【イザアル】不届き者にアルヴァが傷付けられる話その日、ジョンと珊はいつもの様に畑を耕し、収穫した作物を売るべく橋を渡る。
「ジョン!海に行きたい!」
カモメ町に住み始めて早くも1年弱が経った。 金欠だった生活はもう遠い昔のようで、今では体力の限界まで農作業をする必要も無く、ある程度こなしたら釣りや料理に割く時間も増えた。
ジョンが珊の要望に応えるように頷くと、小さな身体は嬉しそうに飛び跳ねる。
「今日は魚料理だね!…あれ?ねぇ、ジョン。皆がいないよ…?」
橋を渡り終え、いざウィリアムの店へと向かった足がピタリと止まる。
いつもなら、すぐにウィリアム一家やブラザー建設の誰かを目にするところだが、珍しく誰の姿も見当たらない。
研究所のある高所を見上げても、そこにイザベルの姿は無かった。
そんな時、ジョンの耳が遠くの音を拾った。
誰かの声が聞こえるが、遠すぎて分からない。
しかし、微かに耳に入るそれから、あまり穏やかな雰囲気ではない事が分かる。
「駅の方からだよ!アルヴァ達がいるのかも!」
同じく不穏な空気を察したのか、珊の腕がジョンのズボンを引き、駅の方へと急かした。
いくらか歩を進めると、遠くからでも巨大なマグロのオブジェが目に入る。その入口に、住民達が中を覗き込むような姿勢で立っているのが見えた。
「ダニエル!」
「あ、珊、ジョン…」
「何かあったの?なんで皆ここにいるの?」
「え、えっと……」
兄の方のダニエルが何かを言い掛けて言葉を切る。
言いづらいというより、どう伝えようか思いあぐねているようだった。
近くには弟の方のダニエルや、ブラザー建設の兄弟が戸惑った様子で駅の中を見つめている。
「出ていけ!!!!」
中からの怒号で、空気が大きく揺れた。
「!?今の、マング?…ジョン!行こう!」
珊は小さな身体で器用に足を避けて中へと入っていった。
ジョンが追って入ると同時に、奥の入口から電車が出ていくのが見えた。
次いで視線を中央に戻すと、珊がアルヴァとイザベルの元へ駆け寄ったところだった。
イザベルの様子がおかしい。
こちらに背を向けた彼女を、アルヴァが背後から宥めるように抱き締めている。
抱かれた身体は身動ぎひとつせず、しかし、握り込まれた拳がほんの僅かに震えていた。
「アルヴァ!…どうしたの?怪我してる!」
「珊?え〜っと……。あ、ジョン!」
珊に気付いたアルヴァは、ダニエルと同じく何かを言い掛けて口を噤む。
こちらに向けられた視線と、いつもより赤くなった片頬で、ジョンもある程度のことは察した。
アルヴァの声で、電車側の入口を向いていたウィリアムとソロモンが振り返る。
「やぁ、お二人さん。少し遅かったね」
ウィリアムは疲労の色を滲ませた声音で肩を竦めた。
一方、酷く落ち込んだ様子のソロモンは一言も発することなく項垂れている。
「ウィリアム、ソロモン!ねぇ、どうしたの?なんでアルヴァが怪我してるの?」
「どうもこうもねぇ!!」
マングが、肩で息をしながら駅のホームから戻って来た。
その仕草や表情は怒りに満ちている。
「あいつら──あの、ろくでもねぇ─!クソッたれ!!」
「マング、落ち着いて。ほら、ちょっと叩かれたくらい…」
「拳だ!あの野郎ども、拳で殴りやがった!!」
「マング!」
アルヴァの悲鳴にようやく目の前の珊に気付いたらしく、高々と振り上げた拳を惜しむように下ろす。
「珊…ジョンも来たか。すまねぇ…」
「…ねぇ、アルヴァのほっぺ痛そうだよ」
「ちょ〜っとヒリヒリするかな!でも、冷せばすぐ治ると思う!」
今の状態を上手く呑み込めずにいた珊だが、根掘り葉掘り聞くことはしなかった。
アルヴァはイザベルの身体を抱き締めたまま、眉尻を下げて笑うが、それが余計に痛ましく感じた。
やや重い雰囲気を残したまま、その場は解散になった。
アルヴァは、ジョンから川の水を入れた袋を受け取り、いまだ一言も発さないイザベルの手を引いて自宅へ戻って行った。
駅から少し離れた場所でその背を見送り、ウィリアムは珊と自分の子供達を先に帰してから先程の出来事をジョンに語って聞かせた。
「おおかた、君の想像通りだよ」
事が起こる少し前、駅ではアルヴァとイザベル、ウィリアムとソロモンが各々会話に花を咲かせていたが、暫くして、イザベルとウィリアムはそれぞれの目的でその場を離れた。
「私がちょうど駅に入ろうとした時、彼の悲鳴が聞こえてね」
慌てて駆け付けると、中には観光客と思しき男達がアルヴァを囲んでいた。既にアルヴァは負傷しており、必死にソロモンが庇っていたようだ。運の悪いことに、イザベルはまだ戻っていなかった。
「彼女達はほぼ同じタイミングで飛び込んできたよ。そして、外野が集まって、君等が来た…というわけさ」
ウィリアムはポケットから取り出したコインを宙に投げ、慣れた動作で受け止める。
「彼女は人当たりが良すぎる。…珊のことも気に掛けた方が良い」
そう締め括ると、ジョンの返事も待たず、そのまま駅を去った。説明が大幅に省かれていたが、去っていく背中がそれ以上の追及はやめろと語っていた。
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「イザベル」
「…」
「イ〜ザ〜ベ〜ル〜!」
「………」
帰宅するなり、イザベルによってアルヴァの身体は見事に拘束されていた。
苦しい、と主張してもそれが解かれることはなく、名前を呼んでも無反応で、ただただ時間だけが過ぎていく。
「(落ち込んでる…)」
彼女が肩に頭を埋める時は、構って欲しい時か、落ち込んでいる時くらいなもので、今回は後者だろう。
「イザベル、落ち着いたらご飯にしよう」
今、彼女は"いつも通り"に戻ろうとしている。
ただ静かに、心の海を凪ぐことに努めている。
アルヴァの手が、優しくイザベルの背中を撫でた。
「イザベルのせいじゃない」
「…」
「誰のせいでもないの」
「…」
「…すぐ、助けに来てくれてありがとう」
「………アルヴァ」
肩口から漏れる声は、アルヴァが思っていた以上に弱々しかった。
異変を感じ、すぐに駅に戻って来た。
中には、アルヴァがいた。
その胸倉を思慮の欠片も無い腕が掴んでいる。
それだけで、腹の底に湧き上がるものが胸を突いて出て来そうだった。
それを抑えられたのは、過去の教訓から。アルヴァが無闇に人を傷付けて欲しくないと言ったから。
しかし、こちらに気付いた彼女の頬に、痛々しい痣が見えてしまった。
そのうえで抑えられる筈もない。
「ソロモンやマングにお礼を言わなきゃ。ジョン達にも」
「………ええ」
マングは怒っていた。
怒りに任せて怒鳴り、奴らの尻を蹴り上げて電車に放り込んだ。
もう二度と来るな。と圧を込めて。
「(二度と"来られない"ようにしてやれば…)」
そう考えて、すぐに頭から追い払う。
私の成すべきはアルヴァを護ること。意図的に誰かを傷付けることではないのだから。
「…………側を離れるべきじゃなかった」
「…もー!先のことは誰にも分からないんだから、仕方ないんだってば!ほら、こっち向いて!」
強引に身体が離れ、温かな両手が頬を包んだ。
こちらを見上げる瞳は、涼し気な色なのに温かい。
「……怒ってるの?」
「ちょ〜〜っとね!イザベルやマングが代わりに怒ってくれたから良いけど、次見つけたら絶対叩き出す!」
拳を持ち上げ膨れ面の彼女は、ついさっき一番怖い目に遭ったというのに、誰よりも明るく振る舞っている。
「アルヴァ」
持ち上げられた拳を、やんわりと握る。
「次、があるのは嫌だけど…、もしまた貴方に何かあれば、今度こそ私が護る。約束する」
僅かに、瞳が揺れる。
握った手を引くと、彼女は抵抗もなくその身を預けてくれた。
「…さっきのは嘘。本当はすっっごく怒ってる」
「ええ」
「でも、それ以上に怖かったの。あんな風に身体を触られたの、初めてだったから…。イザベルは、いつもこうして…優しく抱き締めてくれるのに……」
懸命に紡がれる言葉の中に、小さな嗚咽が混じりだした。
しっかり者の姉のように振る舞い、いつも自分を導いてくれていた相手が、自分よりもずっと儚い存在だったことを思い知る。
「アルヴァ…」
何か言わないと。─何を?
気の利いた言葉、慰めの言葉、そんなものがあるなら既に口から出ている。
アルヴァが泣いているのに、泣き止むまでその身体を抱き締めることしか出来ない。
そんなのは嫌だ。
「アルヴァ、こっちを見て」
「…?」
水を湛えた瞳が上を向く。
考えるより先に、身体が動いた。
「ん…っ!?」
「っ…」
それが頬を伝う前に。と焦りからやや強引に口付けることになってしまった。
唇を離すと、ぽかんとした顔が徐々に赤みを帯びていくところだった。
「………い」
「?」
「……ずるい!!!」
どこで覚えてきたの!?と睨む彼女の目は、もう濡れてはいないようだった。