無題「根性入れ直しに来た」
そう言って始まった組手は本人の心境を表すように荒々しかったが何処か悲壮感が垣間見えた。
玄武寺にやって来たケンは何故だかすっかり草臥れていた。
いつも小綺麗にして、明るく陽気で元気な奴だったのに。少なくともリュウの知る限りでは陰りと迷いのある拳を振るう奴では無かったのに。
何かあったのだろうが、リュウには知る由もない。
勝負は僅差でリュウが勝ったが現役から退いても健在の強さに昔から自分とは違い、天才肌であった事を思い出して気が引き締まった。油断していたつもりはないのに、変わらず恐ろしいセンスだ。
座り込むケンにリュウが手を伸ばすと無造作に伸びた前髪の隙間から蒼い瞳が向けられる。
長い睫毛が遠慮がちに伏せられてから自力で立ち上がった。
「……安心するよ、お前を見てると」
……こいつはこんな風に笑う奴だっただろうか。
記憶の中で見たのはいつも朗らかで溌剌とした笑顔か、戦いの中での不敵な笑みだ。
それが暗がりに堕ちそうな危うさすら感じられて、元々言葉にするのは得意な方ではないがますます語が詰まる。
「悪い、邪魔したな」
ケンが背を向けて去ろうとする。
一歩、二歩、どうする。このまま行かせて良いものか。
三歩、四歩、あの目を見たか。あんな奴じゃなかった。静かに己を遠ざけもした。
五歩、六歩……駄目だ、捨て置けない。
「ケン」
思いの外大きい声が出た。
振り向いてくれたが僅かに相変わらずの表情だった。
こういう時、なんて声を掛けてやれば良いか分からない。ただ元気にはいて欲しい。だから、
「ちゃんと、飯は食え」
頬が少し痩けていたからあまり食べていないのだろうと思ったのだ。
食は身体を作る。格闘技を嗜むのに食を疎かにするのもそうだが、彼には家族がいるのだ。きちんと健康には気を付けねば。
……そう思って言ったのだが、リュウの言葉にケンはしばらくきょとんとした顔をしてから吹き出すように笑った。
「あっはっはっはっ!!……お前……本当に……そういうとこな……」
何故笑っているのか分からないが先程まで無かった柔らかい表情にリュウは内心胸を撫で下ろした。
「な、何故……そんなに笑う事か……?」
「悪い悪い、相変わらずだなって思って」
「馬鹿にしてないか?」
「そんな事ねぇって。心配してくれたんだろ?」
「まぁ……そうだな」
少し調子を取り戻したらしいケンはふてぶてしい笑みでリュウの元へ歩いて来た。
「ハグしても?」
「いいぞ」
冗談めかして両腕を開いていたケンの腕を強く引いて抱き締めると身体が緊張したように僅かに硬直するがしばらくすると緩和した。
「お、おぉ……お前にしちゃあ……熱いねぇ」
「会う度にやる……この挨拶には慣れた」
今回はしないのかと思った。言ってやると恐る恐るといった風に背中に腕が回される。
剥き身の背に這う温度は記憶の中の物と変らないように感じる。
そう言えばよく後ろから無意味に飛び掛かられたり疲れたからと我儘を言われたりしてそのままおぶって帰った時もあった。
「背負ってやろうか?昔みたいに」
「ははっ、やめろって、ガキじゃねぇんだ」
背に回された腕に力が入るのが分かる。
「……じゃあ、もう行くよ」
また、何処か寂しげで冷たい声に戻った。
放してくれと軽く背を叩かれるがそれでも尚腕の中に閉じ込めていると注意の声に少し焦りが混じり出す。苛立ちすら混じり始めた辺りで拘束を解いてやると困惑した表情のケンが居た。
「なん、なんだ……お前……」
「いや、特には……だが、もう少しここに居てくれて構わないのにと思ったんだ」
「……はっ、俺と離れるのが寂しいか?」
「んん、寂しいとは少し違う」
なんと口にすれば良いのか分からない。
確かに寂しいがしばらく会えなくなるから寂しい、と言う種類のものではないのは確かだ。
……だがそう言えば先程この寂しさが消えた瞬間があった。
それは自分がケンに飯を食えと言った時だ。
大真面目に言ったのに何故か思い切り笑われた時。
だがケンらしいリアクションに安心感を覚えたのだ。
思えば久々に会った時から彼に落ちた影に、いつもとは違う様子に、寂しさを感じ取ったのかもしれない。
「ちゃんと飯を食って欲しいんだ」
「いやどういう事だよ……っ」
またしても大真面目に言ったのに笑われた。
ケンにはこれが笑いの壺になっているのか、口元を抑えて笑いを堪えている。
……これも、修業時代に見た事がある顔だ。
「さっき笑ったろう、今の言葉で」
「え?あー……悪かったよ、心配してくれてんのに笑っちまって」
「いや違う、笑ってくれて構わない」
「は?」
「笑ってくれ、そっちの方がお前らしい」
そう言うと驚いた顔をしたケンは少し目を泳がせてから居た堪れなさそうにしていたが困ったように、だが穏やかに笑った。
「……そう、か……ありがとうよ」
ケンは帰って行った。
戻って来た静けさの中で石の上で再び座禅を組む。
ありがとうと言っていたが自分は本当に彼の助けになったのだろうか。
大丈夫と言うなら信用すべきだと思ってはいるが、思い詰めて過去の己の様に道を踏み外して欲しくはない。
お前の我儘くらい、聞いてやるのに。
聞き入れられなくてもそう言えば良かった。
だがもう後ろ姿は見えなくなっていた。