主従パロ没ネタ 男が笑う。それは優雅に。
その笑みは天使のような微笑みにもみえるが、それを向けられている自分からすれば「不吉の象徴」でしかない。
「ひどいなぁ。僕の笑顔はそんな風にみえるのかい?」
先程の笑みにふっ、と苦笑いを含ませて、彼はさらにおかしそうに笑った。
そんな彼が長く愛用しているアンティーク調の執務机に、両手を組み合わせて肘をつく姿は、いつ見ても様になっている。上に立つ者の威厳、そういうものを、彼は生まれつき持ち合わせていたかのようだ。
「どうかしたかい? ああ、渡した資料に何か分からない事があったら言ってくれないかな?」
目を細めてそう言うと、傍らに控えさせていた秘書に紅茶を淹れるように指示をして、こちらの出方を待つ。
渡された手元の資料にようやく目を通す。
ざっと流し見した感じでは、疑問を投げかけるような項目は見当たらない。そのことに少し安堵し、ふう、と詰まらせていた息を吐く。
目の前の、ミルクティ色の髪が楽しげに揺れる。
「……いえ、」
「そうかい? もし何かあるなら今のうちに言っておいてほしいな。なにしろ、長期の任務になるだろうからね」
そう言って彼はカップに口をつける。
確かに思うことがないわけでもない。何故こんな任務を自分に与えたのか。しかしそれを問うたところで返ってくる言葉はわかりきったことだ。一口分の水分補給だけを見届けて、男は再び口を開いた。
三年――確かに長いな。小さくぼやけば、「そうだね」と再び笑みが返される。
男は、はぁ、と小さく深く溜息を零すと、今回の依頼内容である資料を持ったまま、踵を返した。
「おや、もう行くのかい? せっかく弓弦が紅茶を淹れてくれたのに」
その言葉にもう一度振り返り、彼と、傍らの秘書に一瞥すると、男は小さく笑い、言葉を投げこんだ。
「お気持ちだけ受け取っておきます」
ありがとうございます。
言って会釈を交わし、出入り口に改めて向き直ると、今度は一度も振り返ることなくその場を後にした。
☆
ゆらゆらと、体が揺れる感覚がした。
ついでに自分を呼ぶ声もして、少しだけ気遣いを含む緩やかな揺れに、ゆっくりと目を開いた――一体、誰だろうか。
それを考えるまでもなく、脳は早くに覚醒していた。
「千秋様、起きていただけますか?」
「んっ……ん……ぅ?」
再び閉じそうな瞼を懸命にこじ開けた結果、突然の眩さに煩わしさを覚えた。叶うことならもう少し眠っていたいところだが、先程まで悪夢をみていた気もする。
毎日の労働に、からだは気づかないうちに悲鳴をあげていたようだ。ぼんやりした視界に飛び込んでくる眉目秀麗な顔貌に、一瞬だけ記憶が弾けてしまった。だがそれも数秒程度のことで、千秋はゆっくりとその名を口にした。
「……た、か、みね――?」
「はい、高峯でございます。ようやくお目覚めになられましたか」
耳心地の良い声色に、千秋はようやく脳細胞を働かせた。いつのまにか、気を抜きすぎてしまっていたらしい。
運転席にいるはずの彼が、なぜか後部座席にいた。
「――ああ、高峯か……」
「おはようございます。どうも、お疲れのようですね。何度もお呼びしましたが反応がありませんでしたので。連日のご商談で疲労が溜まっていらっしゃるのではありませんか?」
そう指摘されて千秋は高峯から視線を外した。確かに慌ただしい日々が続いてはいたものの、気の抜いた様子を見られてしまったのは今回が初めてだ。
(……うっ、)
すべてを見透かすような青い色が、千秋は少しだけ苦手だった。
「そうかもしれないな。すまない。でも心配はいらんぞ? 少し、うたた寝をしてしまっただけだ」
「そうですか。まだお時間にも余裕がございますし。少しだけ休息なさいますか?」
銀色の、丸い細フレームの奥にある瞳の色を濁らせて、高峯は心配そうに顔色を窺ってくる。不意に近づく距離感に、千秋は言葉を詰まらせたあと、「大丈夫だ」と改めて語気を強めた。それから、離れるように命令を下すと、意外にも彼はあっさりと解放してくれた。
「……いかがいたしますか?」
「いや、問題ない。このまま向かってくれ」
「承知いたしました」
後部座席のドアをゆっくり閉め、高峯は運転席に再び舞い戻る。その様子を眺めるついでにふとウィンドウに視線をやれば、千秋はようやくどこかの駐車スペースに停車していたことを知った。
無言のまま、エンジンを吹かす音と共に車が緩やかに走り出すと、薄暗かった視界は忙しなく人が往来する都会の風景に切り替わっていった。
「高峯、次の予定は?」
「この後のご予定は、アートコーポレーションの相原様と、先日、少しお話しされていた新規事業の件についてのご商談。その後はプリンスホテルにてそのままお食事のご予定となっております」
「相原さんか。あの方は一筋縄ではいかんからな」
さて、どうするか――口元に手を添えて考え込むと、すかさず高峯が口を開いた。
「差し出がましいようですが」
そう丁寧に前置きをすると、ルームミラー越しに千秋を一瞥した。これまでに高峯からの助言を煩わしく感じたことは一度だってない。
そのどれもが的確で、安心のできる信頼性があった。
そのことを、千秋も高く評価している。それでも一応、立場というものを弁えなければならない。なぜなら彼はビジネスパートナーである前に、千秋の忠実な執事でもあるのだ。主人の許しもなく発言することはない。
千秋としてはそこまで堅苦しい関係でなくても構わないと思ってはいるが彼は決してそれを破ろうとはしなかった。そして今も、それを忠実に守っている。
(ああ、本当に。怖いくらいの従順ぶりだな……)
目を細め、ミラー越しに高峯を見つめた。
さすがに運転中はこちらに顔を向けることはないが、それでも時折、主人の存在を確認するかのように視線だけが移動する。今度こそ気の弛んだ姿は見せられないなと、千秋はおろしていた両足を組んでシートに背をもたれさせた。
ほどよい空気の張り詰め具合を彼も感じ取ったかのように、高峯は流れるように提案の言葉を並べた。一言一句も聞き漏らすことなく耳を傾けていれば、これからの行動や言動が、次第に脳内でシミュレートされていく。
見えないピースが組み合わさっていく、そんな感覚だ。
「――というのはいかがでございますか」
ちらり、ともう一度千秋を横目に見やって、高峯は閉口した。かち、と脳内のパズルが完成したのを千秋は感じた。
「いい案だな?」
「恐縮でございます。相原様はご会食時の方が商談に持ち込みやすいかと。それと、以前から弊社が導入したシステムにもご興味がおありのようでしたので」
「そうだったのか? 前に話を伺った時にはまったくそんな素振りがなかったと思っていたんだが……まぁどちらにしても、それなら話は早いな?」
口元に隠しきれない笑みを浮かべる。
前方で小さく息をつく声がしたが、高揚している千秋には届かなかった。