床面積四坪ほど、三階建ての細い建物。聞いていた通り。
「ここ、か」
左眉から目にかけて傷を持つ、左耳の端が少し欠けた白髪の男ーー水木は咥えていた煙草をアルミの箱状の携帯灰皿に押し付け火を消すと、カチリと音をさせ蓋を閉じ背広の胸ポケットの中にしまい込む。
じわじわと蝉の声が周囲に立ち込め、鼓膜を容赦なく叩く。新緑が天へと腕を伸ばしさわさわと風に乗って揺れ動く。立っているだけでジリジリと皮膚が焼けてしまいそうな太陽の光に、どうもこの建物は似合わない。まったく、暑い。あの日のようだ。水木はふと己の脳裏に浮かんだ風景を掻き消すように、頭を振った。
今、水木の目の前にある建物はしっかり建っているというよりもやや歪んだように見える、くすんだ色をした奇妙な雰囲気を醸し出す建物だ。そこに、正確にはここの主に、水木は用事があった。
出入り口の前に立ち、軽く拳を握ってノックを二回。やや間をおいて、どなたですか、の声。水木は細く息を吐くと扉を押し、開けた。
建物の中はややかび臭く、古書と墨の匂いが立ち込める埃っぽい空間だった。所狭しと並んだ本の隙間から、外の光が遠慮がちに差し込んでいる。
水木は、周囲に人間がいないことを確認してゆっくりと、本が重なって置かれ狭くなった廊下を足元に注意しながら進んでいく。
数メートル歩いた先の、店の奥。少年のような青年のような、紫がかった銀髪の男が古びた椅子に腰掛けながら片手で本を開いていた。机の上にはペンなどが置かれていたが、少し汚れた白い布がこんもりと置かれており、それが少し違和感を覚えた。
水木が銀髪の男のパーソナルスペースに入ったからか、彼はちらりと視線をあげ不思議そうに水木を見つめた。
「願い事をしていない者が立ち入るなんて、驚いたな」
やや低いながらも聞き取りやすい男の声に、水木は軽く会釈する。
「俺は帝国血液銀行の」
水木の口からつらつらと出たその言葉に一番驚いた様子を見せたのは、水木自身だった。男は目を丸め、にやりと笑うだけだった。
「帝国血液銀行なんて、久しぶりに聞きましたよ」
「昔勤めていたんです、あぁ、口癖になってしまってるみたいで」
水木は少し恥ずかしそうにはにかむも、男はそうかそうかと言わんばかりに頷く。そして、前髪の隙間から再び水木に視線を向ける。
この男は、水木のことを最初から理解している。水木は改めてそのことを確認しながら、慣れた笑顔で口を開く。
「妖怪と人間の相談を聞いて探偵なようなことをしています、水木といいます」
「あるじ、この男妙な気配です」
水木が簡単な自己紹介をした直後、男でも水木でもない、少し高い声が訝しげに咎めてきた。はて、どこから。水木が目を丸くすると、男は机の上の白い布を両手で抑えながら笑った。
「あぁ、えぇ。存じ上げていますよ。何十年前でしたっけ、幽霊族の血を浴びて半分妖怪になった人間の男ですよね」
男は白い布の中のこんもりとした何かを押さえるように手をおいたまま、ようやく水木の方へきちんと注意を向けるように体を向けた。
水木は、数十年前に訪れたとある村での事件以来、年を取ることも衰えることもなく、半分人間半分妖怪という奇妙な存在となった。そうして、別れた友人の子を男手一つで育てている。
(多分、全部知ってるんだろうな)
水木はにこにこと笑顔を崩さないまま、腹の中で吐き出した。
「実は、とある方から縁者を探してほしいと依頼を受けまして」
「捜し物は、あやかしですか?人ですか?」
「それが、なんとも言えず。だから俺に白羽の矢が立ったのでしょう」
なるほど、と白い布から手を離し、男は腕を組み小さく頷く。
人が失せれば、大半は人攫いを疑う。しかし、中には妖怪の仕業であの世へ連れて行かれてしまう、ということもある。そういう時は、比較的人間に対し好意的に、しかし打算的に動く妖怪が探偵として動き攫われた人間を連れ戻す、ということもある。
人間とも、妖怪とも判別がつかない場合。そういう時に、水木の元に依頼が届く。そして今回の依頼は。
「長く行方不明になっていて、人間だったら生きていない。しかし、妖怪と成って今も生きているかもしれない。そういった、曖昧なものでして。古本屋の店主が持っている『おばけずかん』を頼ってみるのはどうかと、さる者から助言を受けまして、伺った次第です」
水木の言に合点がいったのか、ははぁ、と男は笑う。
「僕がその店主です」
「あぁ、やはり」
男ーー店主は、おもむろに指で空を切る。
すると、ふわりと重厚な表紙を持つ本が店主の手元へと舞い降りてきた。
「一枚?」
店主はパチパチと目を瞬かせ、首を傾げる。
図鑑の表紙を開いてみる。
そこには、一枚だけ白い紙が挟まっていた。真っ白のまま、何も書かれていない紙。図鑑の体を成していないそれに、店主は苦笑を漏らした。
「すみません、水木さん。どうやら探しているのは妖怪ではないようです」
店主の言葉。白い一枚の紙。水木はじっと紙にを見つめたまま、顎に指を当て小さく唸る。
「ここにはおばけと言われるものなら大抵のものが載っていますが……個々人の幽霊となると、そのすべてを網羅することは難しいですね」
「あぁ、なるほど。そういうことか」
不意に口を開いた水木の声に、店主は図鑑を閉じ表紙を微かに指でなでながら「なにかわかったんですか?」と聞いた。
「おばけは載ってても、怪獣は載らないですからね」
怪獣。
その言葉に、店主の眉がひくりと動く。無意識のようで、店主は気づいた様子を見せない。
「俺が依頼を受けたのは、とある令嬢です。なんでも、ひいおばあ様のお父様……血はつながっていないようですが育ててくれて、とても世話になったようです」
「ひいおばあさんの、お父さんですか」
「あるじっ」
白い布が机の上でうごめく。店主はもう、その布に手を伸ばさなかった。店主は水木に続きを促す。
「えぇ。その方は、戦後の荒れ果てた日本を襲った怪獣と戦い、消息不明となったそうです」
「怪獣、ですか」
「えぇ。その怪獣の名は」
一瞬、水木は店主の目の奥を探る。店主は、薄く笑みを浮かべたまま、微動だにしなかった。ならば。水木はそっと息を吸った。
「ゴジラ」
その名を水木が口にしたのは、賭けであった。果たして、どうか。
水木と店主の間に、沈黙が流れる。さわさわと、遠くで蝉の声が聞こえる。夏の日は、長い。しかしこの古本屋は、一定の温度が保たれていて暑くも寒くもない。しかし、どうだろう。水木は背中に、いつの間にかじんわりと汗をかいていた。
「あるじ……」
白い布が不安そうに呟く。よく見ると、二つの細長い丸い穴が空いている。そこから、店主の様子を窺い見ているのだろう。
店主はやや視線を下に落とし机を見つめていた。そして、顔を上げる。
「探している者の名前は」
店主が水木に問う。
水木は、ゆっくりと口を開く。
「 」
その男の名前を水木が口にした瞬間。
店主の頬が、ほころんだ。
まるで冬を耐え春を迎えた花がその花弁をようやく開いたような、どこか可憐な、しかし儚くもある笑顔だった。遠くを見つめるようなその目は、水木を見ているようで、見ていなかった。もっと遙か先を見ているのだろう。
「そうですか」
店主は、赤い布をつなぎ合わせたような服の袖をあわせ腕を組む。そして、顔を窓の方へ向ける。
「もう、あの子の顔も、名前も。思い出せない」
ポツリと呟いた店主の声は、辛うじて水木の耳に届くか届かないか、微妙なほど小さな声だった。
「爆弾を積んだ震電でゴジラに特攻したその人は、確かに震電から脱出した。しかし、その姿は見つからず、書類上は死んだものとされた……救国の英雄、です」
「……」
店主は何も言わない。髪で顔が隠れ、表情を窺うことも難しい。
ならばこれ以上は、野暮だろう。
水木はやや目を伏せ、店主に頭を下げ、一歩後ずさった。帰ろう。
「水木さん」
背を向けようとした瞬間、呼び止められ水木は動きを止める。
店主は水木を見ていた。ようやく、初めて。目が合った。そんな気持ちさえした。
「また来てください、ご縁があれば」
店主のその言葉に、水木は再び頭を下げ、次こそ店主に背を向け長い廊下を歩いていった。
少しずつ遠ざかる水木の背を確認したのか、白い布の塊はばっと布を翻し姿を現す。二足歩行の猫のようなその可愛らしい姿を晒したおばけーー図鑑坊は、両手をモゾモゾさせながら店主を大きな目で見上げる。
「あるじ……」
図鑑坊が恐る恐るそう呼ぶと、店主は図鑑坊へ目を向ける。何も変わらない、図鑑坊がよく知る店主の表情。目。笑み。あるじだ。あるじであるに、違いない。
「さて、少し寝るかな」
ぐっと腕を伸ばし気持ちよさそうに背伸びをした店主は、腕を組み目を閉じた。
突然の就寝宣言に、図鑑坊はやや戸惑ったように机の上をうろうろとし、店主の様子を窺う。
「あぁ、図鑑坊。今度水木さんがきたら、お茶でも出してあげてくれ」
果たして、あの男はまた来るのだろうか。しかし、あるじが言うならば。図鑑坊は胸中に生まれた靄を押し込みながら「分かりました、あるじ」と首肯した。
古本屋を出た水木は、背広のポケットの中から煙草を一本取り出し、火をつけ、肺に煙をいっぱい吸い込む。
はぁ、と吐き出す。
「さて、なんて報告したもんかな」
水木は苦々しげに煙草のフィルターを噛みながら一人ごちる。
水木の背後に、もうあの古本屋はない。元々そんなものは無いと言わんばかりに、夏の日に彩られた若草が揺れていた。