奪還「グエリゴールはもはや何も言わない。星めぐりは変わった。そして、私もまた」
かつては想像もできなかっただろう。動揺するあまり、得物を持つ彼の手が震えるなどということは。亡霊か何かを見るようなまなざしを彼が私に向けるなどということは。
愉快な心持ちは高揚に繋がっていく。あとは、彼が過たずに私の手を握ってくれることを願うのみ。
だが、こればかりは分からない、と心の片隅で少しだけ思う。私はもう長いこと行方が知れなかった。生存は絶望視され、既に亡き者として扱われてきたのらしい。私自身、今こうして聖槍を握って彼と対峙できようとは思いもしなかった。そう、幽世とも違う無の世界から引き戻されるまでは。
私を呼んだのは――召喚したのは――誰か。誰の祈りによるものか。
とある地で意識を取り戻したとき、私は己の身が「以前とは違う」と思った。心身はともに妙に軽く、そのありようは生者ではないような気がした。これまで誰にも言わなかったが(といっても彼は気付いていただろう)、常に抱えていた鈍い頭痛もない。石化の痕跡もほぼなかった。これが完全に消えていたならば己が身を異物として認められただろうが、それもまた違うようだった。
私を治療したつり目の医師曰く、「只人とはそういうもの」とのことだった。そう、私は前とは違うものになった。
願った死を一度は得たのだろう。だが、誰かの声が私のことを引き上げた。それは誰なのか? ――勿論、目の前で動揺しきっている彼だ。
「本当に……?」
人目があるゆえ、立ち尽くすわけにもいかずに適当に槍を繰り出す。それをやはり雑に流す彼の口からそんな問いがこぼれ落ちた。自らの疑念など本当は信じていないのだろうが、それでも言葉は落ちる。そういうものだ。
「騙り者だと疑うか? あるいは幻や亡霊とでも」
「いいえ、いいえ、そのようなことは……! でも、それだったら、どうして」
「何故、もっと早くに姿を見せなかったのか? 何故、知らせなかったのか?」
金属音を鳴り響かせて打ち合う私達を警護隊が固唾を飲んで遠巻きにしている。彼の「今の主人」を警護する者達だ。
私をこの世に引き戻したのは彼の念だというのは疑う余地もない。しかし、私の命を留め置いたのは、ありとあらゆる治療を「実験台」と称して施してくれた医師と、その医師が与する仲間達だった。かつて僅かなりとも私が貸した力、その借りをきっちり返したいのだとあの「大罪人」は言っていたが、どうにも釣りが来るような気がしてやまない。有難く受け取る気になれるまでには時を要したが、寂寥感が死への思慕を上回った。
彼、がいない。
私が生きていくために必要な、唯一無二の存在が。
彼が生存していることは、床から離れられなかった頃に大罪人から聞いた。それとなく訊ねようかと思ったが、私のことをべらべらと話したかつての部下がいたらしい。ほんの少しだけ考えた大罪人は情報を探らせ、彼の居場所を突き止めた。そして、私が彼へ課した任務が無事遂行されたことも。
任務遂行後、彼は私を探したらしい。そして、私がつくった騎士団を再編した後、大罪人に近しい者へ正式に譲り渡した。今の主人が彼の手腕を買ったのはその折だった。――死した「私」の名誉を守るために力を得たくはないか。そのように言った者に彼が何と答えたかは分からない。しかし、結果的には彼は二人目の主を得た。そうして、「私」の名誉を守るために動く主を守っている。
話を聞いたとき、少し笑った。そして、少し泣いた。彼が生きていることへの感謝と、彼が新たな人生を歩んでいることへの祝福と、彼が別の主を選んだことへの嫉妬と、彼が私を過去の者として扱ったことへの寂寞と。
涙の後に残ったのは、欲望だった。
彼は生きている。だが、傍にいない。
傍に、すぐ傍にいてほしい。あの熱を再び感じたい。ずっと、私を。
生きたいという欲より、彼への欲が勝った。そうでなければ、こうして彼に槍を突き付ける真似などしないだろう。彼を奪還するために単身で「敵地」へ乗り込む真似などしなかっただろう。
頼むからやめてくれ、とは散々大罪人には言われたが、もう待てなかった。
不思議と、彼が私を拒むという展開は本気では考えていなかった。そう、今の今まで。もしもそうなったのなら、そのときには私は消えるだけだ。ぽわん、と瞬時に煙のように空へと還っていくのみ。
だが、それはない。
「私にも事情というものが、あってな。長いあいだ、随分と、辛い思いを、させたかもしれないが……」
軽い打ち合いなのに、息が切れてきた。本調子ではないからか、只人とはこういうものなのか、単になまってしまっただけか。
身を乗り出して心配そうな顔で見つめるくせに、彼は私に近寄ろうとしなかった。なまくらな身でも簡単に避けられる速度で剣技を繰り出しながら、私を捕えようとする警護隊を気迫で牽制する。
不思議な青灰色の瞳が揺れていた。そのまなざしが懐かしく、慕わしく、ほしかった。
「私が、ほんとうに私であることを、知りたいのならば、探ればよい!」
鈍い金属音。力任せに薙いだ私の槍が、彼の剣を弾き飛ばした音。
きっと、私が色々と証明してみせても彼は私の真実を受け止めるだろう。私と彼が初めて出会った日、彼が告白し、私が答えたそれぞれの日。私だけが知る、彼の癖。思い出の数々、与え合った言葉や想い。擦り合わせた額の熱。
だが、そうではなく。
彼が私を欲する姿を見たかった。彼しか知らない私という名の真実を確かめてほしかった。
得物を弾かれ、言葉をぶつけられ、彼は唇を噛みしめた。その姿が愛しくて、それでも私は彼に槍の矛先を向けた。
「どうする?」
動きを止めた私と、動けない彼。彼を束縛しているのは、「過去の私」で今の私ではない。ましてや、彼の第二の主でもなく。
「貴方が、本当に「君」なら……いや、僕はもう――」
「かかれ! 賊を捕えろ!」
彼の言葉に被せるように警護隊のひとりが声を上げる。複数の警護兵が走り寄って来るのを目の端で追った彼に、私は己の槍を放った。
「任せるぞ、我が最愛」
私が放った槍を無意識で彼は受け止めた。その重みで我に返ったらしい彼に、私は笑ってみせる。ややあって最強の竜騎士は頷いた。
「御意に、我が君。……いいえ」
恭しく槍を掲げ、彼が言う。伏せた面を上げた彼の頬にひとしずくの涙。小さく微笑み、そうして私をまっすぐに見つめた。
心と身を射抜くまなざし。テランス、と思わず名を呼んだ。
「分かった、ディオン」
滅多に見せない不敵な笑みを浮かべ、彼は跳んだ。
高く、そして強く。
§ §
「脱出しましょう」
一度の槍術で大方の警護兵が地に倒れたなか、涼しい顔をして彼は私の手を掴んだ。
こくり、と私は頷いた。彼が己のもとに戻ってきて安堵してしまったのか、一気に気が抜けて満足に立てそうもなかった。それでも何とか気を取り直し、ふう、と息をつく。
様子を見てとったらしい彼は、槍を背負った後に私を横抱きにした。え、と思う間もなかった。
「かなり痩せたね」
「仕方がない」
渋面の彼に、私は笑う。先刻の愉快さ、否、それとは別の形容し難い感情が急速に膨らんでいく。気を張る必要があった――このままでは泣いてしまうから。
そのとき。
「ごきげんよう、殿下。まるで賊か野盗のようですこと」
上から声が降ってきた。彼が振り仰いだ方角に、私も合わせる。バルコニーに立つのは、彼の二番目の主。
「その者は、今は私の配下。それを――」
「この方こそ、私の」
私に向けられた言葉を遮り、彼が言い募る。私には向けない冷えたまなざしが何故か愉快に思えて、私は彼の肩を軽く叩いた。
「ディオン?」
横目で彼が問う。懐かしい声音だった。その声に勇気をもらう。
抱かれた格好では示しはつかないが、私は呼吸を整えてバルコニーに己が意思を放った。
「賊らしく、いただいていく」
バルコニーの主へ私が笑むと、その者は溜息をついた。
数拍の後にそうして向けられたのは――、微笑。
「預かりものをお返しできて光栄です」
その言葉には憂いも怒りも存在しなかった。それもまたひとつの真実なのだろう、私はそう思った。本当にその者は私を――、否、私達を守ったのだ。
「では、また。近いうちに」
バルコニーに向かってそう声をかけた私は、呆気にとられる彼の肩をもう一度叩いた。音がしそうなほどの勢いで振り向いて私を見つめる彼に肩を竦めてみせ、ごく間近でその瞳を覗き込んだ。
彼のすべてが私の近くにある。彼が、私を見つめている。
「……ッ」
ああ、それだけで何もかもが溶けてしまいそうだ。何故か、視界がぼやける。
察した彼が頬を寄せてきた。それから、額を合わせて熱を分かち合う。
嬉しい。苦しい。ああ、本当に。
彼を欲した私の心は、私を欲した彼の心によって報われた。
口づけると、彼が応じてくる。久方ぶりの口づけは、思っていた通りの味がした。