バッドエンドの続きを「なに座り込んでんだよ」
ばくばくと煩い心臓の音の中に清涼感のある鈴の音が響いた。
振り返らなくてもわかる。だってぼくはそのひとのことをよく知っているから。
……不本意ですけど。
ぼくは巽先輩とのライブに備え、ひとりになりたいと言って講堂の舞台袖から離れた。だから今いるところはどこか非常階段の隅である。誰も通らなそうな場所を選んだから。
巽先輩にはちょっと外の空気を吸ってくるだけ、と言い残して。
「なんですか……。見ての通り、ぼくは今忙しいのですよ」
「忙しいんなら座り込んでる場合じゃないだろ。具合でも悪いのか」
「そ、そんなことないのです。ぼくは体調管理も完璧なのです」
首から、水滴がつつーと流れて落ちていく。熱くなっている全身に対して、その汗は冷たい。熱さと冷たさのコントラストが気持ち悪い。
でも、それ以上に心臓が馬鹿になったんじゃないかってほどぼくの胸を叩き続けているのだ。
苦しくて、呼吸すらまともにできない。油断すると息があがって無様な姿を晒してしまう。
でも。
こんなの、さざなみに知られたくないのです。
ぼくはなんでも完璧にこなせるHiMERUなのだから、HiMERUは完璧なアイドルだから、この感情は異常なのです。
だめなのです。
「なんでもないのです。だからほっといてください」
精一杯の虚勢を張る。声が震えないように、意識する。舞台でもないのに、演技をする。
やりきった。これでさざなみもどこかへ行ってくれるだろう。ぼくのことなど放って、さざなみの好きな自主とれやらなにかに励むのだろう。
「……?」
だけど、思っていた答えが返ってくるどころか、反応は何もなかった。
誰も居ない非常階段は、物音ひとつしない。時たま、遠くで誰かが叫んだ声が妙に反響して耳に届く。
なんで……。
どこか行ってほしいとは思った。放ってほしいとも思った。だけど実際に居なくなられると、元々あった不安が心細さと共に増幅して襲い掛かってくる。
「どこ行ったのですか……。なんでいなくなっちゃうんですか……」
矛盾していると言われてしまうだろう弱音を、身体が勝手に吐いていく。
酷い、酷いのです。サイテーなのです。
さざなみがいなくなったことを認識した途端、堰を切ったように目が潤み、そして流れて落ちていく涙。
汗で身体は冷たくなり、反対に泣いたせいで頭は熱くなり、ぼくのなかの体温調節機能は壊れてしまったかのように誤作動ばっかり起こしている。
「うぅ……ぐすっ……っぅえ」
抑えているのに、嗚咽が漏れてきて、さらに涙がこぼれていく悪循環。
こんなことなら舞台袖にいたほうがマシだった。巽先輩に心配されるのが嫌でカッコつけたけど、そんなことしなければよかった。
ぼくは喪失感と不安がごちゃ混ぜになった身体を抱えて、さらに小さく蹲った。
「なーに泣いてるんだ、あんたは」
「さざなみ……。どこ行ってたのですか。ぼくのこと置いていったのではないのですか」
「置いていかれたと思って泣いてたのか?ガキかよ」
「なっ……。だって、突然いなくなるから、びっくりして、こわかったのです! そうですよ。さざなみが居なくなって不安だったのです。それの何が悪いですか!?」
半ば逆切れがなにかになってたと思う。だけど、あふれ出した言葉は止まらない。
真っ赤になった顔から、涙だけじゃなく鼻水まで出てきてしまって嫌になってしまう。生理的な反応だけど、それでもこんなボロボロに泣いてしまって羞恥はもうマックスだ。
「ひゃっ!?」
「これ、買ってきたけどとりあえず飲め。な?」
熱くなった頬に突如冷たい何かが押し付けられた。その冷たさにびくっとしてしまったが、徐々にひんやりして気持ちいいと感じるようになったそれ。
「コーラなのです……」
「あんた、それ好きだろ。冷たくて落ち着くと思うから」
「……」
ぼくは赤いラベルに黒い炭酸飲料が並々詰められているペットボトルのふたをきゅっと開ける。ぷしゅっと爽快感溢れる音がする。
ぼくの好きな音。落ち着く音。
「飲んでいいのですか」
「そのために買ってきたんだよ。遠慮すんな」
「わかったのです」
こく、こくと喉を鳴らし、甘くてしゅわしゅわした液体を流し込んでいく。
冷たくて、おいしい。
開けたばかりで少し炭酸がきついけど、それも含めてすべてが洗い流されていく。
失敗できない舞台への不安も、ひとりぼっちになってしまった怖さも、全部全部流れて、なくなっていく。
「おいしいのです……」
「そりゃ、よかった」
……余裕のある顔。やりきったって顔。
その顔はちょっと癪に障るけど、それ以上に居てくれて嬉しい、という感情が前に出る。
「ありがとうなのです。さざなみ」
「ん。そりゃ、よかった」
「なんでこんなところにいるんですか。誰もいない場所に向かったはずなのに」
「オレ、あんたが舞台出ること知ってたから見に行ってたんだよ。で、そしたら風早先輩が、HiMERUはひとりになりたいからって出ていったって。それでちょっと探した。なかなか見つかんなくてさぁ……。まぁ間に合ったんでよかったけど」
「そこまでしてさざなみになんの得があるんですか」
「得って言うか……。単純に……。えーっ、なんでですかねぇ」
「ぼくに聞かないでくださいよ……」
「あ、あんたの舞台、楽しみにしてたんだよ。それだけ!」
「へ?」
我ながら素っ頓狂な声が出た。予想できなかった答えに、用意してなかった答えに、ぽかんとしてしまう。
「応援してるっつっただろ。だから……。あんま言うと恥ずいけどさぁ」
さざなみは頭の後ろを掻きながら、ぼそぼそと呟いた。
応援?応援。応援してるんだ。さざなみはぼくを応援しているんだ。そうなんだ。
それを自覚するとなんだか嬉しくて仕方がなくなってきた。
手の汗も、首から流れる液体も気にならないほどに嬉しさで満ち溢れていく。
「さざなみ、見ててください。ぼくたちの、ぼくの舞台を」
巽先輩と今度こそアイドルとして、愛されるぼくになるのです。
一歩踏み出したぼくは、くるっとさざなみの方を振り返った。
「応援してくれてありがとう、さざなみ」
『好き』と言うには恥ずかしいけど、『ありがとう』なら言える。
ありがとう、さざなみ。
大好きです。
「よか……?」
真っ白い天井。キラキラした舞台に行くはずなのに、なぜだかぼくは見慣れた真っ白い天井を見ていた。
「え……。どうして……? なんで……?ぼくは……、こんなところに……。嫌、嫌です。出して、ここから出して……ッ。立たなきゃ……みんな、待ってるのです……こんなところにいるなんておかしいのです……っ早く行かなきゃ……っ。離して、離してくださいッ!!」
騒ぎを聞きつけた看護師さんたちがぼくを取り押さえて、身動きがとれなくなる。
「要くん、ちょっとおとなしくしててね」
「麻酔薬、用意します?」
「お願い」
嫌な会話が聞こえてくる。嫌だ。あれをされるとぼくは、ぼくでいられなくなる。
精一杯抵抗しても、ぼくは押さえつけられて、次第に意識がとろんと落ちていった。
あぁ、最後に見たさざなみ、どんな顔をしていたんだろう。
笑っていただろうか、ぼくとともに喜んでいたのだろうか。ねぇ、教えてください。さざなみ。
それを見る前にぼくは意識を失った。