レイチュリ 恋のフレーバー 人通りの多いショッピングモールで知った顔を見つけて気分が上向いた。
「レイシオ!」
本屋を出てきたばかりの気難しい表情の美貌に向けて声を飛ばす。呼ばれた男は辺りを見回して、軽く手を振るこちらを見つけると眉を顰めた。歩み寄ってくれるわけもない、けれど無視をしようともしない優しい友人だ。
「奇遇だねぇ! 君もオフ?」
問いかけても眉を顰めたままこちらの全身をゆっくり眺めるレイシオ。
「あれ? 誰だか分かってない? アベンチュリンだよ」
「その軽薄な声で分かった。無駄に着飾らない君を初めて見た」
サングラスを外してタネ明かしをするようにおどけて見せればレイシオは呆れたように息を吐く。
普段なら『無駄』と称されるほど身につけている装飾品も今日は腕時計だけと最低限で、髪もほとんどセットしていない。服装も黒デニムにカットソーだ。街に溶け込むならこんなものだろう。
「オフの日は仕事の時みたいに見せかけは必要ないからね。君は何をしていたんだい?」
「本屋から出てきたのだから質問をしなくても答えは分かりきっているだろう。何の用だ」
「ごめんごめん。機嫌を悪くしないでくれよ。今って時間はあるかな? 少し頼みたいことがあるんだ」
断っても構わないと、わざとらしく軽薄な態度で接すると、レイシオはますます辟易とした表情になる。それでも大きく大きく溜息を吐いたあと「言ってみろ」と促した。やっぱり優しい。
「あそこのコーヒーショップで話題の新作ドリンクがあってね。ひとりじゃ注文できないから君についてきてもらいたいんだ。もちろん、君が好きなものを奢るよ。そのあとは好きにしてくれていい」
「……本当にそれだけでいいのか?」
探るような視線に「ああ」と笑みを返す。やや信用に欠
ようだが男が折れた。
「いいだろう」
「ありがとう、レイシオ! 持つべきものは友人だなぁ! それじゃあ行こうか」
こっちだ、と逞しい腕を引いて人混みに足を向けた。
SNSで若者を中心に話題になっているせいか、店の外にまで行列ができている。その最後尾に並ぶと、すぐに後ろに人が並んでもう最後尾ではなくなった。
「そんなに話題の飲み物なのか」
「まあね。このあと何か用事はあるのかい?」
「夜には学会の会合だ。それまで時間はあるが……行列に並ぶ人間の気持ちは理解できないな」
時間の無駄を何より嫌う男はやれやれと息を吐く。
「ははっ、注文まで一緒に来てくれるならさっき買った本を読んでいてくれて構わないよ」
「そうさせてもらう」
行列に並ぶあいだのお喋りを頼みたいわけじゃない。買う時に隣に居てくれればそれでいいのだ。
するとレイシオはすぐさま本を開いて口を閉ざした。そろりそろりと列が小さく進む度にレイシオの腕を引けば足は動かしてくれるのだから問題ない。
列に並ぶ様々な人種。そのほとんどが二人組だとこの男は気付いただろうか。ドリンクを買う時にどんな反応を見せるのかを考えて、小さくほくそ笑んだ。
ようやくレジカウンターまで辿り着き、相変わらず本から視線を上げない男の分を店員に注文し、カウンターに置かれたメニューに大きく打ち出されたドリンクをとんっと指さした。
「このトキメキドリンクを一つお願いするよ」
強烈なピンク色で浮かれた名前のこれこそが求めていたドリンク。発売からこの数日で対応し慣れたのだろう女性店員は笑顔で決まり文句を口にする。
「かしこまりました! トキメキドリンクについての説明は必要ですか?」
「いや、知ってるから説明不要だよ」
「それでは証明お願いしまーす!」
ハツラツとした笑顔は崩さないまま業務的に女性店員が促した。
周囲の視線を集める美貌を見上げる。
「ダーリン」
見つめ返してくれない相手にそれっぽく呼びかけながら、レイシオの顎を指先で撫でる。読書の邪魔をされて煩わしげに反応したレイシオに背伸びをして口付けた。
「なっ……」
「これでいいかな?」
「はーい! ありがとうございます! すぐにご用意致しますので少々お待ちください!」
他人のキスに何の感慨もなくなってしまったらしい店員は「受け取りはあちらで」とさっさと会計を済ませると、すぐに次の客の対応に移った。待機列を手早く捌くほうが彼女たちには重要なのだろう。恥ずかしがってキスを躊躇う客に対して微笑ましさを覚えるよりもイライラしていそうだ。
文句を言い出す前に店員の勢いに流されて消化不良のまま隣に立つレイシオは、三台あるレジカウンターでこのドリンクを注文した二人組がキスをし合っていることにようやく気付いたらしい。
「説明してもらおうか」
「落ち着いた場所でね」
頭痛がするみたいに顔を顰める男をいなしてドリンクを受け取った。
もちろん店内は満席で、店を出て噴水がある広場のベンチに腰かけた。不満げなレイシオにはアイスコーヒーを手渡し、ピンク色のフローズンドリンクに刺さった二本のストローで生クリームをかき混ぜながら説明をする。
「これは恋心を呼び起こすトキメキドリンクなんだ。飲めばたちまちドキドキが止まらなくなって恥ずかしがり屋の自分とサヨナラ! 引っ込み思案な彼も積極的に! マンネリ化したカップルも初恋気分! って謳い文句さ」
「僕が馬鹿馬鹿しいことに付き合わされた説明になっていない」
アイスコーヒーのストローを噛んで不機嫌そのものといった顔が睨んだ。怒らないで、と購入時に渡された小さなチラシをレイシオに手渡す。
今さっきの謳い文句やドリンクの効果、SNSでの反応が書かれたものだ。レイシオがそのチラシに目を通す前に、噴水広場の真ん中でドリンクの効果が示された。
「キミを愛してる! 今すぐボクのものにしたくて堪らないよ!」
男の高らかな愛の告白が通り抜け、一身に視線を集める男女が居た。片膝をつく男の傍らには蛍光ピンクの液体を零したカップが転がっている。
興奮した様子の男に対面する女性は口元を覆って絶句している。百年の恋が冷めて、ではなく彼女もまた「私も愛してるわ!」と叫んで男に熱く口付けた。恋愛映画のようなワンシーンを繰り広げた二人は体を密着させてキスをしながらどこかへ消えていく。これから愛を確かめ合うのだろう。
「飲めばあんなふうに気持ちが抑えられなくなるらしい。
効果は人それぞれ。なかなかに過激な愛情表現をする人もいるから、カップル限定販売になったんだ。それでさっきみたいに店員の目の前でキスをしてカップルだと証明する必要があってね」
初めは一般販売されていたのだ。誰もが甘酸っぱい恋心を芽生えさせて世界に新たな愛が育まれることがコンセプトだったようだが、愛のためなら死ねるタイプの人間や、一方的に執着している相手へもう一歩踏み出してしまう人間がいると分かると早々にカップル限定販売となった。
現状はドリンクを飲んだあとに巻き起こる本音の発露や熱烈なひと時を動画撮影して、効果が切れた頃に見返しては笑い合ったり話し合ったりと良い方向に進んだ報告がSNSに広まっているが、それもそのうち規制されてしまう可能性がある。
「このドリンクには興味があったけど、何しろ僕には相手がいないからね。誰か適当な男に交渉を持ちかけようか悩んでいたんだけど君が助けてくれて良かった」
「何の説明もなかったが」
「言ったら付き合ってくれなかっただろうからね。騙し討ちで悪かったとは思ってるけど、助けてほしかったのもここまでだ。もう君は自由だよ、レイシオ。アイスコーヒー程度じゃ対価が足りなかったかな?」
彼がここに居たんじゃ飲みづらい。万が一にもあのカップルのようにこんな場所で盛大にレイシオへの愛を叫び始めたら、彼の名声に傷が付きやしないだろうか。
けれどレイシオが立ち去る気配はなかった。
「飲むのか? 効果は目の前で確認できただろう」
「目の前で確認できたからこそだよ! あれだけ人の気持ちに作用する飲み物なんて奇物の類なのか興味があってね。僕も恋心ってやつを疑似体験してみたいのさ」
自分には最も縁遠い心地。
恋に浮かれて世界が華やぐような自分の姿はまるで想像もつかないが、束の間の気分だけでも味わってみたい。
これはただの自己満足だからレイシオには関係ないのだが、奇物という単語を出してしまったのがまずかった。
「なるほど、奇物か。それは興味深いな」
彼の興味をそそってしまった。レイシオは呟くと、足を組んでベンチにもたれる。事の次第を見守る体勢だ。
「……ええ? もしかして君も飲みたくなったのかい?」
「そんな訳があるか。君が飲んで感想を聞かせてくれ。それが対価だ」
「身勝手だな……僕もだけど。まあ君なら最悪の場合でも僕に後れを取るなんてことはないからね。信用してるよ」
きっと良からぬ事態も学者らしからぬ肉体言語でこの場を収めてくれることだろう。
何が起こっても大丈夫だという安心感を得られた。早速、ストローに口をつけ中身を吸い上げる。
「ンッ!?」
せり上ってきたとろりとした一口を何とか喉に流し込んで手で胸を押さえる。レイシオが眉を顰めて覗き込んだ。
「気分が悪くなったか?」
「……あっまい!!」
思わず叫ぶように答えた。
甘い。とにかく甘い。冷たいはずのドリンクが舌を溶かして喉を焼くような錯覚を覚えるほどに甘い。
「一口でもキツいよこれ! どうりでSサイズしかないわけだよ!」
「僕を巻き込んでおいて音を上げるつもりか? 一口程度では効果は見込めそうにないが」
「ぐっ……これが恋の試練ってやつなのか? どろどろに甘さを煮詰めてるのにどこかに酸っぱさも感じるし熱も感じるんだけど」
初めての味だ。いや、これを味と評していいのだろうか。
「この甘さは暴力だな……」
あらゆる暴力を知った気でいたが、甘みという本来なら癒しになるようなものも度を超えれば無慈悲な暴力になるのだと思い知らされる。
今のところ体や感情に変化があるようには思えない。教授の言うように一口程度では足りないか。
ふうっと息を吐いて覚悟を決める。ドーム型のフタをかぱりと外してカップを呷った。
どろりとした熱が口いっぱいに広がる。それが舌の上を這って、喉を撫でていった。
「んん……っ」
「おい、無理をするな」
できるだけ味を感じないように意識を逸らしながら、ごくりと喉を上下させて無理やりに飲み下す。
息を吐けば一緒に火でも吹きそうなほどに体の内側が熱い。行儀は悪いがベンチに膝を立てて項垂れる。
ちらりとレイシオを見遣れば呆れた視線でアイスコーヒーを差し出してくれた。
「ほんと、君に声をかけて良かったよ」
ははっと笑ってフタを外したアイスコーヒーもひと息に呷る。
「あー、すごいな。味がしない。冷たくもない」
「強烈な甘みに味覚がやられたか」
「そうみたいだ。今シャツを脱いだら食道から胃にかけて真っ赤になってのが見て分かるんじゃないかと思うくらいに体が熱い」
「それはきっと分からないだろうな。何故なら今の君は食道どころか全身が赤い。目も潤んでいる。少し触れるぞ」
「ん」
頷くと前髪をかき分けて額に大きな手のひらが触れる。レイシオが「熱があるな」と呟く程度にはその手のひらがひやりと心地良い。
「他に変化は?」
まるで問診だ。
氷をがりがりと噛みながら自分の体調を分析する。
「微熱がある感覚と心拍数が上がってる。あまり酸素が回ってないのか息も上がってきたかな、胸が苦しい。ああ、あと君がキラキラして見える」
「瞳孔が開いているんだろう」
やたらと輝いて見える端麗な男はバッサリと切り捨てた。だが自分でもそう自覚している。ただの病状説明にしか思えない。
「要はこれを恋だと錯覚して相手に迫るってだけか」
「そのようだな。奇物ということもないだろう」
「たったこれだけでよくああも大胆になれるな……。はぁ……期待した代物じゃないみたいだ。残念だよ」
自分の身に備わっていないものは初めから味わいようもないということだ。
見つめ合うだけで心恥ずかしくなるような気分も、愛おしさが高揚して叫び出したくなるのも許されていない。文字通り煮え湯を飲まされたような熱さと不快感、全身の倦怠感を味わうのがお似合いということか。
「君がそんなにも恋心というものに興味があったとはな」
「……普段とは違う自分になってみたかっただけさ」
無理だったけど、と嘆息した。
「もう結果は分かったからレイシオももう引き上げてくれて構わないよ。付き合ってくれてありがとう」
「君はどうするんだ」
「ホテルまで帰るのも面倒だしね。落ち着くまでここで惨めに蹲ってるよ」
「そうか」
短く答えたレイシオが立ち上がって去って行く。その背中を呆然と潤む視界で見送った。
ひとりになるのはいやだなぁ。
そう思っても、引き止めるという考えもなかった。自業自得なのだから。
この不愉快な動悸はどのくらいで治まるだろうか。あとどれだけこの心細さをやり過ごせばいい。
効果はいつまで続くのかチラシに書いていたかと空いたベンチに手を伸ばすと、そこにまた人が座った。
「レイシオ? 忘れ物でもしたのかい?」
何食わぬ顔で戻ってきた男の顔をきょとんと見上げる。
「水を買いに行っていただけだ。飲むといい」
「え、ああ。ありがとう」
でもどうして?
それを聞いてしまうと、また静かに本を読み始めた彼が今度こそ本当に立ち去ってしまうような気がして言葉を水で流し込んだ。
ただ目の前の患者を見過ごせないだけ。医者の道徳心だろうと位置付けて、喜びかける自分の気持ちを宥める。
落ち着くまでのほんのひと時をどくどくとうるさい鼓動と、静かにページをめくる音に耳を傾けた。
一システム時間ほどで体の火照りも脈も治まり、レイシオの問診から逃げるようにして別れた。
大丈夫だと言ったが、あまりに信用がないのか何度も足取りを確認されホテルまで送ると言い出しかねない紳士的な空気を感じ取って気が引けたのだ。優しい人に甘え続けるのはいけない。返せるものがないのだから。
心が弱くなる前に立て直さないと。
気分転換に情報収集がてらウインドウショッピングをして過ごしたが、夜になっても自分の内側にある違和感が拭えなかった。
いつまでもレイシオのことを考えている自分がいる。
予定があるのに付き合わせて悪かったと伝えたけれど、別れ際にどんな顔をしていただろうか。不快に思わせただろうか。
それだけじゃない。今日会ってからどんな会話をしたのかを振り返り、額に当てられた手のひらを思い返してみたり、買い物中だってレイシオが好きそうだとか似合いそうだとかを考えてしまっていた。購入を踏みとどまったのは自分を褒めてやりたい。
まさかドリンクの効果が切れていないのだろうか。効果には個人差があるというが遅れて効いてきたのだろうか。ドキドキするようなことはないが、おかしいことは分かる。
ホテルのソファに体を投げ出して、この身にそぐわない気分を持て余す。ドリンクを飲んだ時のような不愉快さがぶり返して、冷静になろうとスマホを手に取った。
カンパニーの利益になりそうなことだけ考えていればいい。そこに身を投じていればいい。
それだというのに少しも集中力が続かない。
あまつさえレイシオに『今なにしてる?』とメッセージを送信しかけて慌てて削除した。
夜は学会の会合だと言っていただろう。分かりきったことを聞くなと小言が頭にこだまする。そもそも聞いてどうするというのだ。
「あーっ、イライラする!」
何も成せない自分が大嫌いなくせに。興味本位で『普通』を味わってみたいなんて思うんじゃなかった。そんなものは初めからない。望んではいけない。
「バチが当たったかな……」
ひとりの部屋に放った言葉が染み込む。
気が触れそうだ。さっさと眠ってしまいたいがこれは上手く眠れないだろうと経験で分かる。
不出来な自分の体に舌打ちして部屋を出た。
ホテル暮らしというのは便利なもので、エレベーターで降りるだけでバーで酒を嗜める。ある程度酔いが回れば眠れるだろう。
そう思って訪れたバーで思いがけない光景を目にした。
やたらと視線を奪う男がいる。目を凝らさなくても、正面を向いていなくたって分かる。逞しい肉体を仕立ての良いスーツに押し込んで鷹揚とソファに座っているのはレイシオだ。
けれど声をかけるわけにはいかなかった。
向かいのソファにお淑やかに腰掛ける女性と歓談中だ。
思わず二人が視界に入るカウンターに腰を下ろした。適当に酒を頼んだけれど、まだ味覚が麻痺していて味なんて分からない。
何を話しているんだろう。女性のほうは頬を染めて口元を手で隠しながらくすくすと笑っているが、ここからではレイシオの表情は見えない。
あの男の言動が誰かの気分を害したり、その優秀さに気後れさせるのは何度も目にしたことがあるが、誰かを会話で楽しませているのは初めて見る。
大抵の人間はその相貌にうっとりと見蕩れるが、気難しい表情から繰り出される説教のような話にそそくさと立ち去るのが常だった。
大体にして素顔を晒していることが不思議なのだ。普段は怜悧な美貌に好奇の目を向けられるのが不愉快で石膏頭を被っているだろうに今はどうして。
じっと睨むように考えて、はたと気付く。何を考えているんだ。
頭をぼやかすために少し強めの酒を呷ってみる。相変わらず味はしない。頭が勝手に動くせいだ。
一緒に居た時はどんな表情をしていただろうかと反芻してしまう。真っ先に浮かんでくるのは呆れた表情。それから溜息。息を吐く音を一番よく耳にしている気がする。笑った顔など見たことがあっただろうか。
杯を重ねて、カウンターに項垂れた。心地良い酩酊とは程遠い。店員に迷惑をかける前に、ほとぼりが冷めたら部屋に戻ろう。そう思うのにここを離れるのも渋ってしまう。
「こんな所で何をしている」
不意に声をかけられた。聞き慣れた溜息付きで。
枕にした腕の隙間からのそりと覗いて、その姿を認める。不機嫌そうに眉根を寄せた顔に、へらりと笑みを向けた。
「……君のストーカー」
「酔っ払いめ……」
憎たらしいと言いたげなレイシオが隣の椅子に腰かけた。ネクタイを緩めて、首元のボタンも外してひと息つく。
「普段の君なら酒が入っていようと自分の見え方と周囲の視線に嫌というほど気を配っているはずだが? 表情を隠す為のサングラスはどうした」
「部屋に置いてきた。自分のことよりも君のことしか考えてなかったな。どうやら僕はおかしくなったみたいだ」
バーテンダーから水が差し出される。レイシオが頼んだらしい。だらしない体を起こして喉を冷やす様をレイシオがじっと見つめてくる。
「安心するといい、ギャンブラー。君はずっと異常だ。今に始まったことじゃない」
「そうじゃない。あのドリンクの効果が今頃効いてきたのか君が視界に入っていないとイライラする。入ってもイライラする。本当に厄介な気分だよ。何にも手につかない……」
「恋心を知りたかったんだろう? 暴力的な甘さを乗り越えてまで得たかった気分の感想は?」
「こんなうじうじした気分が恋だって? これじゃあいつもと変わらない……」
嘆息混じりに肩を落として答えると、レイシオはふっと笑う。
「それなら普段の君にも恋心が備わっているということだ。それが分かって良かったじゃないか」
「そんな証明がしたかったんじゃない……。もっと弾んで、楽しげなものだと思ってたんだ」
恋というのはもっと前向きで華やかなものじゃないのか。自分を認められて綺麗になれるものじゃないのか。どうしてこんなにも後ろ向きで自分の言動や相手の考えが気になる。それじゃあいつもと同じだ。惨めで、情けないままだ。
「恋心というものは一人で育むものだ。それこそストーカーになる程に」
皮肉な言い草にじとりと視線を向ける。レイシオは視線を受け流して講義の時間を続けた。
「一人で育てたものを想い人に伝えて、相手からも返って来たのならそれらを交じり合わせ、二人で楽しいものや美しいものに形作っていくことを恋愛と呼ぶのだろう。自分の気持ちを差し出す勇気も、相手の気持ちを受け取る度胸もない君にはまだ理解し難い話だろうが」
「……まさか教授から恋愛指南を賜るなんてね」
「僕もまだ仮説の段階だ。何しろ相手にされていなくて立証には至れていない」
「へぇ、君が人に振り回されているのか! おもしろい」
「それを本気で言っているならかなり酔っているな」
苦々しく吐き出したレイシオは水を呷って声色を戻す。
「僕も恋愛への興味は薄い。恋をしたからといって世界が見違えるなんてことはなく、ひとりで見ていた風景がふたりで見る風景になるだけのことだろうと思っている」
「ロマンがないなぁ」
「僕はロマンより知識の追求に忙しい。……それでも脳の占有率が勝手に高まるのだから無視できない」
頭痛がするように頭を押さえて嘆くレイシオ。
講義を聞いているうちに酔いが醒めてきた。この男の恋愛話なんて耳が痛いだけだ。
それを理解しているらしい教授は「素人質問で恐縮だが」とまだ続ける。憎らしい物言いにこちらも乗って「どうぞ」と促した。
「強がりでひとりになりたがる割に心細さに気付いてほしがるような臆病者にはどう対応すべきだ? からかうように気を惹いてくる癖に掴ませはしないで、近付きすぎれば遠ざけられる」
「ふうん。厄介そうだね」
「そうだろう? 正直なところ何がしたいんだとうんざりしている」
うんざりという言葉に胸が跳ねた。表情には出ていないはずだ。大丈夫。
何も言えないでいるとレイシオは「だが」と二の句を継ぐ。
「ひとりでつまらなさそうにしている姿を見かける度に僕の傍でそうすればいいだろうとイライラする。それが叶えばきっとこの苛立ちはおさまる。僕はこのまま手に転がり落ちて来るのを期待して待つべきか、望みはないと諦めるべきか、君の意見を聞かせてくれないか。このところずっと頭を悩ませている難問なんだ」
駆け引きは得意だろうと教えを乞われる。だが実際のところは選択を迫られている。
彼をこの手に掴むか、逃がすか。
どっちを選ぶのも怖い。だから今まではぐらかしていたのに。レイシオだってそれを分かっていたはずだ。それなのに選択権を与えられる。きっとどちらを選択しても彼は狼狽えずに受け入れるのだ。そうしたら二度と選択権を与えてもらえなくなる。
選択を間違えちゃいけない。間違えればきっと死ぬまで後悔する。ああ、もうほとんど答えは出ている。ただ怖いだけだ。
氷が溶けただけの水で唇を湿らせる。
「それじゃあ、こういうのはどうだろう」
「聞かせてもらおうか」
「まず君に必要なのは入浴だ。思考が滞っているのは頭に汚れが詰まっているからだって君はよく言っているだろう? 今は余計なものが沢山詰まっているだけだ。汚れを落とせば脳もクリアになる」
「つまり僕にこの気持ちは不要だと?」
柳眉を吊り上げるレイシオにゆったりと笑ってみせた。
「そうだね。君には似合わない」
「そうか」
落胆するでもなく、安堵するでもなく平坦な声が返ってくる。静かに目を伏せるレイシオはグラスを空けた。
用事は済んだとばかりに立ち上がろうとする男の手首を掴む。逃がさないように、しっかりと。
「だから僕の部屋のバスルームを使うといい。三人、いや四人くらいは並んで入れそうなほど広くてゆったりしているよ。大きな窓から朝日が差し込むバスタイムはきっと優雅で君好みなはずだ」
僕は入ったことがないから分からないけどね、と付け加えると意外そうな顔をしたレイシオが確認するように問い質す。
「それは口説いているのか?」
「……そうだよ」
震える片手はカウンターの下に隠して強がった。虚勢を張るのだけは一人前なのだから。今ここで発揮しないでどうする。
「僕が君の手に転がり落ちれば、君は余計な思考に囚われずに済むんだろう。知識の追求に没頭できる。いつも通りのベリタス・レイシオだ」
「……翌朝、君は姿を消しているのか?」
じっと瞳を覗き込んで、こちらの気持ちを見透かそうとしているみたいだ。信用がないなあと笑った。
「正面それも考えたけど。でも目の前からいなくなったらまた君の頭を占有しちゃうだろ? 気分はいいけど、それじゃあ僕が転がり損だからね。ふたりで窓からの景色を眺めてみたいんだ」
今までひとりで見ていた風景をふたりで見るようになる。ただそれだけのことに惹かれた。
それが今まで通りにつまらないものだったとしても、つまらないと思うことを受け止めてくれる。隣から聞こえてくる本のページをめくる音を思い出して、ひとりで抱えなくてもいい安心が、ほんの一瞬だけ恐怖を上回ってしまった。
逃がさないように握っていた腕がくるりと翻って、同じように掴んできた。大きな手が細い手首に指を余らせている。
「僕を口説き落としたことを後悔するなよ」
「ははっ、バスルームひとつで口説けるなんて教授はチョロいなぁ」
軽口を返せば「さっさと案内しろ」と腕を引かれた。
守りたいからこそ遠ざけたくて仕方ないこの腕が掴んで離さないでいてくれることに笑みが零れる。できるだけ近寄らないでいてほしいのに、目の前にいることに安心する。胸が高鳴るようなことはないが、独占できることに優越感を覚える。ひどく安心して、とても恐ろしい。矛盾だらけだ。
「恋愛って厄介だね、レイシオ」
「ああ、全くだ」
合わせてくれない歩幅に追いついて、指を絡めて手を握った。
せめて明日の朝日をふたりで眺めるまでは、宇宙が平和でありますように。