貸してたアレ「アレ返してください」
「なんだって?」
ドアが開いて即要件を言ったら、ごく当たり前の対応をされた。
いや、当たり前でもないか。当たり前から当たり前じゃない。
「なんで驚かないんですか? 僕だってわかってたんですか」
「インターホンが付いてる」
と、玄関を指差しながら。
廊下の奥になんだか殺風景な部屋が見える。久々知先輩の後ろにはまだ畳まれたダンボールも。やっぱり引っ越しの準備を始めてたみたいだ。
「カメラの死角に入ってたつもりなんですけどね」
「そういうことをするのは喜八郎ぐらいだよ」
「宇宙人とか泥棒かもしれませんよ」
「宇宙人の喜八郎か、泥棒の喜八郎かもしれないな」
「地球に生まれてしまった以上今更宇宙人にはなれませんし、こうなると期待に答えるには泥棒になるしかありませんね」
「金目のものなんかないぞ」
「お財布とか、食べ物とか……」
立ち話もなんなので、家に上がらせてもらう。最低限的なワンルームのアパート。廊下は二人がすれ違うにはもう狭い。どいてどいて、と先輩を手で押しやりつつ部屋に入る。
思ったとおり部屋の中のほとんどのものがダンボールに置き換わっている。もともと荷物が少ない人だから殺風景が増してさらに殺風景。ベッドと机とクッションはなんとか生き残っていた。
「アレどこです?」
「アレってなんだ?」
「結構前に貸したアレですよ。洗面所かな」
「洗面所に変なものは置いてないけど」
「借りておきながら変なものとは失礼な」
久々知先輩の証言は信用に値するが、一応洗面所を覗く。うーん、殺風景。掃除は行き届いている。置いてあるのはタオル、歯磨きセット、石鹸、シャンプーとコンディショナー、風呂とトイレ掃除用の洗剤、そんな感じ。
「掃除用具とかもういらないんじゃないですか?」」
「明日ここを出る前に掃除する」
「既に充分きれいに見えますけど」
「明日までに汚れる可能性もあるからな」
「一日で急に汚せる人なんかいませんよ」
「例えば喜八郎とか」
「下ネタですか? 泊まってっていいんですか?」
「変な入浴剤とか持ってきてないならね。あと引っ越しの手伝いをしてくれるなら」
「残念ながら今日は予定が入ってしまいました」
などと話をしつつ、狭いアパートの中をうろうろする。台所の棚にも洗濯機の周りにもアレがない。
「いつも変な入浴剤を持ち歩いてるのか?」
「違いますよ。いつもあんなのを持ち歩いてたら変態でしょうが」
部屋に戻ると久々知先輩がベッドに腰掛けている。なんてことだ。そこは僕が狙っていた場所だったのだが……。仕方がないから床に落ちてたクッションに座った。
「アレが見つからない。どこに置いたか覚えてます?」
「覚えてないしアレが何かわからない。そもそも喜八郎からモノを借りた覚えがないな」
「薄情すぎませんかね。先日もアレを貸したじゃないですか。アレ……イヤホンを」
「ソレはその場で返したし、喜八郎が言ってるアレとは貸すのニュアンスが違うんじゃないか」
「そうかもしれませんね。うーん、アレの名前が思い出せない。もしかしてもう引っ越しの荷物にまとめたとかないですか?」
「そんな怪しいものは入れてないよ」
「怪しいアレじゃないですから」
「そんなに急ぐほど大事なもの?」
「そういうわけじゃないですけど、先輩は卒業しちゃうし、引越し先ちょっと遠くなるじゃないですか」
「ん、まあそうだけど。でも別に会おうと思えば会える距離だよ」
「え。そうなんですか」
「合鍵も作るし」
「ください」
「まだ作ってない」
「なんだまだか」
突き出した手をやんわり押し返されて、ちょっとがっかりしたのでそのまま床に倒れた。床つめたい。頭をコツンと打った。この部屋にクッションが一つしかないせいだ。その唯一のクッションは現在僕の尻の下にある。新居にはクッションを新たに買って持って行こうじゃないか。
「しかし結局アレが見当たらない」
「ほんとに喜八郎から借りたものがあったら後で返すよ。多分引っ越しのときに出てくると思うから」
「先輩は身に覚えのないものだからって捨てちゃったりしそうで怖いんですよね」
「さすがに喜八郎のものだったら見ればわかる」
「えーそうなんですか? そういうアレなんですか?」
「アレが何かはわからないけど」
床から見上げる久々知先輩の苦笑は、なんだかアレだ。なんていうかそういう感じ。
「んーじゃ、まあいいか」
「何もないところでよくくつろげるな」
「ちょっとした涼しさがあります」
フローリングの上を転がる。床は硬い。言ってしまえば涼しさ以外は特にない。そもそも久々知先輩の家は元々あんまり物がないので、引越し前でなくともそう変わらないのだ。先輩本人はご存知なさそうだけど。
「やっぱり引っ越しの手伝いして行くか?」
「いやあ、今日はそういう予定はなさそうなんですよね」
でもあとしばらくここに転がってる予定はなくはないので。