焼き林檎「おやすみなさい、良い夢を」
前ほどではないけれど久々に帰ってきた息子にそう声をかけると、彼ははにかんで「母上も」と呟いて私の部屋を出ていった。
珍しく話し込んだ。とはいっても、深刻な話はしていない。懐かしい話と、今の話と、未来の話。辛いことも多かっただろう「少し前の話」はすっ飛ばした息子に内心で溜息をついた。随分心配したのよ、とは言わないし、言えない。これからも、言わずともいいと思っている。なにせ、「今」と「未来」がほとんど惚気話だったのだから。
だから、大丈夫と信じている。
蝋燭の火が少し風に揺れた。硝子窓も木戸も下ろしているし、暖炉の火も落としていないけれど、それでも冷気は入り込む。肩掛けと膝掛けを持ち、私は日記を書きつけるために文机に向かった。
――それから少しして。
コン、コン、ココン。控えめで懐かしいノック音に、私は小さく笑った。立ち上がって手元の燭台を持ち、真夜中のお客様を迎えるべく扉を開ける。お客様は少し困ったような、真剣なような、それでいてやわらかい表情で私に略礼をとった。
「夜分遅くにすまな……すみません」
「こんばんは、ディオン様。礼儀作法も敬語も要りませんよ。どうなさいましたか?」
私のざっくばらんな話し方に気を和らげたのか、お客様――ディオン様の気配がふっと緩んだ。一瞬の逡巡の後に、口を開く。
「少し、相談……というか、頼み事が」
それだけを言ったディオン様は、はた、とご自身の言動を省みられたのか、かぶりを振った。「ご婦人を訪ねる時間ではなかった、失礼をお許しいただきたい」と早口で続けて踵を返そうとした彼に、私は「お待ちください」と声をかけた。
ぴたり、と彼の動作が止まる。
「何か私にご用があっていらっしゃったのでしょう? 「頼み事」が気になって眠るどころではありませんから、どうぞ」
お入りになって、と続けて大きく扉を開けると、ディオン様は意を決したように小さく頷いて部屋に入った。とはいうものの、そのままではいつまでも立ち尽くしていそうな様子に、思わず苦笑する。さっきまで息子が座っていたソファを勧め、私は彼が着座するのを待ってから一人掛けの椅子に座った。
夕餉のときもその後の茶話でもディオン様とは語らった。周辺の現況と、そのほか他愛もない話だったけれど、夫と私、息子とディオン様が隣あって座り、話は倦むことを知らなかった。珍しいものが好きな夫が持ち込んだ機械仕掛けの時計が「ポーン」と鳴らなければ、今時分まで話し込んでいたかもしれない。
その場を解散して、それぞれが部屋に戻った。夫は早めに寝る性分で、私は夜更かしだから、今は部屋は別。ディオン様と息子の部屋については「さてどうしようか」と帰省を伝える息子からの報せを受け取ったときに少し考えた。とりあえず、ということで結局はディオン様に主賓用のお部屋を、息子には一応設えておいた彼用の部屋を用意した。これで概ねなんとかなるでしょう、と胸を張って言った私に夫は苦笑いを見せたが、その実は嬉しそうだった。
後に息子が来て、色々話して、そして今度はディオン様がいらっしゃった。いったい何のお話、もとい、頼み事かしら、とわくわくしてしまう。ディオン様のお顔に憂いがなかったから、そう思えた。
「あの子と喧嘩でもしましたか?」
「そう……見えますか?」
敬語は不要と言ったのに、ディオン様は言葉を選んだ後にそのように仰った。幼い頃は息子と同じ口調で接してくれたものだったし、長じてからはお会いすることもなかった。長い時を経ての再会に、彼もまた迷いがあるのかもしれない。
「いいえ、ちっとも。仲良しさんで羨ましいくらいです。でも、少しくらいは喧嘩もよろしいものですよ?」
そんなふうに水を向けた私に、ディオン様は小首を傾げて考え込む姿勢を見せた。ややあって、ふ、と笑って頷く。幸せそうな笑みを浮かべ、両指を組んでソファの背に凭れた。
きらり。蝋燭の灯火がディオン様がつけている指輪に反射した。
「頼み事、なのですが。……明日、焼き林檎を作っていただけませんか」
「焼き林檎?」
ディオン様の「頼み事」は、唐突なようにも思えた。不思議に思った、それが表情にも出てしまったのだろう。すみません、とディオン様は慌てて言葉を付け足した。
曰く、幼い頃にテランス――息子のことだ――と食べた焼き林檎の味が忘れられないのだと。あのときの幸福をもう一度味わいたい。そして、「彼」と今も共に在る幸せを、噛みしめたい。そのように仰った。
切実な口調だったが、内容はディオン様が依頼した「焼き林檎」以上に甘いものだった。さっきの息子の表情を思い出す。顔立ちはまるで異なるけれど、同じようにディオン様の表情にもとろけるような幸せが滲んでいた。
「思い出補正がかかっているかもしれませんよ?」
「それは否めません。ですが、きっと新たに美味しく感じると思うのです」
意地悪な問いをした私に、ディオン様はきっぱりと即答した。成人男性にこう感じるのもおかしな話だけれど、可愛いと思ってしまう。幼い頃を知っているだけに、もしかすると今のほうが可愛らしいのかも。
大変ね、と心のなかで息子に同情しながら私は頷いた。
「分かりました。幸い、材料も揃っていますし、腕によりをかけて作りましょう。ディオン様も林檎の芯をくり抜くのを手伝ってくださいね?」
「……破壊しないように気を付けます」
少しばかり眉間に皺を寄せて神妙に頷いたディオン様に微笑んで、それから私は訊ねた。
「何か、きっかけがおあり?」
その問いに、ディオン様は「特には」と答えた。真か偽か分からないけれど、何かはあるのだろうと思う。一瞬だけ視線が泳いだことに気付きはしたが、追及はしない。これは、彼の――、いえ、彼と息子の間にある種々多様な感情の表れなのだろう。
「テランスには、秘密にしておいてください」
最後に、人差し指を唇にあててそう言うと、ディオン様はソファから立ち上がった。承知しました、と私は応え、立ち上がって扉へと向かった。
「それではおやすみなさい、良い夢をね」
「……貴女も」
本当に息子とそっくりの表情で去っていく彼を見送る。やがて姿が見えなくなったのと、別の足音が聞こえてくるのを認めてから私は扉を閉めた。
まったくもう、と溜息をついて思う。眦にわずかに浮かんだのはきっと嬉し涙だろう。年を取ると涙もろくなるというけれど、本当だった。
懐かしい話と、今の話と、未来の話と――、それらを繋ぐのは忘れてはいけない記憶。事実。ディオン様が実際にはどのような思いでいるのかは推量しても仕方がない。けれど、ほんの少し揺れたまなざしは「すっ飛ばす」ことはできないのだろう。ディオン様も、あの子も。
――秘密にするのは、焼き林檎だけで充分ね。
そう思いながら、書棚からレシピを引っ張り出した。