ファンファーレの音を聞け その日、世界に高らかに鳴り響くひとつの音があった。それは終末のファンファーレ。神が世界に見切りをつけた音。不可避の終焉の合図。
その音を聞いたある者は安堵し、ある者は泣き、ある者は笑った。そうして、ハズビンホテルの一室でその音を聞いた地獄の王ルシファー、原初の男アダムはというと──ただ、呆然としていた。何て間の悪い終末だろうかと。
神はご存知だったのだろうか。やっとの思いで心を通じ合わせたふたりの、初デートが明日であることを。
*
普段から混沌とした地獄の街中は、終末ともあってさらに混乱を極めていた。荒廃という文字をそのまま風景に起こすとこうなるだろう、といったような目の前の光景に、アダムは思わず眉を顰めた。一歩ごとに血が跳ねるようなありさまのなか、汚れることは諦めたのかアダムの白い衣装は裾から赤く染まり始めている。
初デート最初の目的地は地獄でも評判のパンケーキ店。せっかくふたりでプランを立てた初デートを終末ごときに邪魔されてたまるものか。アダムは初めて親に反抗心を抱いた。一万歳にして初の反抗期だった。
「忘れられない初デートになるな」
「初デートにしてはエキストラがうるさすぎないか?」
「上等だろ。行くぞ!」
アダムは片眉を吊り上げ挑戦的に笑うと、二人揃っていつにも増して騒がしい地獄の街を歩き出した。そうして、到着したはいいものの。当然と言うべきか、パンケーキ店には悪魔ひとりおらず、窓ガラスは割れ、店内には誰かがファックしたであろう痕跡さえ残っている。ふわふわのパンケーキがうつされたメニュー表には血飛沫が飛び、思い描いていた場所とはまるきり違う姿にアダムもルシファーもげんなりする。
それもつかの間、ルシファーは当然のようにキッチンへ押し入り、冷蔵庫を漁り始めた。
「おい、何する気だ?」
「せっかく来たんだ、パンケーキを食べよう」
「お前が焼くのかよ!」
手際よく材料をはかり混ぜていく姿に、最近はじめてアダムへパンケーキを作ってくれたことを思い出してじんわり頬が熱くなっていく。そんなことで照れてしまうほど今までのふたりの仲は最悪で、その反動が凄まじかった。もういいんだと開き直ったふたりの恋愛は、エンジェルに言わせると「ミドルスクールのカップルの方がまだマシ」らしい。それを妻子持ちの男二人でやっているのだから、恐ろしい。
そうこうしているうちに厚さ三センチものパンケーキを何枚か焼き上げたルシファーは、店内の写真を参考にしつつそれらしい盛り付けをして、アダムの前に差し出した。
「どうだろう?」
「完璧!」
アダムはルシファーの頭に軽くキスを落とすと、差し出された皿を持って店内の席へ座った。精液の落ちていた席とは対角線にある席だ。
この終末に、パンケーキ屋で王様とアダムがパンケーキ食ってる。窓ガラスの外からそんな目線を感じつつ、すっかりふたりの世界なアダムとルシファーは気にもとめずにパンケーキにナイフを入れた。
ふわふわの生地はナイフを動かす度にふるふる震え、メープルシロップと熱で少し溶けたホイップクリームを纏ってアダムの舌を喜ばせる。わかりやすく美味しい、という表情で悶えてみせるアダムに、ルシファーは笑みを浮かべた。
「ん〜!」
「うまいか?」
「お前のパンケーキが世界でいちばんうまい」
「ふふ、そうだろうとも。もう一枚いるか?」
「いる!」
次の一枚はお互いにチョコソースで落書きしあい、ガタガタの線や内容にけらけら笑って写真を撮ったあと、チョコスプレーをこれでもかとぶちまける。夢のパンケーキの完成だ。
「馬鹿の味がする」
「馬鹿が作ってるからな」
「今馬鹿にしたか?」
「でもうまいんだ、これが」
「そう、うまいんだ……」
しみじみと馬鹿のパンケーキを胃に収めたふたりは、代金も支払わずに満足して店を出る。終末なのだから、問題はない。
さて、このあとはしばらくウィンドウショッピングの予定だったのだが、例に漏れず店員は仕事をしていないため、手当り次第店に入って気に入ったものは持って帰ることにした。
まず手始めに、衣装の汚れを気にしたルシファーは、がらんとしたブティックでアダムの衣装を調達することにした。今のものは裾を引き摺る長さのため、せめて丈感のちょうどいいスラックスなんかがいいだろうか。そんなことを呟きながら服を見繕うルシファーに、アダムは渡される服を言われるがままに着用し、着せ替え人形のように試着に徹した。ルシファーのセンスで飾り立ててもらうことが嬉しかった。普段はまるで着ないだろう綺麗めでフォーマルっぽい服装に、自然と背筋も伸びる。
ついでにルシファーの衣装もアダムのセンスで選んでやろうかと思ったが、服の系統を合わせたいというルシファーの希望によってプレゼントにとどめられた。
「帰ったら着よう」
「並んで写真撮ろうぜ、お嬢ちゃんにもエモ期のカッコしてもらおう」
「嫌がりそうだな……黒歴史らしいぞ」
「だろうな! でも頼み込めばワンチャンある」
「あるか……?」
あの時期のチャーリーの音楽好きなんだよ、と話しながらブティックの紙袋をさげて店を出たふたりは、向かいにある店に目をとめる。
そうして、お互い顔を見合わせ、同じことを考えているだろう予感に少し照れたように笑った。
「入るか?」
「入ろう」
自動扉が開くと、大半のショーケースが割られ、強奪されたあとのジュエリーショップがふたりを迎えた。
「商品が残っているのかわからんな」
無惨な姿のショーケースを眺めるルシファーは、空っぽのそれに若干の不安を感じつつ店内を歩き回る。少し別の場所を見ていたアダムが、ああ、と声を漏らしたかと思うと片手をあげてルシファーを呼んだ。
「ルシファー! これなんかどうだ?」
アダムが持つそれは、紛れもないエンゲージリング。付き合って二週間そこらのふたりだが、どうせもうすぐ終わってしまうのなら、本当の意味での最後の愛をリングに誓うのも悪くはないだろう。
金のシンプルで華奢なリングは、ベーシックなもの故かサイズも豊富に取り揃えられ、大した傷もなく無事だったのだ。ぴったりのサイズを探し当て、ルシファーの指に通したアダムは、指輪をなぞって呟く。
「金だし、細めだし、重ねてつけても違和感ないだろ」
「……いいのか?」
ルシファーはその言葉が、未だに付けているリリスとのリングのことを指しているとすぐに気がついた。アダムに気を遣って外すべきかと悩んでいたルシファーは、アダムの言葉に驚きを隠せず思わず声が震える。
「別に。今いちばん愛してるのは私だろ?」
「ああ、勿論。ありがとう、アダム……」
たまらずアダムを抱き寄せると、アダムもルシファーに腕を回し、しばらくの間幸せを噛み締めるようにふたり抱き合っていた。どちらからともなく唇を重ねると、額を合わせて幸せそうに笑う。間違いなく、ここには幸せがあった。
「ほら、お前も付けてくれよ」
左手を差し出すアダムに、ルシファーはリングを嵌めて、その指にキスを落とした。どうかふたりの間を何物も分かつことのないように。例え終末であろうと、父であろうと、ふたりの愛を阻むことのできるものはないのだと、信じていたかった。
*