夏休み13日目 デートをしないか、とディオンに誘われたキエルは、思わず「え?」と訊き返してしまった。
「デート?」
「そう。そなたがよければ、の話だが。今夜……いや、明日の夜だな。少し時間をくれないか?」
曇り空を見上げ、ディオンが言う。
「え、えええ? 私? お兄さん、何か悪いものでも食べたの?」
自分でも何を言っているか分からないな、と思いながらもキエルはディオンに訊ねた。すると、彼は微笑んで、人差し指を自らの唇に当てた。少し声が大きい、ということらしい。
「キエルは面白いことを言うな。私の体に悪いところなど何もない。ただ、そなたと少し時間を共にしたいだけだ」
「は、はい……。私はいいけど、テランスさんは?」
「テランスには内緒だ」
キエルはますます混乱した。ディオンがテランスに秘密にしていることなんて、あんまり思いつかない。いや、たぶんあるのだろうが、こうもきっぱりと言われてしまうと勘ぐってしまう。きっと、何かあるのだ。そして、今この場ではディオンは語らないだろう。
と、すると。
「分かったわ。明日の夜、ディオンお兄さんとデート、ね」
「楽しみにしている。夕餉の後に迎えに行くから」
「何か持っていくものは?」
キエルの問いに、ディオンは微笑みのままに告げた。
「蠟燭と、燭台を」
ディオンのその言葉に、キエルはデートが意味するところを察した。
翌夜。
裏デッキの外れには滅多に人は来ない。水辺に近いから、危険だと寄り付かないその場所に、二人は並んで座っていた。
「ダルメキアでも、その土地でいつ何をどうするのかは違うみたい。……クリスタル自治領はあのときお兄さんのところの国だったけど、ダルメキアにもとても近かったから」
「そうだな」
火打石を巧みに使い、ディオンが火を蝋燭に灯した。そういったこともできるんだ、とキエルは妙に感動したが、灯火に照らされたディオンの横顔は「なんということはない」と語っていた。
蝋燭を灯した燭台をできるだけ水辺の近くに置く。灯籠の代わりに。
「あの夜まで」
ディオンの呟くような声をキエルは聞いた。
「私は、己のことばかりを考えていた。自治領で引き起こしたことやそれまでの行いに絶望していた。……いや、あの夜を過ぎてからもそうだったかもしれない。だが、あの夜、川を流れていく無数の光を見送って……心は不思議と定まった」
「お兄さん……」
キエルもあの夜を思い出した。たくさんの人達が泣いていた。泣き叫ぶ人も、無言で涙を拭う人も、呆然と灯籠を見送る人も、目を閉じて祈りを捧げる人も。きっと、多くの人の心が裂かれていた。自分は、といえば出来事の重大性を理解していなかったかもしれない。既に独りだったし、偶々助けたお兄さん──ディオン・ルサージュ──の不調を案じる気持ちのほうが強かった。
犠牲になった多くの人を幽世に送る儀式を、その目に焼き付けるように見入っていたディオン。その後、彼が何をどうしたのかはすべてが終わってから簡単に聞いた。話してくれたのは、ここの──隠れ家の──リーダーでもあるシドだった。クライヴと呼んでくれ、と言った彼は、自分にも分かるように説明してくれた。そうして、ディオンの生存を知って、自分を連れて急ぎやって来たもうひとりの「お兄さん」──テランスを別室に連れていった。ここで待っていても仕方ないわ、とジルと名乗ったお姉さんが言い、「マーテルの果実」という果物の果汁をふるまってくれた。
クライヴとテランスは長いこと話し込んでいたと思う。そのときも、その後も、ディオンは目を覚まさなかった。治療にも様々あってね、と話してくれたのは今の「師匠」のタルヤだった。わざと眠らせていたらしい。
隠れ家の皆も、自分も、ディオンが目を覚ますのを待っていた。けれど、誰よりも強く望んでいたのはやっぱりテランスだったとキエルは思う。それだけの繋がりを彼らは持っていた。一度だけ、ぼんやりとした様子でディオンのことをテランスが話してくれたことがあって、そのときの彼の複雑な表情は一生忘れないと思う。
「心が決まって……よかった?」
「どうであろうな。ただ、己にも何かできる、否、しなければならないとそう思ったのだ。キエルは、贖罪という言葉を知っているか?」
「なんとなく、だけど」
湖から吹く風で灯火が揺れる。
「お兄さんが飛んだのは、そのためなの?」
空に浮かんだ黒い塊。その不気味な塊を砕きに行った人達を運ぶために、ディオンは飛んだ。それも、人づてに聞いたことだ。
「……それくらいしか、あのときの己はできなかったからな」
ふ、とディオンがささやかに笑んだ。そうして、彼は後ろを仰ぐ。デッキの柵を越え、やって来たその人に向かって舌打ちをした。
なんだか、珍しいものを見た気がする。
「今は、どうですか?」
話をどこまで聞いていたのだろうか、テランスはディオンにそう訊ねた。そんなに大きな声は出していなかったから、普通だったら聞こえないはずだとキエルは思った。もしかすると、テランスはストラスのように特殊能力を持ち合わせているのかもしれない、などと思うくらいには驚いた。
テランスの問いに、ディオンは笑みを深める。ゆらゆらと揺れる灯火にも負けず、彼の笑顔は穏やかだった。
「未来が見たい、そう思っている。……そのために力を尽くさねば、とも」
ディオンはそう言うと、キエルを見た。優しいその笑みに、思わず胸がどきんと跳ねる。
「未来……?」
「そう。キエルが薬師か医者を目指したいと思っているように、多くの者が自らの未来を描けるような世界を。そのような明日を」
ディオンの言葉は祈りのようだった。──実際、その祈りを捧げたくて、彼はここにいるのだろうけれども。デートと称して、自分を連れて。
切ないな、とキエルは思った。と同時に、彼の強さも感じた。
「お兄さん、大丈夫。きっと、叶うわ」
「キエル?」
不思議そうに呼んだディオンに、キエルは笑ってみせる。
「お兄さんのその祈りは本当のものだもの。それに、みんなそう思ってる。それに……」
キエルは、テランスを仰ぎ見た。
「お兄さんはもう独りじゃない。だから、大丈夫」
ディオンのこれまでを自分はよく知らない。でも、今の彼がどんな人と接しているかは少し分かる。「敵」が多いことも、でも、「味方」もたくさんいることも。
何より、テランスというかけがえのない人がいるということを。
「ね、テランスさん」
キエルの呼びかけにテランスが頷く。少しばかり肩を震わせたディオンの背を撫でるついでに、彼はキエルを挟んで座った。
「ええ。……花火を持ってきました。どうですか?」
「楽しそう!」
わあ、とはしゃいだキエルに、テランスが花火を渡した。細い紙縒りの花火は見たことがある。小さな火花をちりちりと飛ばす、儚い花火。
「ディオンにも」
敬称抜きで話すテランスからディオンが花火を受け取った。まったく其方は、と何やらぶつぶつと言いかけた彼に、テランスは笑った。
「最後まで残った人が勝ちです。では」
蝋燭の火にそれぞれが花火を近づける。
すぐに、火が付いた。幼い頃に遠目で見ていたあの可愛らしい火花が灯り、キエルは何とも言えない気持ちになった。
ディオンも、テランスも、何も言わなかった。それぞれが、自分の花火を見ていて。
静かな夏の夜のことだった。