新しい記念日「明日、帰るのだろう? ご家族によろしく伝えてくれ。きっと、首を長くして待っている」
「うん、この前の手紙で「待ってるよ」って書いてあった。ディオンも……あっ」
幼なじみにして同期生でそして何より大切な親友のディオンが何気ない笑顔と口調で言ったものだから、テランスはその笑顔につられて返事をしてしまった。
失敗した、と思う。失敗とは、ディオンに自分の家族のことを語ったことではない。ディオンに同じような言葉をかけてしまいそうになったことが失敗なのだ。しかも、その失敗を気取られるような声を上げてしまった。
ディオンに帰省を促す手紙は届かなかった。ずっと待っていたのに。
勿論、テランスの失敗は過たずディオンに伝わったようだった。だが、彼はテランスの失言を咎めるでもなく、目を細めて寂しそうに苦笑するだけだった。
その笑顔に胸が突かれるような思いがして、テランスは項垂れた。修道院の付属学校は冬季休暇に入る。その休暇を利用して帰省するのは多くの学友の倣いだった。テランスも帰省が楽しみだったはずなのに、その気持ちは急に萎んでどこかへ消えてしまいそうだった。
――ディオンのそばに、いたい。
「案ずるな」
普段の声音でディオンが労わるように言う。彼はテランスの頬を両手で包むと、額を合わせてきた。下げていた視線をそろりと上げると、ぼんやりとディオンと目が合った。
「昨夜遅くに使いが来たのらしい。「私」も「家」に帰る」
「そう、だったの……」
「父上にもお会いできる。ご報告したいことが山ほどあるのだ」
「……うん。たくさんお話をしてきて」
「ああ」
ゆっくりとまばたきをして、ディオンが微笑んだ。
触れたときには少し冷たいと思ったディオンの額が、ほのかに温かくなる。自分が伝えたその温かさが心地良くて、テランスははにかんだ。
――やっぱり、ディオンのそばがいい。
そんな思いがふと心に浮かんだ。だが、それは心に秘めていたほうがよい気がして、言葉にはしなかった。
代わりに、勢いをつけて頭突きをするかのようにディオンの額を自分のそれで押した。
「戻ったら、試験だね。落第しないように勉強しなきゃ」
「次席のそなたが何を言う? 私こそ気を付けなくては」
「いつも首席のディオンにだけは言われたくないよ……」
軽口を叩き合っていたら、強張っていた雰囲気が少しばかり緩んだような気がした。きっと、気のせいではない。そうテランスは思った。
それなのに。
「土産話をたくさん聞かせてくれ。楽しみにしている」
最後にそう結んで片目を瞑ってみせたディオンに、テランスは曖昧に頷いたのだった。
帰省を待ちわびてくれていた実家で、テランスは楽しく過ごした。
貴族とはいえ、中流。贅を尽くしたものではないが、テランスの好物が食事の際に多く出た。両親は勿論のこと、後継ぎである長兄もテランスの学校生活話を聞きたがった。優しいまなざしで熱心に話を聞いてくれる家族の存在を嬉しく思う一方で、心の隅っこに沁みがついたような感覚があった。
「百回」
三日目の夜、昨夜と同じように色々話していたら、唐突に父と兄が同じ言葉を発した。父と兄は顔を見合わせ、数拍後に声を上げて笑い出した。え、と戸惑うテランスの肩を母が抱き寄せ、「何の数だと思う?」と問いかけた。
「……何って……。分からな……分かりません」
首を捻ってテランスがそう返すと、家族は一様に微笑んだ。それでも内からは笑いがまだ込み上げてくるらしい兄が「ああ面白い」と言いおいてから、数の意味を教えてくれた。
「テランス、お前がディオン様の名前を出した回数だ」
「え」
「ディオン様が、ディオン様の、ディオン様は……って、お前の話を聞いていたはずなのに、いつの間にかディオン様の話になっていたよ。まあ、前からそうだったから、今回は数えてみたんだが、予想以上だったな」
父が兄の言葉を引き取って続ける。ぽかん、と口を開けたテランスだったが、じわじわとよく分からない感情で全身が熱を帯びたような気持ちになった。
「そんなに……?」
「私はもっとディオン様のお話だらけになると思っていたのだけれど。でも、そうね。テランスが嬉しそうに話すから、私達も幸せな気持ちになったわ。ディオン様とこれからも仲良くね」
そう言って頭を撫でてくれた母に、テランスはふわふわとした気持ちで頷いた。
――次の日。明日は、家を離れる。
「父上、少しいいですか?」
書類仕事をしているという父の邪魔はしたくなかったが、テランスは父の書斎の扉を叩いた。すぐに応えがあり、テランスは入室した。
「どうした?」
手にしたペンをトレイに戻し、父は穏やかな表情でテランスを手招きした。やっぱり自分は家族に愛されている、と心のどこかでもうひとりの自分が囁く。それは、この帰省で生まれた心の沁みだった。
「ええと……。ディオン……様、のことで」
「百二十回。ん?」
まだ数え上げているらしい父を恨めしい思いでテランスは睨んだが、父は微笑んだままで先を促した。
「ディオン様のお誕生日に、カードを書いて贈ったのです。すごく喜んでくれて、何度もありがとうって言ってくれて、僕もとても嬉しかったのですが……」
「それは良かった。そういったものはとても大切だからね」
「……でも、ディオン様に贈られたカードは僕のカードだけだったんです」
修道士の教師に上質な真白のカードをいただき、カリグラフィー用のペンを借りた。覚えたての拙い技法で「お誕生日おめでとう」と書いて、いつもの羽根ペンであれこれと書き添えた。
ディオンの誕生日当日、同室の彼が目を覚ます前に枕元にカードを置いた。運悪く、お御堂の掃除当番だったから彼がカードを読む瞬間には立ち会えなかったが、身支度もそこそこの様子のディオンがお御堂に駆け込んで満面の笑みで飛びついてきたときにはテランスは喜びと驚きで胸がいっぱいになった。
嬉しい。ありがとう。嬉しい。ありがとう。ありがとう。
抱きついたディオンが同じ言葉をあまりにも繰り返すものだから、テランスは心配になるくらいだった。喜んでもらえて僕もとても嬉しい、とテランスが告げると、ディオンの力が抜けた。
――私の「誕生日」を祝ってくれたのは、そなただけだ。
身を離してディオンはそう言い、涙をひとしずく落としたのだったが――。
「ディオン様の父君はご多忙だとは聞いています。でも……」
「……そうだったのか。でも、テランス」
父は立ち上がると、テランスの傍に寄った。いつのまにか握りしめていた拳を両手で包み込み、ぽんぽんと宥めるように優しく叩く。
「ディオン様の父君であるシルヴェストル様の祝辞が来なかったのと、お前のカードは関係がない。お前は、お前の気持ちでディオン様にカードを書いた。ありったけの思いを込めて」
「……はい」
「お前の思いはディオン様にまっすぐに届いた。もしも、父君からのカードや多くのカードが届いたとしても、きっとディオン様はお前のカードを喜んでくれただろうよ」
父の言葉に、テランスは零れそうになった涙をもう片方の手で拭った。
もう少しで、学校に着く。
チョコボが引く馬車のなかで、テランスは父の言葉を思い出した。
あの後――カードの話をした後――、鍵付きの本棚から自らの日記帳を出し、父は頁を捲った。
『ああ、この日だ。テランス、この日も記念日と心得ておきなさい』
そうして教えられたのは、とある日付。テランスは、その日付に詳しい心当たりはなかった。
ただ、なんとなくこの月の季節に、覚えはあった。
そんなテランスに父は言った。
『お前がディオン様に初めてお会いした日だ。大切な記念日だろう?』
§ §
――あれから、かなりの月日が経った。その、とある日。
「寝たふりはやめないか、テランス?」
喜色を浮かばせたディオンの声色がごく間近に響く。その声音が幸福そのものの響きであることに、テランスは安堵と歓喜の思いと共に瞼を開けた。
目に映るのは、穏やかな笑みでこちらを見つめるディオンの姿。先ほどテランスが枕元に置いた「記念日カード」を口元に寄せ、ふふ、と笑う。
ディオンの「誕生日」は消えた。その代わりに、二人が出会った日が「一番大切な記念日」になった。
「嬉しい。ありがとう、私の最愛」
「君のその言葉で僕は満たされるよ。……そう言ってくれて、僕こそ嬉しい」
寝転がったままでゆっくりまばたきをし、両手を伸ばしてディオンを引き寄せる。せっかくのカードが折れてしまう、と少し焦った口調でディオンがカードをサイドテーブルに置くのを確かめてから、テランスは彼を抱きしめた。