はしごの詩 イブムニアという国において知らぬ者は居ないであろう、株式会社ブランクイン。そんな誰もが憧れる大企業ばかりが立ち並ぶオフィス街の中心。の、中小企業ゾーンを抜けた先。国の西側にある住宅街に程近い場所に広がる公園。
お昼時はオフィス街や住宅地に住まう家族で賑わう場所だが、ピークを過ぎれば老夫婦が犬を連れて散歩したり、学校終わりの学生が少しはしゃいだり、鳩の鳴き声が聞こえる程度には居心地の良い場所。
国の治安とは無関係と思えるようなのほほんとした公園で、遠山鎮巳は日向ぼっこを楽しんでいた。
今日は平日。もちろん会社がある。しかし鎮巳の勤める株式会社ブランクインは大企業らしくフレシキブルな業務形態を採用している。曰く"朝は早くても8時、遅くても10時までに出社すること”"遅くても19時までに退勤すること”とのこと。この二点さえ守っていれば後は比較的自由であり、朝早く来て夕方ごろに帰る社員もいれば、ギリギリに来てギリギリに帰る社員もいる。自分の仕事を終えて昼過ぎにさっさと帰宅する者、そんな同僚に泣きついて助けを乞う者。哀れな同僚を尻目に優雅に昼食や休憩を楽しむ者など、様々だ。
つまり、株式会社ブランクインでは出社と退勤の時間以外は決まっていない。だからこそ、鎮巳はピークが過ぎた賑やかすぎない公園でゆったりと日向ぼっこを楽しめる、というわけだ。もちろん自身に割り当てられた仕事は終わらせている。すぐにでも帰れる状況ではあるが、今日のように天気が良い日は、公園の隅、誰の邪魔にもならない、だけど公園を見渡せる陽当たりの良いベストポジションで、自分の時間を楽しむことにしている。鎮巳なりの癒しである。
この時ばかりは普段つけてるお面も外すのだが。
「あれ?きみは、えぇっと……ねこくん?」
ぼんやりとした声に、鎮巳はサッとお面を被った。
鎮巳は決して「ねこくん」という名前ではない。ではないが、声に聞き覚えがある。視界の隅に翻る、くすんだ水色のスカートと、緑色の三つ編み。
「ラスカル・スミス、さん……」
鎮巳を呼んだのはラスカルだった。
ラスカル・スミス。イブムニアで一番有名な、最強最悪の殺人鬼。その実は、国家に翻弄された哀れな少女、とも言える。しかも、鎮巳との因縁も浅くはなく。
「あの、その、あの時は……ほんとに」
「またその話かぃ?もう大丈夫だよ、気にしないでおくれ。ぼくは生きてるし、きみにも何か事情があったんだろぅ?」
こてん、と首をかしげながら聞くその様は正に可憐な少女。この少女を鎮巳は殺そうとした。己の私利私欲のために。計画のために必要だったから。殺意は……あった、と思う。だからこそ彼女に対しての疚しさが消えない。
そんな鎮巳の心情など知らないラスカルは「よっこいせ」と老人のような掛け声で鎮巳の隣に座った。
「きみは、よくここに来るのかぃ?」
「あぁ、はい。あの、休憩の時に、今日みたいな晴れた日は」
もごもごと答える鎮巳。罪悪感で言葉が出ない、のではない。彼はいつもこうなのだ。人見知りで、人と接することが苦手で、上手く言葉が出てこない。
「ふぅん、それにしても、すごい数だねぇ」
「えっと、何が」
「何がって鳩さ。駅前のロータリーにだってこんなにたむろしやしないぜ?」
言いながらラスカルが指さす鎮巳の足元には、鳩の群れが出来ていた。数羽、十数羽なんて数じゃない。まるで一個大隊のように鳩が群がっており、何羽かは鎮巳の足やら肩やらに乗っている。ラスカルは地面に届いていない足でちょいちょいと鳩をからかっていた。
「あっいつも、こうだから」
「いつも?」
「うん。たぶん、これが目当て……えっと」
もたもたとランチバッグから出てきたのは、食パンが入っていたであろう透明なビニール袋。スーパーでよく見かける馴染みのある袋だ。だけど、中身は食パンではない。ラスカルには見たこともない、石のような茶色い塊がごろごろと入っていた。
「きみの国では変わった石を食べるんだねぇ」
「石……じゃないです。これは、」
鎮巳が説明しようと一個取り出した瞬間、鳩たちの目つきが変わる。今まで鎮巳に懐いていたと思われていたその目に宿る凶暴性。皆、鎮巳が手に持っているものを狙っていた。
見かねた鎮巳が袋の中で数個、石を砕く。簡単に小さな破片となったそれらを遠くに投げれば、小隊がばさばさと飛んでいく。くるっぽー!!と鳴きながら奪い合う鳩たち。何ともイブムニアらしい光景だ。
「鳩のごはんだったわけか」
「いえ、それも違くって」
ある程度、鳩を遠くに追いやると、鎮巳は砕いてないひとつを取り出した。
目の前に掲げられた、石のようなもの。ごつごつとして、濃い茶色で、なんだか甘い香りのする、それを、鎮巳は半分に割る。半分は一口で自分の口へ。半分はラスカルに渡した。つもりだったのだが。
ラスカルは犬か猫よろしく鎮巳の手にあるものを小さくかじっていた。
思わぬ展開に鎮巳は慌てた。女性への免疫など皆無に等しい純粋な鎮巳にとって、ラスカルの行動は正に想定外であり、初めての出来事だ。
「あの、その、ラスカルさん!」
「んん?ああごめんよ。ぼくの口には大きすぎて一口では無理みたいだ」
ラスカルは鎮巳の様子の変化に気づいていない。彼女も彼女で他人への興味が薄すぎるためだろう。
サクサクと、小気味良い音を立てて、食べ続けているラスカル。
遠くで鳩が鳴いている。くるっぽー。くるっぽー。くるるっぽー。
なんだろう。何なのだろう、コレは。客観的に見て、何なのだろう。鎮巳の思考回路はショート寸前だった。
残った思考回路が、彼女の口に指が触れるか触れないかのところで、鎮巳の指を離してくれた。ラスカルは上手くそれを口の中に入れると、両手で口を隠した。味わっているようにも、頑張って嚙み砕いているようにも見えた。
鎮巳にとっては一枚一口の大きさが、まさかこんな状況を招くなど、天才発明家の叔母でも予想できないだろう。鎮巳は自分の口の大きさを恨んだ。ああ今度からもっと小さく作ろう。
「んん、ごめんよ。時間がかかっちゃって」
「それは、いいんですけど、ラスカルさんは……その、平気なんです、か?」
「ん?なぁにがだぃ?」
「僕、ラスカルさんのこと、」
「それはもう気にしないでおくれって何度も言ってるじゃないか。いい加減にしないとぼくも怒っちゃうぜ?」
ニヤリと笑ってラスカルがシャボン玉の棒を出した。
「あああああごめんなさい。そういうつもりじゃなくてっ」
「分かってるよ。おどかしてごめんね」
武器をしまいながら笑うラスカルがふにゃりと笑う。これで鎮巳と張れるくらい強いのだから、人は見かけによらない。
「ところで、さっきのは一体何だったんだぃ?」
「歌舞伎揚げってお菓子で、」
「カブキ?ってニッポンの踊りだろう?」
「ミュージカル、みたいなもの、かな?僕もよく分からないんですけど」
「ふんふん、それで?」
心なしか、ラスカルの瞳がキラキラしているように見えた。
「えっと、僕それが好きで、自分で作ってて、それをここで食べるのが……好きで」
「作る?ぼくにくれたものは手作りだったのかぃ?」
「僕が……作りました」
恥ずかしさに自然と下を向いてしまう。お面を被っているから表情など分からないのに。
「いやぁ作れるなんてすごいねぇ。美味しかったよ」
ラスカルの言葉にチラリと彼女の表情を窺えば、ふにゃっとした笑顔で余韻を楽しんでいるようでもあった。
「甘じょっぱくて不思議な味だ。カリカリサクサクした食感もぼくは好きだぜ」
「……ほんと、ですか?」
背中を丸めて、自分よりも小さい女性に上目遣いで。
「んん、嘘じゃない。ベルトに自慢してやりたいくらいさ。そうだ、今度工場へ持ってきておくれよ。みんな喜ぶと思うよ」
ラスカルの弾んだ声に、背筋が伸びる。
「あと、出来れば、でいいんだけれど」
先ほどとは打って変わった歯切れの悪さ。視線で先を促せば、ラスカルはどこか遠い場所を見つめていた。
「ぼくにも個人的にわけてもらえないかな。少しでいいんだ。友人に食べてもらいたくて。大切な、友人に」
進むにつれて小さくなっていく言葉。最後はまるで独り言のようだった。
ラスカル・スミスの大切な友人。それは墓地に眠る彼のことだろう。
彼女のせいで死んだ、と鎮巳は聞いていた。目の前で。友人が、友人を。そして、それを指示したのが……。
鎮巳の中にふつふつと何かが波打つ。お湯が沸騰する直前のような、小さな泡。弾けて消えても無くなりはしない。
「……僕の手作りで、良いなら」
下唇を嚙みながら答えた。感情が表に出ないように。
そんな鎮巳の気持など知らないラスカルは、パッと表情が明るくなる。
「本当かぃ!?絶対だよ?約束だぜ?」
その笑顔は少年のようだった。在りし日のラスカル・スミス。きっと彼は友人とこんな笑顔で日々を送っていたのだろう。
「はい、約束、しまっわ!」
鎮巳が返そうとしたとき、タイミングよく猫が彼の膝の上に乗ってきた。よくよく見れば、さっきの鳩ほどではないが、猫がわらわらと集まっては鎮巳の足元でごろにゃんしている。その中の一匹が飛び乗ってきたのだろう。
「きみ、すごいなぁ。鳩の次は猫か」
「なんか、いつもこうで。鳩も猫も寄ってくるんです……」
ごめんなさい。呟くと、猫を挟むようにラスカルまで鎮巳の膝の上に寝そべった。それを契機に我も我もと数匹の猫が鎮巳に群がる。
「ふふ、あったかいねぇ」
群がる猫に埋もれながら、その中の一匹を撫でつつ呟くラスカルの声は眠そうだ。
「きみは、良い人なんだよ。だから鳩も猫も寄ってくるのさ」
「でも、僕は」
あなたの友人を拷問した男の息子で。
あなたの友人を殺せと命じた男の息子で。
あなたを殺そうとした男で。
父を殺したいほど憎んでいて。
「だから、」
陽が射した。眩しさに目を細めると、ラスカルと目が合う。
やけにはっきりとした視界に、お面をずらされたのだと気づく。
「ぼくも寄ってくるのさ」
目を細めて笑うと、ラスカルの呼吸に寝息が混じる。
浅い眠り。睡魔の手招きに抗おうとしているようだ。
鎮巳はとんとん、とラスカルの肩を叩いた。起こすのではなく、眠りの扉へと誘うように。彼の大きな手は猫を安心させるようで、何匹かの猫はすやすやぴーぴーと寝息を立てている。
とんとん。
とんとん。
とんとん。
一定のリズムで眠りの扉を叩けば、ラスカルは扉を開けて夢の中へと入っていったらしい。猫の寝息に交じって、薄く規則正しい呼吸が聞こえてきた。
持っていたお面をそっとラスカルの顔にかぶせてやる。せめて、心地よい眩しさを。
空を見上げれば、遠くの空に天使の梯子が降り注いでいた。