邂逅 朝の気配に目を覚ます。靄のかかった頭がまだ眠っていたいと瞼をおろすが、今日は朝食にパンケーキを焼いてやる約束だ。約束を破ると拗ねた小鳥のご機嫌取りに丸一日を費やす必要があるし、何より私自身が恋人を──アダムをがっかりさせるようなことはしたくなかった。
大きなあくびをひとつして起き上がると、隣ではアダムが寝息を立てている。しかし、いつもより顔色が悪い。体調が悪いのだろうか?その場合、パンケーキを食べさせるのは避けた方がいいだろう。起きるには少し早いが、確認のためにアダムの肩を揺すって起こしてやる。
「おはよう、アダム」
「……?」
いつもなら何回か瞬きをしたあと、笑っておはようと返してくれるアダムだが、今日は何故か混乱したようにあたりを見回して、何度も私の顔を確認しては言葉にもならない音を零していた。不審に思って声をかけようとすると、それを遮るようにヒステリックな声が飛び出す。
「なッ、なんだよ! 私は何も知らないからな! お前が移動させたんじゃないのか!?」
私は面食らってしまって、しばらく処理に時間をかけたあと、確信した。このアダムは、私の知っているアダムではない。しかし偽物という訳でもない。どうしたものかと考えているうちにもアダムの荒らげた声は止まらない。
「何ボーッとしてやがんだ? 痴呆か? そのままコロッと死ねボケジジイが!」
「アダム」
「……!」
ただ名前を呼んだだけだというのに、さっきまでの暴れようはどこへやら。目には怯えが浮かび、肩は哀れに震えている。
「まずは落ち着きなさい」
頭でも撫でてやろうかと腕をあげた瞬間、アダムの体が跳ねたかと思うと翼がアダムの身体を覆ってしまった。防御姿勢だ。……なるほど、これはよっぽど酷い目に遭わされてきたらしい。在りし日のエクスターミネーションを思えば私も人のことを言える立場ではないが、アダムと恋仲になってから暴力に訴えたことなど一度もない。さて、この子をこんなふうにしたのは一体誰か……考えなくても分かりそうなものだが。
まずはアダムに安心してもらわないと私のことを説明をすることも、話を聞き出すこともできそうにない。つとめて優しい声で名前を呼ぶと、ようやく翼の間から顔を出した。不審そうな顔は警戒にピリピリしているのがわかり、なるべく刺激しないようにそのままの姿勢で微笑みかける。
「アダム、まずは安心して欲しい。おそらく、私はお前の知っている私ではない。危害を加えるつもりもない。ひとまず状況を整理したいんだが……どうかな?」
「……は?」
心底わからない、といった声音だったが、私の様子がいつもと違うのは流石にわかるのか、アダムはこわごわと頷く。それを確認したところで、「ダイニングで座って話をしよう」とアダムを連れて部屋を出た。
*
アダムはダイニングテーブルへ、私はキッチンへ。エプロンを付けながら「お腹は空いてるかな? 体調は?」と問うと、居心地が悪そうに「悪くないし、空いてない」と返ってきた。その瞬間、お決まりのようにタイミング良く鳴った腹の音に思わず笑うと、アダムの顔がまた歪んだ。よっぽど別人のようなんだろうか、さっきからずっと困惑しっぱなしな腹ぺこアダムのために分厚いパンケーキを2段重ねて拵えてやる。バターとシロップをたっぷりかけるのがアダム好みだ。
「さあ、どうぞ」
「おいおい、何の冗談だよ? これを私に?」
「パンケーキは嫌いだったか? 私のアダムはこれが好物なんだが……ああ! ホイップクリームが欲しいとか?」
「ハッ! どうせ何か変なもんが入ってるとか、食べたら何かするつもりだろ」
「……いや……」
「アンタは嘘が下手だな! 顔に出てるぞ」
ただパンケーキを焼いただけでここまで警戒されるとは思っておらず、渋い顔をした私にアダムは何を勘違いしたのか勝ち誇ったように笑っている。仕方ない、とアダムの皿からパンケーキを一口切り分けて自らの口に放り込んだ。
「なっ……」
「この通り、特に何も入ってない、普通のパンケーキだ。私の愛情は入ってるかな」
「何キモいこと言ってんだよ……頭沸いてんのか?」
「まあまあ、いいから食べなさい」
もう一口切り分けて口の前へ差し出してやると、自分で食べるとフォークをひったくられてしまった。食べてくれるなら問題ない。自分の分もさっさと焼き上げてしまうと、アダムの前の席に座って食べながら話し始めた。
まとめると、やはり私のアダムとこのアダムは別人らしい。この子に言わせれば私は最悪の悪魔で、起きた時騒いでいたのも同じベッドで眠ると怒られるかららしい。本当に最悪だ。そして私も向こうの私と同じ類の性質で──油断したところを酷く苛むのではないかと警戒しているようだった。これについていくら弁明しても取り付く島もなく否定されてしまったので、一旦黙ることにする。
さて。状況の整理がついたところで何が解決するわけでもなく、並行世界とも言うべき場所と人が入れ替わるなんて事象はこの1万年近くでも記憶にない。何か怪しげな術をしただとか、心当たりも全くないとなれば、ただ自然に元に戻ることを祈って毎日を過ごすしかない。
幸いにもしばらくは城を長く離れるような予定は入っていないし、ホテルの手伝いだけ休みの連絡を入れれば問題ないだろう。このアダムにホテルの手伝いをさせるには少し、いやかなり危なっかしい。
「という訳で、特に解決策がないので君にはこの城で過ごしてもらうのがいいと思う。何かして欲しいことや、して欲しくないことがあったら遠慮なく言ってほしい」
「え……」
誰が信用するか、という顔で私の話を聞いていたアダムが、わかりやすく動揺の色を見せた。
「なにかあるかな?」
「そんなの……」
言いにくそうにカトラリーを弄っているので、もう空だろうと自分の皿と重ねてシンクへ下げてしまった。眉を下げてうろうろと視線を蛇行させるさまがあまりにも哀れで心が痛む。
部屋に戻るか、と声をかけて部屋に戻る間も、アダムはずっと口の中で何かの言葉を噛んでいた。
「というか、なんでお前まで部屋に来るんだよ」
ベッドに腰掛けて不満げに私を睨みつけるのに、首を傾げた。いつも一緒に過ごしているから自然な事だと思っていたが、このアダムにとっては違うのだろう。
「ダメか?」
「ダメに決まってるだろ! 私は騙されないからな! サディストの変態め!」
「サディ……私はノーマルだ!」
「嘘つけ!」
「私は大切な人は殊更甘やかしたいタイプだ。いい加減信じてくれないか……君のことも大切に思ってる、だから傷付けたりしない」
「……」
さっきから散々伝えているにも関わらず、まだ警戒は解けないらしい。この子をこうした向こうの私に憎しみと怒りが湧いてくる。会うことは無いだろうが、もし顔を合わせることになったらどうしてくれよう。私のアダムが向こうに行っているのだとしたら、私の代わりにアダムがボコボコにしてくれるだろうか。
いや、あの子は精神に限って言うなら私よりもよっぽど強いが、腐っても私相手だ。力にものを言わせて酷いことをされていないか……そんな百面相をしていると、アダムが黙りこくってしまった。心配で顔をのぞき込むと、その目には涙が溜まっている。驚きに心臓が飛び跳ねた。
「なんだよ……」
「ア、アダム?」
「お前なんか、いつも、私のことを、いつも、私のことなんか、何とも思ってないくせに……!」
とうとう溢れ出した涙に冷や汗が止まらない。男は愛する人の涙にめっぽう弱いものだ。背中を撫でたり、こめかみにキスを落としてやったり、抱きしめたり、考えつく限りの愛であやそうとするものの、このアダムには逆効果らしい。
「触んな!」
「そう言ってもな」
「クソ、優しくするな、バカ、クソ野郎、嫌だ……!」
抱きしめる私の胸を押して両腕から逃れようとしているが、その腕には大して力が入っておらず、本気で言っている訳ではないとすぐにわかった。その証拠に少しすると大人しく腕の中で泣くようになり、しばらくして泣き疲れたのか体重を私に預け、静かに眠ってしまった。
その寝顔をじっと眺めていると、濃いクマや青白い顔色が目につく。髪や肌も荒れているし、首元からは何の跡か考えたくもないような赤黒い痣が覗いていた。ひとまず目に付いた痣を消してやると、アダムを寝転ばせて頭を撫でる。
「今はゆっくりおやすみ」
どうか悪い夢を見ませんように。