その色に触れたくて ピピピッ
高く響く電子音。ゆっくりと脇の下から体温計を取り出せば、そこには37.8の文字が示されていた。
「微妙…」
いつもより若干気だるい身体をリビングのソファに沈めながら、猿川は大きなため息をつく。
時期は 5月の初め。
世間はGWで賑わう最中、喧嘩をしたり、スピーカーの修理を幼なじみに押し付けたり、住人たちと言い合いをしたりと、いつもと何ら変わらない日々を過ごしていた。
それは周りの住人達も同じようで、特に代わり映えのしない毎日にゆったりと身を委ねていた頃。
今日は、幼なじみ特性の豪華な朝食を腹におさめてから、たまには街に買い物にでも行こうかと朝から外出していたのだ。
午前中は軽くぶらついて、暗くなってきた頃に適当な輩に喧嘩でもふっかけてやろうかと思っていたのだが、ふと立ち寄った電気屋で知った午後からの天気は、雨。
天気が悪い中わざわざ喧嘩をする気分でもなかったので、大人しく帰ってきた次第である。
作り置きの昼飯を食べ終え、何をするでもなくぼんやりと過ごしていた昼下がり。
ほんのり感じる頭痛に違和感を覚えたのはその頃だった。
最初は気のせいかとも思ったが、徐々に増す痛みと、喉の奥に燻る熱さがやけに気になって、念の為にと熱を計ったら、この微妙な数字とのご対面。
平熱が一般より高めな猿川にとって、高熱と言うには低く、かと言って平熱の範囲は超えてしまっている体温。中途半端なその数字は、雨の湿気も相まって何となく気を滅入らせる。
「あークソ、だりぃ……」
首を伸ばし、ソファの背もたれに身体を埋める。見上げた天井が心做しか霞んで見えて、なんとも言えない不快感に思わず舌打ちが零れた。
薬を飲むにも微妙。でも、これから熱が上がる可能性を考えると、早めに飲んで治しておいた方がいいような。
重たい身体を一度ソファに沈めてしまったが最後。早く薬を取りに行けばいいものの、全身にまとわりつく怠さが立ち上がるのを拒絶させる。
静かなリビングに、しとしと、と控えめに響く雨音。ゆっくりと息を吸い込めば、雨特有の土っぽい匂いと、落ち着く我が家の香りが肺を満たす。
いつの間にかゆらゆらと揺れだした視界は、鈍く回る思考を途切れさせるには十分で。
全身の力が抜けてゆくのを感じながら、猿川はそっと目を閉じた。
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カタカタ、カタッ………
何かを叩く音が耳を掠める。
ふわりと体が浮上する感覚。だんだんと覚醒する意識と共に、心地よいリズムを奏でるそれが、パソコンのタイプ音であることに気づく。
いつの間にかかけられていたブランケットと、人一人分の気配。リビングには僅かに花の香りが漂っている。
ああ、多分あいつがいるんだ。
「……ん、」
「あ、起きた?おはよう猿川くん」
穏やかな中低音。
声のした方向に顔を回しつつ、ゆっくりと目を開けば、眼鏡を外しながらこちらに微笑みかけてくるテラと目が合った。
「ぐっすり寝てたね。大丈夫?体調は?」
─────たいちょう、……体調?
なんでコイツはそんな事聞いてくるんだろう。
不思議に思って顔を上げれば、白い何かを持ってこちらに歩いてくるテラの姿。
「体温計、机に置きっぱなしだったよ?良かったね、見つけたのが僕で」
はい、と渡されたそれを大人しく受け取る。
ああ。そういえば、寝る前は少し調子が悪くて、熱を計っていたんだっけか。
少しずつ働き出した頭で状況を整理しつつ、促されるままに体温計を素直に脇に突っ込む。
待つこと数十秒。電子音の合図と同時にそれを抜き取れば、自分で体温を確認する前にテラに奪われてしまった。
おい、まだ見てないのに。
「んー、微妙に上がってるねぇ…」
「勝手にとんな。返せよ」
「はいはい」
思いの外すんなり返されたそれに表示されていたのは、38.0℃の文字。眠る前より若干上がったそれは、誤差と言えなくもないが、38度の壁を越えてしまったという事実が余計に体を重くさせる気がした。
「ね、部屋戻んな?後で特別にテラくんがお見舞いに行ってあげる」
「うるせぇ、要らねぇ」
「寂しい癖に」
「死ね」
「いいんだよ依央利くんにチクっても」
「…………やだ」
「可愛くないな」と言いながら、嫌がらせのように頭をガシガシ撫でられて、せっかくセットしていた髪が崩れる。
軽く睨むが、当の本人は何処吹く風。「下ろしてるのも似合うのにね」なんていいながら、今度は丁寧な手つきで猿川の髪を撫でつける。
時折額を掠める長い指が、火照った肌に心地いい。いつもなら直ぐに振り払うのに、何となくその心地良さを手放すのが惜しくて、されるがままになってしまう。
「……あ、ちょっと。そのまま寝ていいの?移動すれば?」
「んー、」
ゆっくりと髪を梳く感覚に、意識がぼんやりしてきた頃。ここで眠ってしまえば依央利に見つかってしまうのに、なかなか体が動かなくて。ただただ、ぐずるような声だけが零れていく。
起きなくていいのかと言う割に、撫でるのを辞めない柔らかな手。
うとうとと途切れ途切れの意識の中、鼻腔を華やかな香りが擽る。ぼやけた視界をチラつく金髪が、いつの間にか顔を出していた太陽に照らされて、キラキラと光る。なんだか不思議な光景だ。
「髪の毛、案外柔らかいんだね。猫っ毛だ」
「ん、うるせぇ」
「いいよね、ピンク。たまにはピンクも有りかなぁ」
「……にあわねぇ」
「テラくんはなんでも似合うが?」
「うざ」
ゆったりと、穏やかな時が流れていく。
昼下がりの暖かな時間に、うとうとしながらこんなに中身のない会話をするなんて、以前なら考えられなかったのに。
随分と平和ボケしてしまったな、なんて考えてから、あの頃の記憶に引っ張られかけた思考を無理やり戻す。
過去の事など今更掘り返したとて意味が無いのだ。今見え、感じているものが全てなのだから。
「はい、おしまい」
ふわふわと意識が飛びかけていた時、撫でられていた手が離れていった。
寝落ち寸前に辞められたことが不服で顔をあげれば、丸く大きなビビットピンクと目が合う。
「なに?もうちょっとして欲しかった?」
揶揄うように上げられた口角。
腹が立つので反論してやろうと思ったが、なんだかそれも向こうの思い通りになるような気がして癪に障る。
…………ならいっその事、いつもと違う方法でやり返してやろうか、なんて。
「うん」
目を合わせたまま、小さく頷く。
今日は熱のせいで頭が回らないから。たまには気まぐれに、素直になってやってもいいかもしれないな、と。
ニヤりとしながら応えてやれば、テラはきょとんとした顔でしばらく静止したあと、今度は酷く渋い顔をしてこちらを睨みつけてくる。間抜け面。ざまぁみろ。
「君ってほんとそういうとこだよ」
ペちんと軽くデコピンをくらわされから、不満をこぼす前にソファに身体を沈められる。
キッと睨みつけようとすれば、今度は頭からブランケットをかけられた。
「せめてちゃんと横になって寝なよ」
プハッと、何とかブランケットから顔を出せば、見たことないくらい穏やかな表情でこちらを見おろすテラの顔。そんな顔を見てしまえば、文句のひとつでも言ってやろうと思っていた気持ちも、だんだんと大人しくなっていくもので。
「贅沢者。今日は特別だからね」
形の綺麗な指先が、丁寧にピンク色の毛先を絡めとる。
ふわり、ふわり。
再開された髪を掬う感覚は、引っ込みかけていた眠気を連れてくるには十分だった。
少し開けられた窓から、雨上がりの穏やかな風が舞い込んでくる。
リビングを優しく包むそれは、猿川の火照った頬と、テラの金髪を緩く撫でてから、どこかへと消え去ってゆく。
「なぁ」
「ん?なぁに?」
さらさらと流れる金色のカーテン。
整った顔が透けて見えるブロンドは、彼の凛とした精神を映すように、美しく、そして強さを感じるのだ。
───髪、やっぱり金色のままが良いよ。
なんて。
一度素直になってみたところで、そんなことまで言える性格では無い。それに、これ以上調子に乗らせれば後々めんどくさいに決まってる。
「………やっぱりお前にはピンク似合わねぇよ」
「まだ言うかクソガキ。テラくんはなんでも似合うって言ってんでしょうが」
「うるせぇぶす」
「は?死ね」
いつも通り。
少しだけ解けすぎた雰囲気が、日常の温度を取り戻していく。
変に素直になってみるより、こっちの方がずっと心地がいい。
全身の力が抜けていく感覚とともに、ゆっくりと目を閉じる。
「おやすみ」
遠くに聞こえたその声を最後に、猿川の意識は、深く深く沈んで行った。
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「さ〜る〜ちゃ〜〜〜ん」
「…………、ぅ、、?!?わぁぁぁあああ!!!??」
バターーーーーンッ
部屋中に響き渡る騒がしい音。
ちらりと見やれば、ソファから転げ落ちた猿川の上に依央利が馬乗りになって迫っている光景が見えた。何やってんだか。
「さるちゃんっ♡冷えピタなんて貼っちゃってどうしたの?♡具合が悪いんだね??ああ、こんなに真っ青になっちゃって……今から熱がまた上がるかなぁ?僕がたっぷりたっぷり御奉仕してあげるね〜〜〜〜〜っ」
「うわぁぁぁぁ!!!寄るな!!!こっち来んなぁあぁぁぁ!!!!!!」
時刻は午後4時半。
テラは少し遅めのおやつを食べながら、バタバタと攻防戦を繰り広げる我が家の幼なじみコンビをぼんやりと眺めていた。
何とか拘束から抜け出し、部屋中を逃げ惑う猿川と、背景に火の玉でも飛んでいるのではないかと思うほど、迫真の顔で襲いかかる依央利。自分でしむけた結果だが、少々騒がしすぎるかもしれない。
遡ること数時間前。
急遽入った午前中の仕事をいい所で切り上げ、ハウスに帰ってきたテラを待っていたのは、リビングでうたた寝する猿川だった。
珍しいな、なんて眺めていたら、心做しか顔が火照ってる気がして。案の定そばのローテーブルを見れば、雑に置かれた体温計。
気になってボタンを押してみれば、彼にとっては微熱と発熱の狭間のような数値が表示されていて、調子が悪いんだなと悟った。
計測時より若干熱を上げながらも、目を覚ました彼は何となく幼くて、セットしたままだと寝苦しいだろうと髪を撫でてやれば大人しくされるがままだったし、挙句の果てにはおかわりを強請る始末。
あんなに素直な彼を見たのは初めてだった。
ふと、手のひらに残る柔らかな感覚を思い出す。ふわふわとしたそれは案外触り心地がよく、仕事に疲れていた身としては中々の癒しであったと思う。
それに、何よりあの表情。心底気持ちよさそうにうとうとと目を細める様子は、普段の彼とのギャップも相まって酷く幼く、可愛らしく見えてしまった。
どこで覚えてきたんだか、生意気にもこちらに一杯食わしてくれた可愛らしい素直な彼は、思ったより直ぐに引っ込んでしまったのだけれど。
意識を現実に戻して、未だ騒ぎ回っている猿川に目を移す。動きの鈍さから察するに、まだ回復し切れていないだろうに全力で追いかけ回されて少し可哀想だ。
まぁ、ブスと言われた腹いせに分かりやすく冷えピタを貼っつけてやったのは他でもない自分自身なのだが。
依央利に淹れてもらった紅茶を嗜みつつ、その水面に映る自分の美しさに見惚れ、ほうと息を吐く。
顔の造形の美しさは然ることながら、桃色の瞳もブロンドの髪の毛も、まつ毛の1本1本だって全て一級品だ。
──────ピンク髪のテラくんもきっと可愛いと思うんだけどな、なんて。
先程の何気ない会話の内容をふと思い出す。「ピンクは似合わない」と言いきった彼の銀灰の瞳には、テラの金色の髪が反射して、キラキラと輝いていた。
「まぁ、ピンクは君によく似合ってるから、譲ってあげようかな」
紅茶をまた一口嗜んで、依央利が用意してくれたお菓子を頬張る。
既に騒がしすぎるリビングも、もうしばらくしたら集まってくる住人達によって、さらに賑やかになるのだろう。
それまでもう少し、水面に浮かぶ自分との世界を楽しもうでは無いか。
穏やかな風が、レースのカーテンを揺らしながら、部屋の中に舞い込んでくる。
初夏の爽やかな空気を運んできたそれは、平和な日常を喜ぶように踊ってから、美しい金色を慈しむように、ゆっくりと撫でていくのだ。