そこにあるもの(冒頭サンプル)サイドテーブルに置かれた燭台の上でろうそくの火がゆらゆらと揺れている。その橙色の光が安宿の薄汚れた壁に映って、目の前に立つ男の影もまるで影絵のように軽快に揺れた。
狭い部屋にはベッドが一つあり、その横には古びて脚ががたついたサイドテーブルが置かれている。そのほかに、椅子や棚、絨毯などはなく、ただ眠るためだけに用意された小さな空間だった。ベッドの傍の壁には小さな窓がある。粗末な質の悪いカーテンを通り抜けた月明かりは、否応無しにシーツの上に白い光を落としていた。
視界の端でろうそくの火が揺らめくのを感じる。ゆらゆらと火はずっと微かに揺れている。目の前のライオスの白い右頬が、橙色に染まっているのが目に留まった。
「チルチャック、俺を見て」
言われるまでもなく、ベッドに座った時からチルチャックはライオスから視線を逸らすことができない。
ライオスがしゃがみ込んで床に膝をついた。その動きで空気が振動して、ろうそくの火が一度大きく揺れる。
「目を閉じて」
チルチャックはライオスを見下ろした。彼の色素の薄い瞳にろうそくの火が反射する。その瞳を通して火の揺らめきと熱さを感じた。
「チル」
静かな声音の中に微かに責めるような鋭さを感じて目を閉じた。目を閉じていても薄い瞼の皮膚の先で、光の明滅を感じ取れる。
たった一度の過ちならば、魔が差したと言ってしまえば一言で終わることだった。しかしもう引き返すことはできない。一度心身の平穏を覚えさせられた脳は、同じだけの快楽を求めはじめる。
「君は今、階段を一段ずつ降りている」ライオスの柔らかな声が、そよ風のように囁いた。「一歩、また一歩と階段を下っていく」
「……どんな」かすれた声でチルチャックは聞いた。「どんな階段だ」
「君が想像しやすいものでいいけれど、そうだな……。うん、この宿屋の階段にしよう。この部屋に来る時に上がってきただろう」
チルチャックは返事もせずに部屋に向かうときに上った階段を思い返す。板張りの階段は、足を踏み出す度にギィと軋んだ音が鳴った。
「君は想像の中で階段を下っていく」
彼の囁きに合わせて、チルチャックは上ってきた宿屋の階段を下る想像をする。足を踏み出す。踏板がギッと悲鳴のように高い音を立てて軋む。もう一歩足を踏み出す。
「階段を下る毎に、君の意識は深く潜っていく」
彼の声に従っていると、緊張で強張っていた肩から力が抜けていった。ぼんやりと夢心地で、落ち着きなく小刻みに動かしていた手足からも力が抜けて、いつの間にか投げ出してしまう。
ライオスが動く気配を感じて思わず瞼をぴくりと動かすが、目を開きはしない。瞼を閉じたまま、じっと彼の次の動きを待つ。
ライオスの大きな手がチルチャックの肩を一度ゆっくり撫でた。そのまま肩を押されベッドにどさりと横たわる。意識がふわふわと彷徨っていてはっきりとしない。心地いい。抱えている不安も不満も意識と同じようにふわふわとして、頭から浮かび上がっていく。
「階段を下りきった君は、扉の前に立っている。扉の先に君を脅かすものは何もない」
不明瞭な意識の中でも鋭い五感はベッドが軋むのを感じ取った。耳元に吐息の熱さと消え入りそうな囁き声があって、ライオスがベッドに上がってすぐ隣に横たわっていることが分かった。
「さあチル、扉を開けて」
頭の中では鮮明に木製の古い扉が形成されていた。そのドアノブを右に回すと眩い光が飛び込んできて、想像の中だというのに思わず目をしばたたかせる。
その先の事は一片も覚えていない。
チルチャックに分かるのは、ライオスが手を叩いた音で目を覚ました時に頬とシーツが生温い水で濡れていたことだけだった。
チルチャックはテーブルに置いた蒸留酒の瓶へ手を伸ばすと、瓶に直接口をつけて胃の中に液体を流し込んだ。灯りを落とした部屋は月明かりが入ることもなく真っ暗だった。
組合の宿舎の一室にあるベッドへ横たわると、天井をぼんやりと眺める。隣接する部屋や周囲にも組合員はいるはずだが、皆眠っているのか今夜はいつも以上に静かだった。
好きだった酒が寝るための手段になってしまったのはここ最近の事だ。中々訪れない眠りを迎えに行くために、チルチャックは今日も酒を口に含んでしまった。
しばらく続く不眠の症状と蓄積された疲労で身体は眠りを求めているはずなのに頭は覚醒している。目を閉じて眠ろうとするが、思い浮かぶのは差し迫った組合の仕事のことだ。
チルチャックが島へ移って組合を結成してから、およそ二年が経った。島にいる冒険者とそれに付随する商人たちの数は島へ来た当初から一気に増え、比例するように組合員も急増した。組合員が増えればトラブルも運営費も必然的に増える。悩みの種は尽きることはないが、逃げ出すわけにも行かず、疲労はじわじわと溜まっていった。
ハーフフットの組合は過渡期を迎えており、鍵師として迷宮に潜らない期間は組合の仕事に忙しく、休む暇も近頃はない。
チルチャックは落ち着かずにベッドの上で何度も寝返りを打った。酒で胃は熱いのに手足の末端は妙に冷えている。
眠るのを諦めて身体を起こすと、立ち上がって消したばかりの灯りを再び点ける。テーブルから酒瓶を手に取って一口含むと、チルチャックは明日の会議で使う資料を端から読み始めた。
ようやく眠りに落ちることができたのは、窓の外で鳥が囀りはじめた頃だった。