思わず、というところだろう。これくらいの抵抗がないと面白くない。それに、こんなもの抵抗にすらならない。今の紫草の前では。
好き勝手に、だけど傷つけないように、紫草は指の神経全てを使ってラスカルの口内を味わう。
猫を撫でるように。優しく、優しく。ラスカルの口内を愛でる。
舌を撫で柔らかさを確認し、歯をなぞって並びの良さを楽しんで、下顎の付け根から舌を伝えば、ラスカルの肩がビクリと跳ねた。上顎の形を確認してから指で舌を揉む。
ラスカルはと言えば。
息は上がり、涎を垂らし、時に小さな呻き声を出す。
紫草を睨みつける瞳には。
不快。
不満。
恐怖。
そして、瞳が物語る感情の裏に隠れた、薔薇色の小さな灯火。
紫草はゾクリと心臓を震わせた。
ああ、これだ。これが見たかったんだ。
勝手知ったる何とやら。
ラスカルと紫草は見つめ合いながら、蹂躙され、蹂躙する。
そうしてどれ程の時間が経過しただろうか。ラスカルの瞳から涙が一筋。同時に、ケホッと小さく咳き込んだ。恐らく唾液が気道に入り込んだのだろう。
ここまでか。
名残惜しげに舌を強く嬲ってから指を抜くと、ラスカルは口元を抑えて咳き込んだ。
紫草は慌てることもなく、予め用意していた水をラスカルに渡す。
「飲みたまえ。悪かったね、やり過ぎたようだ」
ラスカルは素直に受け取ると、ちびちびと水を飲んだ。自分を落ち着けるように。今あったことを無かったことにするように。疑うことなく、紫草が出した水を飲んでいる。
「それに何か入ってたら、君はどうする?」
問えば、ラスカルが潤んだ瞳で紫草を睨め付ける。
「今日の、仕事はコレだろう?もう終わったのならコレ以上は無いはずだぜ」
「その確信はどこから?もし私が」
「君はぼくを傷つけないからね」
紫草を遮ったラスカルの言葉に、驚いた。
「君はぼくを辱めても、傷つけたりはしない。してこなかった。違うかい?」
相変わらずちびちびと水を飲むラスカルは、案外落ち着いているらしい。
水が半分以上減ったコップを取り上げると、タオルで口元を拭いてやる。
「さぁ綺麗になったよ、お嬢さん」
「……お嬢さんはやめろよ」
「これは失礼。Mr.ラスカル・スミス」
ラスカルは無反応で口元をガシガシと拭うと、流れるように両手で目をゴシゴシと擦った。
パッと手を離せば、いつものラスカル・スミス。ふにゃふにゃとして、どこか危なっかしく、愛おしい。
汚れないために敷いていた膝の上のナプキンを取り払えば、彼女はスッと立ち上がる。まるで何事も無かったかのように。
「時間だぜ?」
チップを寄越せ、と指が品なく動く。
紫草は用意してあった紙幣を器用に綺麗に折りたたむと、ラスカルの上着のポケットに入れた。
「落とさないように。スられないように気をつけるんだよ」
「馬鹿にしないでおくれよ」
パッパッと肩やスカートを払うと、ラスカルは玄関へと向かう。ドアノブに手をかけて。
「ご利用ありがとうございました」
機械的にそう言った。
紫草が濡れた手でひらひらと応えれば、ラスカルは口元を歪めた。
扉を開けて、出ていく瞬間。
こちらを振り向き何かを言いかけて、そのまま出ていった。
遠ざかる足音を聞きながら、紫草は己の手を見つめる。先程までラスカル・スミスの口内を弄んでいた、その手。
蜂蜜の甘い黄色はどこにもなく、ラスカルのものと思われる唾液が、照明を反射してツヤツヤと瞬いた。
「またのご利用を待っていて、ラスカル・スミス。必ず君を指名するからね」
呟いて、紫草は唾液に濡れた指を舐める。
紫草の心臓には、ラスカルの瞳の奥の奥に隠れた薔薇色と同じものが、揺らめいていた。