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    iguchi69

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    2023バレンタイン(ジョ双) 5/7

    ホットチョコレート UNZの慣れた道を行く。嗅ぎ飽きたスパイスの香りを潜り抜け、地下への階段を下りた先でジョウを襲ったのは、絡みつくほどに甘ったるいチョコレートの暖気だった。

    「やぁいらっしゃい、ジョウくん」
    「コンバンワっす」
     いつ見てもちっちゃい姿を保っているマスターは、おっきい姿になればそれはそれで納まりきらない程度の椅子に深く腰掛け(というよりもつま先まですべてを座面に乗せて)来客を出迎えた。ジョウは嗅覚を満たす香りには言及せず、一年近くの間何度も繰り返した使用手続きのため手元のタブレットに左手を当てる。防火グローブ越しに液晶を操作するのは難しい。外す手間と利き腕の自由さを天秤に賭けた結果、画面を数度タップするくらいのことならば左手で事足りるというのがジョウの出した結論だった。
     10分後の17時きっかりから2時間。支払予定金額を確認し、『OK』のボタンを押す。短くもなければ長くもない、いつも通りの練習時間だ。といっても、残りのメンバーが皆開始時間を守れば、の話だが。

    「もう部屋に入っとくかい?」
    「いや……、あいつらちゃんと来るかわからないんで、ここにいます」
    「なら丁度よかったがね!」
     スタジオのカウンター前にはミューモンが5人――だいたい1バンドの人数が収まる程度の小規模な待合所があった。土日前の深夜など、混雑する時間には部屋の順番待ちだったり、練習中の話し合いが拗れたのか白熱した議論を交わすバンドマンが何人かいることもあったが、今は無人だ。
     マスターの言葉を受けて、ジョウはソファ横にあるマガジンラックへ向けていたつま先を戻した。何が丁度良いのだろうか。正面を向くように配置された音楽マガジンは普段買わない月刊誌だったが、見出しになっているベーシストのインタビューに後ろ髪を引かれていた。

    「ホットチョコレート、飲むかね?」
     ぽに、という音とともに彼が手にしたカップを上げる。いつもならコーヒーの香ばしい湯気を放つ黒が、今日ばかりはもったりと白い液体で満たされていた。これか。ロビーじゅうを満たす甘い香りに合点がいった。
    「ヒメコが置いていってねぇ。作りすぎたからおじさんにあげる!なぁんて押し付けられちゃってサぁ……」
     アーモンドのようにつぶらな瞳が嬉しそうに細まる。こう見えてなかなかに叔父馬鹿のマスターは、こうして時々本人のいないところで姪の話をするのだった。カウンターの下から取り出した魔法瓶はなるほど、それが満たされているのであれば中年男性には厳しそうな量のホットチョコレートが詰まっていることだろう。ささやかな自慢じみたおすそ分けを断る理由もなく、ジョウはありがたく相伴にあずかることにした。

     部屋の隅にあるウォーターサーバーに備え付けられた小さなコップに白い新円が揺れている。ふたくち程度の量だが、チョコレートの比重が重いらしく、傾けただけで水面がもったりと動いた。口の中に広がる甘さを覚悟してその飲み口に唇を寄せようとした時である。

    「ちょぉぉぉっと、待ったぁぁぁ!!!!!」
     バァン、と入口のガラス戸を突き破らん勢いでピンクと黄色のドリルが転がり込んでくる。あまりの剣幕に、ジョウは彼女――今しがた話題にしたばかりの少女・マシマヒメコが入口の下り階段を転げ落ちたのかとすら思った。二本の足がきちんと地を踏みしめていることを確認し、安堵する。
    「どうしたかね、ヒメコ。そんな大声出して」
     でれでれと円弧を描いていたマスターの目がきょとんと丸まっている。
    「チョコ、おじさんにあげたホットチョコのポット、返して……っ!」

     どうやらまずいことに巻き込まれたかもしれない。ジョウは何かの間違いでそれ以上注がれた液体に近づかぬよう、紙コップを持つ右手を離した。
    「返せってそんな今更……おじさんにあげる♡って言ったのはヒメコチャンなのに……」
    「だから! 間違えたんだってば!!!てゆーかそんな言い方してない!」
     ジョウを無視して繰り広げられる口論を搔い摘んで聞くに、どうやらどこかで入れ物の取り違えが起こったようだった。逆立った尻尾が威嚇するようにぴん、と上を向いている。

    「ほわんがあたしに作ってくれたやつなんだから……」
     一転して、細く長い猫の尾がへにょり、と垂れ下がったのを見るに、彼女が自分のミスに参っているのが後ろ姿からでもわかった。おおぶりのツインテールに隠れて見えない耳の方も、この分では横に倒れているに違いない。

    「なぁ、マシマ」
     話しかけると驚いた顔が振り向く。4人組のガールズバンド・Mashumaireshとは活動開始時期と行動エリアが同じなこともあり、メンバーの顔と名前程度は知っていた。あちらはそうでもないのか、勝気な釣り目が訝し気に曇っている。
    「事情知らなくて悪かったな。これ、返すよ」
     口付けてねぇから、そう補足して紙コップを差し出した。ジョウの熱い手の中で温められたホットチョコレートは、数分経ってなおまだ湯気を立てている。想像通り、感情豊かに倒れていた猫の耳が途端に元気を取り戻す。

    「あ、ありがと……」
     眉は顰められ、目は逸らされていたが、髪色と同じレモン色の耳は正面を向いていた。わかりやすい。態度はともかく、彼女の耳と尾は本人以上にその剥き出しの感情を伝えてくる。よほど人見知りする性質なのか、縞模様の尾は彼女の細い足に寄り添っていた。

     マスターの処遇はさておき、これで自分の問題は解決だ。ジョウはポケットのスマートホンにハッチンからの『今すぐ行く』という意味のスタンプが表示されていることを確認し、スタジオへ足を向けた。同じ補習を受けているヤスも一緒に来ることだろう。

     店の奥へ足を進めながら、ジョウは来るとも来ないとも言わない相棒のことを考えていた。その質量に伴った感情を決して発露することのない金の尻尾の持ち主は、今どこでどうしていることだろう。お前もあんくらい素直ならな、という感想が頭をよぎった理由はわからなかった。
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