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    heavy3690

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    heavy3690

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    サンプルです。
    本になる際には表現や内容が変わっている場合があります。また、宗教などの知識は不正確なものが含まれている可能性があります。
    あらかじめご了承ください。

    ❗️お詫びと訂正❗️
    非常に申し訳ないのですがCPが逆表記になってました…orz 🍎x🎸です…

    ルシアダ サンプル予定(ほぼ確定版) 暗い海の底を漂っているような、そんな感覚だった。全身が穏やかな波に揺られ、自分の意思とはまるで逆の方向へと押し流されていく。気がついた時には陸へと戻れないような深い深い水の奥底へと追いやられているような。
     長く病を患った後のような靄のかかった脳みそは、己の置かれた状況をまるで理解していない。それどころか自他の境界、いや自分自身の正体さえ不明瞭で、混じり合うミルコとコーヒーのように自分というものが薄らいでいく感じがした。ただ分かることは何か大きなものを失った喪失感と、両肩からとてつもなく重たい荷物を降ろせたという安堵感だけ。

     そんな風に自我すら曖昧なまま、どれくらいの時間彷徨っていたのだろう。

     カーテン越しの日差しによって朝の訪れを理解するように、ふとした拍子に緩やかに意識が浮上し始めた。
     水に浸かっている感覚は比喩ではなく、大きな水槽……湯舟? そういった感じの何かの中に沈められている。重たく瞼を持ち上げると、ぼやぼやとした視界の中で、透明な液体の中で金色のもやもやとした液体が澱んでいるのが見えた。それをきっかけとして、唐突に自分という存在が輪郭を取り戻した。

     水のような液体の中で揺れている金色は、私の血だ。
     私とは土塊から神によって創られた最初の人類で、自他を分類するためにつけられた識別名は「アダム」という。エデンという場所で天使によって観察され、『善悪の知識の木』の実を食べて追放された。
     それから、……多くの子孫に看取られて天国に来た時、ひどく居心地が悪かったことを連鎖的に思い出す。その時、私は正式な最初の審判を経て天使たちの仲間入りを果たしたというのに、彼らにとって私とは観察対象であった。失敗作にも等しい存在であった。我らが父なる神の名を汚した泥人形でもあるようだった。
     そんな針の筵で過ごすような日々を過ごすうちに、子孫たちが天寿を全うし、あるいは意図せぬ形で命を落とし、審判を迎える者が増えていった。その中には私と同様に天使となる者がいれば、どうにも天国で迎えがたい魂もあった。そういった罪を背負った魂は地獄へ落とされ、長い時間をかけて傲慢の層は罪人で溢れかえるようになっていった。
     そんな中で誰が言い出したのかは知らないが、一部の天使たちの中でこんな風なことが囁かれ始めたのだ。

     ――ごみ箱も無尽蔵にごみを捨てられるわけでもあるまい。誰かが、ごみ箱の中のごみを燃やさなければならない。誰かが、ごみの処理をしなければ。

     では、一体誰が?

     行き詰った会議の中で、誰か発言しろと口を噤む人々のように、第三者に増えすぎた罪人の処理を求める視線は、次第に人類の始祖たる私へと注がれるようになった。お前が人類の始まりであるならば、同様にお前は罪人の始まりでもあるのだと、そんな風に告げるかのような視線だった。
     お前がごみ箱の掃除をやれと、そういったことを直接的に求めるような天使はいない。その代わりに少しずつ自分に与えられる業務が減っていき、一部の天使たちの間で地獄の罪人たちの殲滅の噂が流れ始め、それはきっと最初の人類である彼が成し遂げるべき偉業だという尾ひれはひれがつき、どうすることもできない状況になって初めて、熾天使のセラに声をかけられたのだった。
     不承不承参加するしかなかった会議の中で、あなたしかいないのだと――、そんな悪魔のような誘惑は誰の発した台詞だったか。今となってはもう覚えていない。

     そうだ、それで、……私は一体どうなった?
     私の最後の記憶は、まさしくそのエクスターミネーションで途切れている。確か、今回は罪人を更生させるとかいう机上の空論、絵空事、砂上の楼閣のような謳い文句のくだらないホテルを標的としたものだったはずだ。しかし途中から記憶が朧げで、断片的だ。
     声高に理想を掲げる青臭い女を、くだらない自分の過去の執着と一緒に消し去ろうとしたのは覚えている。そこにアイツがやってきて、あっという間に形勢が崩れて、それで、それで…………。

     私は刺されたのだ!
     それも、背中側から腹の方まで刃物が突き出るほど強く深く。

     神経を直接嬲られたかと錯覚するほどの鋭いの痛みを思い出して、思わず飛び起きた。私を包んでいた液体が周りに跳ね、辺りは薄く金色の血液に染まった。ここは知らない場所だ、浴室だろうか? 見渡すと、自分が白い陶器のような猫脚のバスタブの中にいることが分かった。
     見下ろせば最後の記憶と同じ戦闘用の衣装を身に着けたままだ。何気なく刺された辺りの布を触ると複数の穴が指先に引っ掛かる。だが、その内側の生身の皮膚にも肉にも、穴は開いていなかった。
     あれだけの傷を負ったのに、何故か私は生きている。わずかな怪我の一つも残っていない。どうして。
     戸惑いながら体を持ち上げ、液体の中から這い出ると、浴室の床部分は私の体液の金に一層眩しく彩られた。全身からぽたぽたと水が滴る。仕方なしにその辺にタオルがないかを目線だけで探したが、見える場所には置いてなさそうだったのですぐに諦めた。
     せめてもの優しさとして、着たま手で絞れる範囲を絞ってやる。だがこれ以上の、部屋を濡らさないための努力をする気にはなれなかった。
     自分が漬けられていたあの液体に何らかの作用があったとしか思えないくらい、良くも悪くも気分が平坦な感じがする。


     浴室を出た先には、やたらと長い廊下が続いていた。廊下は数えるのが面倒になるくらいの数のドアと面している。
     どうやらここは信じがたいほどの豪邸、あるいは城の中のようだ。
     無数に並ぶ窓からは、風に揺れる木々と、その向こうに不吉なほど赤く染まった空が見える。私は、天国に戻れたわけではなかった。
     遠くの方でサイレンの音が響く。時々悲鳴のような甲高い声と、硬い物同士が激しくぶつかるような音がする。交通事故だろうか? 天国では交通事故なんてものは起きない。ここは天国じゃない。
     たとえ目を閉じたとしても、ここが地獄であることを突きつけてくるような環境音に、心底うんざりする。
     衣服が水分を含んでただでさえ重たく感じられる体にさらに重力が追加されたように感じられて、引きずるように脚を動かす。特にどこを目指して動いているわけでもない。ただ何となくここにいたくなかった。
     高級そうな赤いカーペットをしとどに濡らしながら歩を進めていると、後ろから忌々しい声が聞こえてきた。

    「――今の天国では、命の恩人の家をびしょ濡れのまま歩き回るのが礼儀なのか?」

     遠まわしで、分かりにくい、まるで天使らしい言い回しだ。
     そんな無礼なことはやめろと、ただ一言言えばいいだけなのに。
     地獄に堕とされて尚変わらないその嫌味な口調に、重苦しい気分がさらに重たくなっていく。ああ、本当にうんざりだ。
     振り返ると、元は生まれながらにして天使だった男――今は堕天して地獄を治めている? いや、治めていることになっているが正確にはこいつは何もしていない――が呆れたような視線をこちらに向けていた。ここは地獄の王の根城だったのか。
     私は咄嗟に何から尋ねるべきか、相手にどんな罵声をぶつけるべきか、悩みに悩んで結局言葉は出てこなかった。頭の中には乱雑な物置のように吐き捨てるべきことはいくらでもあるのに、一体どれから取り出すべきか、少しも整理できていない。
     あれこれ悩んで、結局ひどく掠れた、縋るような声が漏れた。
    「ル、シファー……」
     くそったれ! 舌打ちしそうになるのをすんでのところで抑える。これは、これは……、長らく水の中を漂っていたせいで喉が掠れてしまったせいで声が出なかっただけだ。別に、こいつに対して何らかの負い目があるわけではない。決して。
     腹立たしい気持ちを押し込めて目をそらすと、視界の端できまりの悪そうな顔をしているのが見えた。
    「あー……その、何だ。気分はどうだ?」
    「最悪だ」
     今置かれているこの状況も、エクスターミネーションでの敗北も。あれだけの犠牲を払ってまで主に仕えてきたというのに、私の掌の中には何も残っていないではないか。
     だというのに、生まれてこの方感じることのなかった解放感すら感じられるという現状すら腹立たしい。
     全てが私を苛んでいく。
    「どこまで覚えている?」
    「……私の腹から刃物が飛び出していたことは。ああ、ええと、……そうだ! エクソシストたちは?! あいつらは、どうなっている? 一体どこに」
     思わず濡れたままの手袋で彼の襟を掴んだためか、隠そうともせず不快な目を向けられる。「覚えていないのか?」
    「覚えていないから聞いてるんだ」
     ルシファーは言葉を選ぶように口を二度三度開きかけて、言うのをやめた。何かを諦めたような表情で、「お前が倒れた後、私が帰れと言ったんだ。そしたら戦いをやめて帰っていった」
     嘘だろ。
     体の力が抜けた。目の前が真っ白になった。襟を掴んだままの手をそっと押されて、抵抗する気もなく腕をおろす。聞かなきゃよかった。心臓がじくりじくりと不快な気持ちに蝕まれていく。
     あいつらは、ルシファーの言葉を受けて天国に帰っていったのだ。この私を置いて!
     あまりにも信じがたい気持ちで、笑いすらこみ上げてきた。これはひどい悪夢だ、そうに違いない!
     そうなると、いったい私はどこから夢を見ていたのだろう。ルシファーの娘が贖罪に関する夢物語を語りだしたところか? 何度も何度も力を振りかざす中で、気が付いた時には目の前の罪人の命を奪うことに何の感情も伴わなくなったあたりか? それとも、殲滅を自らの仕事として受け入れたことか? いやもっと前? エデンを追われている時から、私は、ずっと覚めない夢の中にいて、

    「アダム」

     静かな、落ち着いた声で名前を呼ばれた。神が私に授けた名前だ。愛する父が、この、私に。いつかのエデンで、幾度も聞いた声で。
     それだけで、現実から逃れようと膨らみ始めた妄想の風船から空気が抜けてしまった。残ったのは目を背けたくなるような苦しみだけだ。
     ルシファーは私を一瞥した後、腹の底から吐き出したかのような長い長いため息を吐いた。それから、フィンガースナップを一つ、私の濡れた服や髪を一瞬で乾かした後、「詳しいことは腹を満たしてからだ」と言った。







     案内されたのは、白いクロスのかかったテーブルが中央に置かれた部屋だった。薪すら焼べられていないほこりの被った暖炉や、壁際に並んだチェアの様子から、もうずいぶんとこの部屋が使われていないことが分かる。
     ルシファーはそのチェアの中から適当なもの二つを選び、テーブル越しに対面する形で並べる。次いで、瞬く間にテーブルの上には瑞々しいフルーツにパンケーキ、暖かな紅茶が現れた。
     鼻孔を柔らかく くすぐる それらを前に、座れと短く指示される。大人しく席に着くと、カトラリー一式の乗ったナプキンを押し付けられた。
     目の前に座ったルシファーは、ゆっくりと腹の立つほど優雅な動きで食事を始めた。無言のまま食べ進め、皿の上の小麦の塊が半分ほどになった頃、満足したのかナイフとフォークが置かれる。紙ナプキンで丁寧に口の周りを拭いている。
     「本当は」と言葉を区切って、紅茶を飲む。男は、またため息を吐く。「本当は、お前を殺そうとしていたんだ、私は」
    「…………」
    「けどな、チャーリーは……、私の娘は何と言ったと思う? お前を殺すべきではないと言ったんだ! お前にすら、更生の機会を与えるべきだと! 傲慢にも魂を一方的に摘み取っていたお前すら、赦されるべきだと、そう言ったんだ!」
     激昂した勢いのまま、男は拳をテーブルに叩きつけた。繊細な金の模様のティーカップから、紅茶が跳ねて真っ白いテーブルクロスを汚す。それに焦った様子もなく「おっと」と言って、すぐに紅茶は淹れ直された。汚れたクロスもすっかり綺麗になっている。
    「私としては、お前がこのまま地獄でどんな目に合おうが、本当にどうでもいいんだ」
     はあ。またしてもため息がこぼされたので、ため息ばかり吐くと不幸になるんだと、ギリギリまで言葉が出そうになった。が、何倍にして返されるか想像しただけで胃もたれしそうになったので、唇を噛んで飲み込む。
     皿のふちに置かれたナイフとフォークが再び持ち上げられるのを見て、食事は終わりではなかったのだなとぼんやり思った。
    「路地裏でぼろ雑巾にされようが、売女のように扱われようが、あるいは、本当の意味でお前が死んでしまっても、別に」
     言葉にされた内容とは裏腹に、男はひどく穏やかな表情をしていた。時折目線が皿の上に落とされて、切り分けられるパンケーキの一口は小さい。咀嚼、それからややあって、プレーンな味付けに飽きたのか生クリームとシロップが出された。浸るほどたっぷりとかけられて、見ているのも嫌になるほど甘そうなそれを、満足そうに口に運んでいる。
    「でもまあ、そうなると悲しむのは娘だからな。断じて! お前がどうなろうと構わないが! 娘が悲しむのは私としても望まないものだから!
     ……お前、私と契約しろ」
     いいな? と、次は険しい表情で、シロップのついた先の丸いナイフを向けられる。刃物で刺されて死にかけた男に対して、怪我をすることがないとはいえそれを向けられる神経が理解できない。本能的な恐怖を抑える。眉根を寄せて思い切り断ろうと、ついでに罵ってやろうと息を吸い込むと、「いや、返事はいい。お前に拒否権も選択肢も用意していないからな」
     言いたいことを言い切って満足したのか、ルシファーの表情は余裕のあるそれに戻っていた。
    「お前はただ用意された契約書に自分の名前を書けばいいだけだ」
     ……。…………。
     なんだかもう会話をする気力も完全に削がれてしまって、肯定もしないが否定もとりたてて口にはしない。チェアに深く腰を掛けて、ふてくされたような気持ちを隠しもせず目の前の新鮮なマスカットを睨みつける。
    「何だお前、一口も食べてないじゃないか」
     小さな子供を叱りつけるような口調に、今度こそ私がため息を吐き出す番だった。まあ、私の場合はもうすでに不幸なので、訪れるかもしれない不幸に怯える必要すらないのだが。








     あれから一週間ほどが経過した。私の身の在り方について、ルシファーが天国サイドに問い合わせをしたが未だに音沙汰はない。天使連中は前例のないことは得意ではないし、どうせ時間がかかるだろうと思っていたから特に落胆はない。いつものことだ。
     それよりもサインをしろ、とルシファーから金色の契約書を渡された。
     いつだったかエクソシスト達を引き連れて好き放題飲み食いをした時のレシートよりも長い契約書に、もはやゴミがついているとしか思えな大きさの文字の粒が並んでいる。
     上の方には契約内容の目次があり、大項目の下に小項目が記載されている。
     『その1.契約の及ぶ範囲と効用について』次の段に、『――魂の拘束範囲とその強制力について』『――契約違反の場合の措置について』『――契約違反における例外適用について』『その2.地獄での生活について』『――生活圏の制限について』『――生活必需品の購入について』『緊急の出費の際の対応について』『その3.保証される自由の限度について』『――労働について』『――他者との連絡の制限について』……『その15.他、上記項目でカバーできない事象の対応について』
     目次にざっと目を通しただけで疲れた。なんだってこいつはこんなに長ったらしい契約書を用意したんだ? 天国で最初に仕事をし始めた時も、セラの権限の元エクスターミネーションを始めた時も、流石にこんなネチネチとした契約書は見なかった。
     それでも念のため目を通すべきかと読み進めていくも、もはや誰も使っていないような、化石すら残っていない感じの古臭くてカビの生えた言い回しのせいで、一文一文にとにかく引っ掛かってしまう。この調子では最後まで読み終えるのに、一体何日かかることやら。その上きちんと内容の理解をしようと考えたら、言語学のエキスパートでも生きているうちに終えるのは不可能に違いないレベルだ。
     段々と頭の中心が痛くなってきた。ちょっと時間を貰ってもいいか。そう伝えたくてルシファーに目をやると、「ペンか?」と、やたら高級そうな万年筆を差し出される。違う。
    「なんでもないことをとてつもなくややこしく、小難しく表現する才能があるな、お前は。政治家にでもなるべきじゃないか? ああいや、そういえば既に地獄の王だったな。お前には天職だな、政治の手腕が伴っていないことを除けば」
    「ん? ああ、すまないな、お前には少し理解の及ばない内容だったか。せっかくなら明文化をしてやった方が安心するかと思ったのだがな、まあそう不安がることはない。要約すると、お前ことアダムの一切合切全ては、私、ルシファーの裁量次第ということだ」
    「要約してくれて助かるよ、ファ*キュー」
    「礼には及ばないさ、クソ野郎。サインを記入する場所は分かるか?」
     ルシファーは下の方から契約書を2枚ほどめくって、上から下に指先を滑らせた後、「ああ、ここだ、ここ。日付の記載も頼む」……待ってくれ。契約書、この長さで1枚じゃないのか。いや、そもそもお前もサインの場所把握できてないじゃないか。用意したお前ですらこの大きさの文字は読めているのか? 
     ――言いたいこと、聞きたいことは色々とあったが、飲み込む。ここに来てから妙に気分が重い。食欲が減ったし、良くも悪くも心が動かない。
    「ああいや、……ちょっと時間をくれ。目が滑ってうまく、頭に内容が入ってこないんだ」
    「ふむ。……アダム、ここ最近痩せたんじゃないか? この私がせっかくお前の好物を用意しているというのに、いつも残す」
    「毎食尋常じゃない量を出すのをやめろ。お前は年下が全員わんぱく食いしん坊だとでも思ってるのか」
    「お前が残すことが分かってからは量を減らしただろ。それにほら、隈だってひどくなった。鏡を見たか? なんというか……、その……、まるでヤク中か廃人だ」
    「じゃあ廃人なんだろ。……夜、妙に頭が冴えるんだ。そのくせ胸のあたりが妙にざわつく。目を閉じると嫌な夢を見るから、眠れない」
    「お前…………」
     ルシファーが何かを言いたげな表情をしていたが、鬱陶しくて目をそらした。
     睡眠不足を自覚したせいか急に頭を動かしたせいかは分からないが、じわじわ蝕むように視界がホワイトアウトしていく。座っているのに重心がズレる感覚に、慌てて体勢を立て直そうとした。力が入らない。加速度的に体が地面に引き寄せられていって、ぎゅうと目を閉じる。
     が、覚悟した衝撃は訪れなかった。
    「あー……そのうち、私の主治医をお前に紹介しよう。だが、地獄でわざわざ病院を開くような変人だからな、健診も定期的ではない。多めに処方されている分の睡眠薬を分けてやろう」
     私の倒れかけた体は、ルシファーの細腕で抱き留められていた。
    「ありがたいが、あー、処方薬を勝手に譲渡されるのは、何らかに違反してそうだ」
    「地獄には法律はないんだ」
     まあそうだろうな。
     背中を、羽と羽の間を、穏やかな手が繰り返し撫でる。それで、エデンを追われた後、イヴが私たちの子供の背中を撫でていた時のことをふと思い出した。穏やかな顔で愛情を享受する幼い息子の顔を見た時、言い知れぬ苛立ちを覚えたのだった。
     私は最初の人類だ。だから誰も、生まれたばかりの私の背中を撫でてくれる人はいなかった。生まれた時から私は自立する者であり、殖やし導く者だった。血のつながった息子に対して私の中に生まれた感情が、羨望だと、憧憬なのだと、教えてくれる者はいなかったのだ。
     ルシファーの手つきのリズムは、地獄に来てから狂ってしまった私の心臓のリズムを整えてくれる。段々、眠たく、なっていく……。
     だからだろうか、いよいよ意識が途切れる瞬間の彼の言葉の意味はあまりよく分からなかった。「そういえばセックスは鬱に効くらしいぞ。ちょっと試してみるか?」
     ……地獄の王は、アホでもなれるらしい。






    「おい、起きろ。出かけるぞ」
      体を揺らされて目覚める。状況を理解する間もなく身なりを整えられて、ゲートまで連れて行かれる。寝る前より少しは気分もマシになっていた。「出かけるったって、どこに?」
    「お前がぶち壊そうとした、私の娘のホテルだよ。お前の体調が回復し次第連れて来てほしいと言われていたんだがね、あちらもそれなりに復旧に時間がかかったようで、延期に延期が続いていたんだ。それがつい一時間前、突然連絡があったんだよ。
     あー、お前は私の浴室でたっぷりおねんねしていた時間もあったから知らないだろうが、最後のエクスターミネーションから今日でもう3週間になるな。お前が客室清掃員に殺されたことは、テレビで地獄中に放映されたから、知らないやつはいないんだ。それが待てど暮らせど、アダムがどうなったのか、今後のエクスターミネーションがどうなるのか、何一つ続報がない。地獄の連中にしては待った方だな。どうやらテレビ局の方に問い合わせが殺到して、テレビ局からホテル側に取材依頼が来て、私たちの方まで回ってきたってことだ。
     ああ、そういうことだから、ホテルについたら軽い打ち合わせの後囲み取材らしいぞ。覚悟しておけ。お前が余計なことを言おうとしたら私の権限で口を塞ぐが構わないな? さあ行くぞ、眩しいからちょっとの間だけ目を閉じていなさい」
     はあ?
     質問する隙の一つもないままゲートの中に放り投げられる。口から出たいくつかの短い暴言は、誰も受け止めることがなく消えていった。すぐに体の周りを放射状の光が取り囲んできたので、反射的に目をぎゅっと閉じた。

     少しの浮遊感の後、空気感が変わったのが肌で分かる。恐る恐る目を開くとルシファーの城とはまた違った趣味の悪い壁が見えて、移動に成功したことを知る。
    「やあ、チャーリー! 待たせてすまないね」
    「パパ! いいの、むしろこんなにすぐに来てもらえるなんて思ってなかったわ。その、ヴォックステック社の取材陣はもうホテルの入り口を囲んでて、そのドアを開けたらすぐに取材が始まっちゃうと思うわ。
     あー……その、アダムが元気になって、良かったわね」
    「それ、マジで言ってんの? あいつが俺たちのサー・ペンシャスを殺したことを忘れたわけじゃないよな? 他にも大勢、地獄の連中があいつのせいで死んだ! 殺された!」
     ふわふわの白い悪魔の一言で、連中の視線が一斉にこちらへ向けられる。言っていることは事実なので否定はできないし、謗りや嘲りに晒されることには慣れている。それに、今日ここには争うために来たわけではないのだ。
     大人しく当面の飼い主の判断に従おうとルシファーを見れば、私が口汚く言い返さないからか、元々大きな瞳をこれでもかとかっ開いている。ホテルの連中も概ね似たような表情をしており、まあ以前の私なら下品な揶揄いを交えて応戦していたのだから、当然と言えば当然かもしれない。
    「ちょ、ちょっと。彼、どうしちゃったの。なんというか……その、あまりにも……様子が変よ。本当に元気になったの? これまでなら、もっとこう……エネルギッシュというか、アグレッシブというか……」
    「もっと下品で最低なやつだった」
    「……そう、ヴァギーの言うような人だったわ。それに、考えてみれば3週間もパパのところで療養をきちんと受けていたことも、なんだかおかしい。もしかして、もう契約を済ませているからなの?」
     然しもの地獄の王も、娘からの質問責めに対してはいつもの毒舌をお披露目することもできないようで、目線をあちこち彷徨わせては無意味な音を口から漏らしていた。
    「い、いや。契約は……まだしていないな。今はな。だが、そのうちするつもりではいる。大人しいのは、そうだな、うまくは説明できないが、なんとなく理由は分からないでもない。その、私も元は天国を追い出された身だからな。はは、きっと落ち込んでるんだ。もしくは、あー、ちょっと疲れてるのかも?」
    「3週間も休んだのに、ですか?」
     元天使軍の裏切者がまた余計なことを言う。ルシファーは、困ったように笑いながら、「そのうちの2週間ほどは意識がなかったんだ。目が覚めてからも、あまり眠れていない。食事だって、私より食べてないんだ。ほら、あの時よりちょっとは痩せたように見えるだろ? はは、ははは……はあ」




    (後略)
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