普段通りの レッスンルームから出て廊下のベンチに腰を下ろす。まだ少し息が上がっているのを整えながら、ペットボトルの水に口をつけた。壁一枚の向こうから大音量のBGMがくぐもって聞こえる。
だとしても、俺の後に続いてコイツまでレッスンルームから出てきていたのに気が付かなかったのはあり得ない事態だ。
突然俺の横に乱暴に座ったかと思えば、不機嫌そうに黙って口を尖らせそっぽを向く。不機嫌そうなのはいつものことだ。だが黙っているのは普通じゃない。
「水なら自分のを持ってこいよ」
「いらねー」
変だ。俺と同じく直前までのダンスレッスンの熱と汗が残ったままの横顔は、まるで小難しいことを考えているみたいに顰められていた。普通じゃないし、変だし、似合わない。
「おいチビ、……らーめん屋の名前って、知ってるか」
「は? 知らないわけないだろ」
難しいことを考えすぎてこんがらがったみたいな顔が弾かれたようにこっちを向く。『しんじられねー』と書いてあった。それはこっちのセリフだ。
「同じユニットの仲間だし、そもそもそれなりに長い付き合いだし、というかさっきまで同じ部屋で一緒にレッスンを受けてただろ。トレーナーさんが何度も名前を呼んでたの、聞こえてなかったのか?」
あまりのことに俺の方が声を潜めてしまった。だって円城寺さん、レッスンルームに居るはずだ。この壁の向こうに。いくらコイツが信じられないようなヤツだからって、こんなこと言ってるって円城寺さんが知ったら傷つくだろう。
幸いにも、レッスンルームではいつも通りの激しいBGMが流れている。
「うるせ。オレ様はキョーミあることしか聞こえねーんだよ」
「……そうか」
コイツの非常識にいちいち付き合ってても時間のムダだ。コイツもまたそっぽを向いて黙り込んだ。放っておこう。
……で。不機嫌なままコイツはじっと俺の横に座っている。こんなの滅多にないことで、思ったよりも気まずい。水を飲むにしても、コイツやっぱり自分の分の水持ってきてないんじゃないか、と今の流れとは関係ないことまで気になってくる。少なくとも今朝の荷物にはそれらしいものは入っていないように見えた。
こんな気まずい思いをしたまま貴重な休憩時間が過ぎていくのは最悪だ。レッスン前に腕時計を外したからレッスン再開まであと何分なのかわからない。もうレッスンルームに戻ろうか? 立ち上がったらコイツの前を通ることになる。
観念して、真横に座るコイツの顔をもう一度見た。物言いたげに口を尖らせている。
つまり、本当に言いたかったのは『知っているか』じゃなくて『教えてくれ』だろう。意地を張らずに素直に言うべきだ。
「円城寺」
「……えんじょーじ」
復唱した。思ったより素直で、今度はそれに戸惑わされる。
だがコイツも言った後に、少し居心地悪そうに口をモゴモゴさせている。
「なんで円城寺さんの名前を知りたかったんだ」
「ア!? 別にオレ様が知りたかったワケじゃねーよ!」
「教えてやったんだ、理由を聞く権利ぐらいあると思うが」
「……フン。らーめん屋が呼んでみろって煩かったからだよ。わけわかんねー」
「いつ」
「昨日の夜」
「俺は聞いてない」
「オマエはらーめん屋のこといつも名前で呼んでるからだろ」
「それは、そうだけど」
コイツ、時々おかしいぐらい純粋だ。腹が立ってきた。が、コイツはそれもわかっちゃいない。こっちを向いて会話しながらも、少し黙るとさっきの繰り返しの後のまま、まだ言いにくそうにモゴモゴしている。
「んなのいいから……なんだって?」
「円城寺」
「えんじょーじ」
二回目。鳥かなにかのように素直に繰り返す。
この腹立ってるのは八つ当たりだ。俺が言いたかったのは『聞いていない』じゃなくて『言われてない』。素直じゃないのは俺も同じ――かと思ったけど、別にコイツに対して素直になる必要なんかないか。
「言いにくい名前」
「そんなことないだろ」
まだ、コイツはじっとこっちを見ている。
他に話すことなんか……いや。
「円城寺」
「えんじょうじ」
続きを、待っているんだ。だがその続きが出てこなくて、ぐっと息を呑みこんだ。
みちる。道流さん、だ。
でも俺も、呼んだことがない。言いにくい名前だ。本人の前じゃないとしても。
コイツは俺の気も知らないで、その続きをおとなしく待っている。
「円城寺」
「えんじょうじ!」
で、能天気に復唱する。練習でもしてるみたいに。
本当にわかってないのか? ホントはコイツも円城寺さんの名前くらいわかってて、俺を練習に付き合わせるために変な言い訳を考えた、ってことじゃないだろうか。
その俺も、円城寺さんの名前を呼べずに言い淀んでいる。
「……わん」
「わん」
「にゃー」
「にゃー」
考えすぎか。コイツにそんな細かい考えなんかあるはずない。マジでわかってないだけだ。
「ンな名前だっけか?」
「冗談だ」
「アァ!? 冗談ってどーゆう意味だ!」
「なんでも復唱するのかと思ってつい」
「テメェ意味わかんねーんだよ!」
スイッチが入って喧嘩になる。レッスンルームから漏れて聞こえる激しいBGMも発破になった。ベンチから立ち上がって掴みかかってくるコイツを、どういなすかを考えてこちらも立ち上がりざまに拳を握る。
そこで――。
「お二人さん、そろそろレッスン再開だ」
廊下の向こうから、円城寺さんがこっちにやってきていた。
気が付かなかった。コイツがうるさかったし、この廊下はいつもレッスンルームから漏れる音楽で騒がしい。
「テメっ、らーめん屋! まさか立ち聞きとかしてねーだろうな!」
「どうかな? しかし普段と違う呼ばれ方をされると、なんだか照れくさいな」
「聞いてたんじゃねーか!」
「あはは。バレたか」
ターゲットを俺から円城寺さんに切り替えて詰め寄るコイツを、円城寺さんは笑いながら両手で押し返して宥め始めた。
俺も普段から円城寺さんのこと名前で呼んでるんだけど。……こういうの、たまにやるヤツの方が得……だな。
じゃあ、道流さんって呼んでみるか。
息吸って、口を開く。何も出てこない。言いにくい。
「タケルもな」
「ん」
今は違うか。急に呼び方を変えるのも変だ。後で、やってみよう。今じゃない。
「円城寺さん、ソイツのことは放っといて早くレッスンに戻ろう」
「アァ? チビのくせにオレ様をほっとくな!」
「はは、漣もやる気みたいだな」
尚も噛み付いてくるコイツを円城寺さんはいなしながら、ふと俺の方へ振り向いてポンと頭に手を置いた。
さっき、俺はいつも通りに呼んだはず、だよな。