月の雫 月のしずくが 静かに記憶を撫でる
今日の言葉も 夢の中で そっと熟れてゆく
「……思うのだが」
ひんやりとした感触を予想していたのに、実際には人肌より少し高めに温められた軟膏を塗られながらディオンは口を開いた。
ん?と返事らしき返事でもない声色で、テランスが訊き返す。その間にも彼はディオンの体に薬を塗っていく。キエルとロドリグの共同研究という軟膏は独特の匂いが鼻をつくが、不思議と効くような気がした。
……それは、体をほぐしてから塗っているせいもあるかもしれないが。とはいえ、「ほぐす」行為は毎夜というわけではない。本当に、純粋に、可動域を増やすために、テランスに手伝ってもらってストレッチをしているだけだ。まったくもって、みながみな誤解をしているけれども。
大体、いくらなんでも毎日毎夜では壊れてしまう。ディオンは明後日の方向に行きそうな思考を元に戻すべく、咳払いをした。
「ディオン? どうしたの」
「いや、なんでもない……というわけではないな、その歌は?」
石化したままの肌にテランスが軟膏を塗る。境目には軟膏とテランスの手の温かさを感じるけれども、石の部分はやはり何も感じない。金槌で叩けば粉々になるのだろうかとも思うが、試したいとは思わなかった。
今、は。
かつては、どうだっただろう。テランスが口ずさんだ歌の一節。月が輝く、マザークリスタルが呼応する、クリスタルの粒が雫となる、そんな記憶がよみがえる。滅びゆく世界から目を背けていた頃。
「ああ……。これは」
テランスは一瞬眉尻を下げ、困ったような顔でディオンを見た。何かを耐えるような表情は哀しみを感じさせる。
思わず、引き寄せた。軟膏がテランスの衣服にも付いてしまう、と思ったが、彼の苦しみを解かなければという思いのほうが強かった。
「知らない調べだったから、不思議に思っただけで……深入りするつもりはない」
抱きしめると、裸の背に手が回される。すぐに力が込められ、テランスが大きく息を吐くのが聞こえた。
「ふと思い出しただけで。……すっかり覚えてしまっていたみたいだね」
テランスの声が震える。ディオンは彼の背を軽く叩き、吐露を促した。深入りするつもりはやはりなかったが、吐き出せる思いは知っておきたかった。
ひとりでは、もうないのだから。
やがて、テランスは「キエルが」と話し始めた。
ディオンの命に従ってテランスはキエルを保護した。それから起きた「大混乱」のなか、テランスはキエルを守りながらツインサイド周辺に待機していた。「あんなことになるなんて」思いもしなかった。
黒塊に飛んでいく、見慣れた翼。雄々しい影。あれは。
あれは――。
光が降り注ぐ。だが、その光は地上には届かない。流星にもならずに闇に吸い込まれていく。そして。
星月夜、明けの空。彼は、もう。いや、そんなことは。
相反する思いと絶望は虚脱を生み、それから逃れるように救護活動に不眠不休で加わった。見かねたキエルによって寝台に叩き込まれるまでは。
「……そんな私に、キエルが歌ってくれた子守唄、です」
テランスはディオンにそっと告白した。
月のしずくが 静かに記憶を撫でる
今日の言葉も 夢の中で そっと熟れてゆく
戻った月。メティアはもうない。降り注ぐ月の光、注がれる雫、ひとつひとつ記憶を辿る。
一日の終わり。誰かと交わした言葉。本当は。本当は、君に多くの言葉を告げたくて。
「……けれど、君は夢のなかにも現われなかっ……」
「テランス」
思い出してしまったのだろう、苦しみを紡ぐテランスをディオンはしっかりと抱きしめた。彼の言葉を、心の傷を、有耶無耶にしてはいけない。そう思った。
だが、記憶も夢も今では共に分かち合える。その喜びにも気付いてほしかった。
故に、ディオンは囁いた。
彼にしか捧げない愛の言葉を。