violet 紫草は鏡を見ることが好きではない。
正確には自分の顔が・・・・・・いや、自分の瞳が嫌いなのだ。
目つきの悪さは発達した犬歯と相まってとても良いバランスを保っていると思っている。鼻は低く、彫りの浅い、日本人らしい平たい顔をしているが、全体的に見れば悪くない方だろう。
と言っても、お世辞にも優しい顔つきとは言えず、犯人顔という表現が正しいものではあるのだろうが。
吊り上がった瞼の中に在る、眼球。
薄紫に染まった瞳の中の虹彩は、白い。
通常とは逆の色合いを持った眼。この配色が紫草を紫草たらしめているとも言える。が、紫草はこの瞳を目に映したくない。映したくなくなった。
人とは違う自分を嫌でも自覚させられるから。
人と同じになりたい訳では無い。ただ、配色が逆だったのであれば。
「客人を放っておいて身だしなみのチェックかぃ?」
後ろから聞こえた声。
振り向けば、紫草の世界を一気に華やかにさせるラスカル・スミスが、そこに立っていた。
「おや、来ていたのか。気づかなくて申し訳なかったね。出迎えに熱い抱擁を交わしたかったのに」
紫草がそう言えば、ラスカルは心底嫌そうな顔で。
「きょうせいわいせつってやつで逮捕だな。抱きしめられるのは勘弁だけど、きみが逮捕されるのは大歓迎だぜ?」
「私の家に来ている時点で合意の上だろう?」
「仕事だよ・・・・・・」
ラスカルが大きなため息を吐く。
彼女は親しい仲間たちと何でも屋を営んでおり、ことある事に紫草に指名され、この家に呼び出されているのだ。
本人にとってはたいへん不本意。しかし、紫草は何でも屋の中でも常連かつ上客の類なので、断るに断れない。 中々客が来ない何でも屋にとって、紫草の依頼は渡りに船。断る理由がないのだ。金銭の前にはラスカルの人権も軽くなる、という所が何でも屋らしい。
「目でも痛いのかぃ?」
「おや、何故?」
「ずっと鏡を睨んでいたからさ。今にも鏡に襲い掛かりそうなほど凶悪だったぜ」
「君が私の心配をしてくれるとは、嬉しいねぇ」
「きみの心配じゃない。鏡の心配さ。壊されたら可哀想だろぅ?
それで、今日は何をされるんだぃ?」
本日二回目の大きなため息。それに含まれるは諦め。
ラスカルは紫草によって様々な辱めを受けている。彼女にとって屈辱的な姿を見るのが、紫草のお気に入りなのだ。
「きみのおかしな性癖に付き合わされるぼくのことも考えてほしいもんだぜ」
じとり、とした瞳が紫草を見上げる。
好意など微塵も感じられない、昏い瞳。その視線が紫草を昂らせていることをラスカルは知らない。無自覚とはかくも罪深きものなのだ。
「・・・・・・しない」
「へぁ?」
紫草の言葉にラスカルが変な声で応えた。
「今日は何もしない。何もしない、を、する」
訳が分からない、と困惑を浮かべるラスカルの横をすり抜けると、紫草はリビングへと向かう。
「きみからのキャンセルってことかぃ?」
心なしか嬉しそうな声。
それもそうだろう。紫草から離れられる上に、当日キャンセルとなれば法外なキャンセル料を請求できる。ラスカルにとっては良いことしかない。
「君、聞いてたかい?することはする。キャンセルはしないよ。」
「なぁんだよ。期待させないでくれ」
「勝手に期待したのは君だ。
さぁ、立ってないでとりあえず座りたまえ。お茶でも煎れよう。この間、良い茶葉を手に入れてね、
・・・・・・どうしたんだ?」
紫草の言葉に、ラスカルは反応しない。先程よりもジットリとした目で、疑わしさを隠さない視線を送ってくる。
今度は紫草が小さなため息。
「信用がないな」
「ぼくにあれだけのことをしておいて、いまさら信用もなにもないだろぅ」
「それでも流されるように受け入れてきたのは何処の何方かな?ラスカル・スミスくん?」
ぷすん、とラスカルから漏れる鼻息。
流されている。ラスカルはいつもそうだ。紫草の巧みではない言葉と雰囲気に騙されて、流されて、いつも痛い目を見ている。そんな紫草のことを信用するなんてこと、無理だ。
しかし。
「風邪でもひいたかぃ?」
「……何故?」
「それとも頭でも打ったとか?あぁ、燃え尽き症候群かもしれないなぁ病院なら付き合ってやっても構わないぜ」
ラスカルの言葉に紫草がクスクスと嘲笑う。
「君に心配されるとは、中々愉快なものだな」
「心配なのはぼくの体さ。きみに異常があったらぼくの安全が保証されないだろぅ?」
「そこは安心したまえ。私がどんなに狂おうと、ラスカル・スミスを傷つけることはしないよ。抱きしめさせてさえくれれば十分さ」
「ぼくのメンタルは無視か」
言葉通りラスカルを無視して、どうぞ、と椅子を勧めれば、彼女は素直に腰かける。
意識的になのか、無意識なのか。ラスカルはいつの間にか紫草の言葉に従順になりつつある。気がしている。
「よく分からないけどお茶はいただくよ。良い茶葉なんだろ?」
「ああ、仰せのままに。君には珍しいものかも知れないなぁ」
「変なものを飲ませたら承知しないぜ?」
ギロリ、と鋭い目つき。と、見え隠れする硫酸が入ったと思われる小瓶。
何かをすればあの小瓶の中身で焼かれるのだろうか。例えば、この眼とか。
「ニヤニヤして気持ち悪いぜ。あ、いつものことか」
あっけらかんとラスカルが言い放つ。
そんな彼女の前に茶托に乗せた湯呑みを置いた。横には艶々とした黒い小さな長方形の棒。
「なんだい?これは」
「良いお茶さ。ご覧あれ」
そう言うと、紫草は急須から茶色の液体を湯のみへと注いだ。
全てが珍しいようで、ラスカルは興味深そうに眺めている。
「紅茶?とは違うなぁ……香ばしくていい匂い」
「そうだろう?これは焙じ茶と言ってね、緑茶の一種さ」
「リョクチャって日本の飲み物だろう?あれは緑色だったと思うけど」
「これは茶葉を焙煎してあるのさ。珈琲豆のようにね。そうすることで香ばしさが増して、緑茶独特の苦味や渋みが飛ぶ。色も変わる」
さぁどうぞ、と促せば、ラスカルは恐る恐る湯呑みを手にした。小さなラスカルには少し深い大きめの湯のみ。
手に馴染むあたたかさと独特の香りに安心したのか、ふにゃんと表情が崩れる。
ズズ、と一口飲めば、不思議そうな顔をして二口、三口と飲み続ける。
「ふっ、そんなに気に入ったのかい?」
「初めての味だ。いい匂いだし、さっぱりしてる。日本のお茶はもっと渋いと思ってたよ」
「あぁ、それが焙じ茶の特徴さ。お茶請けもどうぞ。デザートだ」
紫草も椅子に座って焙じ茶の香りを味わう。
ラスカルはお皿に乗った黒い短い棒をまじまじと観察していた。
「これは、ふがしを固めたもの?」
「ふがしは知ってるのに羊羹は知らないのか?」
「ヨウカン?建物みたいな名前だなぁ」
「君はとことん不思議な子だ。騙されたと思って一口かじってご覧」
「きみに騙されるのはもう慣れたよ」
ラスカルは添えられたフォークを掴むと羊羹に突き刺した。小指ほどのそれを、半分ほど口に入れる。噛みきって、咀嚼して、ごくりと喉を鳴らせば、ふにゃりとした顔が更に緩む。
「ご満足いただけたかな?」
「なんだぃ?なんだぃこのお菓子は?柔らかくて甘くてツルツルで、溶けていくようになくなったよ!?」
「だから言っただろう?羊羹という日本のお菓子だ。君の知り合いが住んでるものとは全くの別物さ。
それにしても、君。意外とものを知らないんだな」
紫草の言葉にラスカルがムッとした言葉で返す。が、口の中で羊羹の余韻を味わっているようで、迫力は全くない。
「仕方ないだろ!ぼくはずっと、」
「あぁ、知ってるよ」
紫草が遮る。
聞きたくない。知りたくはあるけれど、今はそんな話が出来る気分ではなかった。
ラスカルはキョトンとした顔で焙じ茶を啜る。先程とは違う、紫草の様子を窺う視線だ。
「きみ、やっぱり変だぜ?」
覗き込むラスカルの瞳。窓から差し込む陽光がそれを照らす。
昏い水色が輝く様は美しかった。耐え難いほどに。
紫草はつい目を逸らす。いつもならいつまでも見つめられるのに。
明らかにおかしい紫草の様子。それでもラスカルはそれ以上何も言わない。紫草に興味が無いのか、それよりもお茶と羊羹の方が大事なのだろう。ふにゃふにゃとしたゆるゆるの表情で二つを味わっている。
きれい。きれい。
きれいなラスカル・スミス。
君のことをどこまでも知りたい。
痛みで。涙で。甘さで。優しさで。魂で。
その奥にあるのは、きっと。
「ねぇ、お茶のおかわりをおくれ。これ本当に美味しいねぇ」
ラスカルは羊羹より焙じ茶をお気に召したらしい。もう一度煎れてやれば、漂う香ばしさをいっぱいに吸い込んだ。
かわいい。かわいい。
かわいいラスカル・スミス。
私は君なしじゃ居られない。
どうか私を。
そこまで考えて、紫草は犬歯を覗かせた。
汚い欲望で縛り付ける方法しか考えられない自分が愛されるとでも?ああ、人生はそんなに甘くないのさ。
せめて、私の瞳が他のもののように美しかったら。
美しかったら、どうだと言うのだろう。
ラスカルは焙じ茶に羊羹にご満悦だ。
紫草の冷めた焙じ茶は、少し渋さが増していた。