【ラヴミリ展示】新雪色の朝を、きみと 深い眠りから不意に意識が覚醒して、それでもやはり重たい瞼を開けば、近い窓にかかるカーテンの隙間からは朝を待ち白む光が薄ぼんやり差し込んでいた。
昨夜の疲労を未だ抱える体とはいえ、一度目覚めてしまった頭は怠惰な二度寝をそう簡単には許してくれない。意味もなくひとつ寝返りを打てば、ベッドサイドに背を預けながら本を読むヴィクターさんの熱が意図せず体に触れる。なんとなくもの寂しい時分に己以外の体温がしたたかに感じられて、じわりと湧き出すような安心感を覚えた。
――ショートスリーパーである彼とは当然、夜という長い時間の使い方は違ってくる。そのため普段ならばそれぞれの都合で『おやすみなさい』をして各々休息をとるし、それに異論もない。けれど、例えば熱を分かち合った夜だとか、単に私がねだってそれに付き合ってもらった時だとか。同じタイミングで床に就いたとしても必ず先に眠ってしまう私を律儀に見届けてくれるヴィクターさんは、その後布団を抜け出すでもなくタブレット端末で論文を目を通したり、時には小説を読んでみたりと、短い眠りにつくまでの時間を独り過ごしているようだった。
ともすれば時間の無駄遣いとも言えるその行為について理由を尋ねたことがあるけれど、柔い笑みのまま『インプットの時間をそこに宛てたまでですよ』とだけ言われて、それ以上の回答は得られなかったのを覚えている。
眠る私へ配慮してくれているであろう小さく淡いデスクライトに照らされた文字を追う視線は、凄まじく速い。それは読書というよりも、文字という情報を脳へ詰め込む作業のようにもとれた。
晴れた日の空色を呈す瞳の先がページを跨ったとき、ふと彼がちらりと私を見やる。その瞬間私もちょうど彼を真っ直ぐに見上げていたから、朝ぼらけの中で初めて視線が交わった。一瞬驚いたように目を瞠ったヴィクターさんだったけれど、すぐに何事もなかったかのように眼鏡の蔓をくいと押し上げて『おはようございます』とゆったり歌うように囁いた。
「起こしてしまいましたか」
「いえ……なんとなく、目が覚めてしまって」
「そうでしたか。……もうすぐ日の出ですし、このまま起きてしまっても差し支えないでしょう。お望みなら、あたたかいコーヒーをお淹れしますよ」
「……、まだ、ヴィクターさんとごろごろしていたい気分です」
「おや。では、そのように」
そんな拙い我儘を快く受け入れてくれたヴィクターさんはデスクライトをそっと落とし、栞も挟まずに本も閉じて、最後に度の入っていない眼鏡を外す。切れ長の涼やかな瞳が私を捉えてふ、と柔く細められるのを無機物を介さないままに見た。
あたたかな布団の内に部屋の冷気が舞い込まぬよう、わずかだけ開いた隙間に体を滑りこませたヴィクターさんへ縋るように擦り寄れば、吐息を零して笑ういつもの仕草が返ってくる。
「寒いのであれば暖房の設定温度を上げましょうか?」
「わかってる癖に」
「そうですね、今のは少々揶揄の意図がありました。焦れる貴女をつい見たくなってしまいまして」
「……意地悪」
「ふふ、なんとでも仰ってください」
寝癖が著しい髪を梳くように、ヴィクターさんの冷たくて大きな手がゆらりゆらりと撫ぜてくれる。そこに手慰み程度の意図しかなかったとしてもその柔らかな手付きは酷く心地が良いもので、今しがたまで忘れていた眠気がとろりと再びこみあげてくる。
「あのね、最近ヴィクターさんがいちばん興味の惹かれたサブスタンスの話を……聞かせてほしい、です」
「えぇ、構いませんよ。……では、6日程前にブルーノースのカフェ近くで出現したレベル2個体の話を」
低くて柔らかい声が、いつかの話を語り始める。サブスタンスについて記憶を掘り起こすヴィクターさんの声が、少しだけ弾む。
寝物語に、と話してくれる先日のサブスタンス回収時の出来事だったりノヴァさんの不眠からくる奇行なんかの話が好きだった。彼の目を通した世界の話は色鮮やかで、私のすっかり知らないことを教えてくれる。他でもないヴィクターさんが私のために紡ぐきらきらとした世界にもっと浸っていたくて、彼の苦労も知らぬまま、ついいつもその言葉たちをせびってしまうのだ。そして彼も彼で、そんな言葉の無駄遣いに何を言う訳でもなく、私の気が済むまで付き合ってくれる。甘やかされているなあ、と思う。
そんな色とりどりの言葉を聞いているうちに、徐々に言葉の意味を噛み砕けなくなるほどに頭の回転は鈍くなっていく。これもまた、いつものことだ。私が深い眠気に抗っていたことを悟ったヴィクターさんは会話のペースを落としてくれて、いつか頭を撫ぜていた手もそっと載せるだけにとどまった。
「いつもの時間に声をおかけしますから、眠いのであれば眠ってしまいなさい」
「……ヴィクターさんは……?」
「心配せずとも、貴女が眠ってからもここにいますよ」
「ん……そっか……ごめんなさい」
「よい夢を」
そう言って彼が私に触れるとき、腹の底で本当はどんなことを思っているのかは未だ知らないし知る由もない。けれど、ゆるりと控えめに与えられるその低くて柔らかい体温だけは紛れもない本物だ。
瞼が落ちる直前に、額へ落ちる柔らかな感覚。それの正体を確かめる前に意識は泥濘に沈んでいく。
「……そんなに不安そうな顔をさせるつもりは、無いのですが」