リップバームの続きの宿鹿.
キスはセックスを始める合図に過ぎない。
ただ唇を重ねるなんて生易しい感触は一瞬で、次の瞬間には嚙み付くように口を塞がれ、長くて厚い舌を内側へねじ込まれたと思えば、息継ぎの隙間さえ見つからないまま咥内を蹂躙される。酸欠の苦しさ、肉に食い込む犬歯の痛み。それらに勝る、性的な興奮。
もちろん、一方的にやられてばかりは性に合わず、こっちの粘膜を舐って遊ぶ舌に歯を立ててやることもある。すると、機嫌を損ねるどころか楽しそうに喉を鳴らした宿儺は、さらに奥へと舌を挿入してくるのだ。
高めて、煽って、より深い悦楽へと溺れていく為の行為。
自分たちのキスにこもっているのは肉欲だけで、感情なんてこもっていない。
──はずだったのだが。
鹿紫雲がふと目を覚ました時、部屋の中はまだ薄暗かった。
ベッドボードを手探ってスマホを見ると、休日の朝にしては起きるには幾分か早い。
今日は特に予定も入れていないから、長い二度寝を決め込んでやろう。そう思い包まっていた布団の中で寝がえりを打った鹿紫雲は、口から零れかけた声を咄嗟に飲み込んだ。
シングルを二つ連結させたベッドは男二人が寝ても十分な広さがある。にもかかわらず宿儺の顔がやたらと近くにあった。
確かに昨晩もしたのだから、普通に眠りについた時より中心に寄っていたとしてもおかしくはないだろう。実際、昨晩最後の絶頂を迎えたあと、鹿紫雲はしばらく間ベッドの真ん中で動けずにいたのだ。
とはいえ、それにしても近すぎる。仰向けの宿儺の向こう側はまだ余裕があり、鹿紫雲が宿儺のテリトリーを盛大に侵食しているわけではない。
そもそも宿儺という男は、鹿紫雲が自分のスペースを占領していたら、それが例え何度もイかされて指一本動かせないような時でも、特に気にも止めず自分のスペースを確保する為に人を端へ追いやるような奴、のはずだった。
──最近、宿儺の様子が何だかおかしい。
まず、今みたいに妙に距離を縮めてくることが増えた。
リビングでもキッチンでも、それこそ休日に出掛けた時でも。肩を抱いたり、腰を引き寄せたり、稀に手を繋いできたり。
最初は戸惑う自分の反応を楽しんでいるのかと思ったが、どうやら宿儺の中でその意図はなく己がしたいから行動しているだけのようで、鹿紫雲としても対処に困った。
次に、何でもない時にキスをしてくるようになった。
しかも、ただ唇を重ねるだけではない。まず最初に、大きな手のひらで鹿紫雲の頭を撫で、一見無骨な指先で所々絡んでいる髪を丁寧に梳き、さして丸みもない頬をムニムニと揉む。それから、鹿紫雲の唇へ自分の唇をそっと重ねてくるのだ。
肉欲を引き出すものではない、静かで、穏やかな口付け。しばらくすると、ただ表面に触れていた宿儺の唇が薄く開き、軽く結んでいる鹿紫雲の唇をやんわりと喰む。一般的に甘噛みと呼称されるものだが、噛むという言葉が入っているわりに痛みなんて一切ない。まるで柔らかな菓子でも味わうかのように、鹿紫雲の唇を何度も挟み、軽く吸って、再び己の唇を押し当ててくる。
その感覚を受け入れている時、鹿紫雲の頭に浮かぶのは少し前に宿儺がリップバームを買ってきたことだった。
流石ハイブランドだけあって、見た目だけでなく中身自体も良いものであることは、日用品にこだわりのない鹿紫雲でも十分に理解できた。
今までかいだことのない甘くて少し懐かしさを感じる香り。いい匂いだと、思ったままを口にした時の宿儺が随分と上機嫌な顔をしたことは印象に残っている。ただ、そのあとの宿儺の行動は不可解でならなかった。
スティックを奪われグリグリと何往復もバームを塗られたところまでは、まあまだ分からなくもない。
自分自身の手入れを欠かさない宿儺は、たまに気が向くと自分が使っている化粧水やらボディクリームやらトリートメントやらを鹿紫雲へ塗ってくる。ズボラな鹿紫雲からすれば手入れなんてどうでもいいことだ。しかし、宿儺がやると決めたことを無理やり中断すると後が面倒になるので大抵いつも大人しく従っていたし、リップバームもその一環だと思っていた。
はずなのに。
自分たちの関係が恋人かと問われれば、鹿紫雲は首を横に振る。
あくまでも自分たちを繋いでいるものは肉体関係で、それ以上のものはないと思っているからだ。
一応一緒に住んでいるし、特に予定がなければ食卓も共にするし、休日が合えば二人で出掛けることもある。
セフレにしては宿儺の生活に自分の存在が食い込み過ぎている自覚は持っていたが、宿儺から特に何も言われたことがないので鹿紫雲としては今の状況を維持できればそれでよかった。
ところがどうだろう。
重なった唇の間でバームがなめらかにとろけていく。バームの香りと宿儺自身の香りが混ざって、勝手に鹿紫雲の肺の中を満たしていく。
ただ触れ合うだけの唇の感触が、伝わってくる自然体のぬくもりが、甘いだけでない香りが、無性に心地よかった。
キスはセックスと同じ回数してきた。けれど、こんなにもゆったりと唇を合わせたことはない。この行為の意味は一体なんだろう。
そんな疑問を抱きながらも、素直に宿儺の唇を受け入れている自分も不可解だった。しかし、一番驚いたのはその前のセックスの最中に酷く抉られた唇の傷を甘噛みされた時、やけに甘ったるい声がこぼれたことだった。
気持ちよかったといえば、そうかもしれない。だが、舌も入れられないうちに初心な反応を見せてしまった自分が信じられなかった。貪られるような口付けをされた訳でもないのに、呼吸も鼓動も乱れていくことがよく分からなかった。
自ら身体を開いているくらいだ。鹿紫雲自身、宿儺に対して魅力は感じている。
常人から外れた肉体は完璧と表現できる程美しく、もう数えきれないくらい目にしているというのに、自分を組み敷く宿儺に身惚れてしまうことは未だにある。一瞥されたら大抵の人間は竦むであろう冷徹さを湛えた目元も、たまに笑ったとしても悪辣さが増すだけの口元も、論うことばかりを言うくせにやたらと耳障りの良い低音も。
反発して憎らしさを覚えるくらい惹かれていると、鹿紫雲も自覚していた。
しかし、惹かれているのはあくまでもフィジカルや見た目の話。心を通わせるなんてこと自分たちの間には不要な行為だ。
そう、思っていたのに。
最初、宿儺はただ新しい遊びを見つけただけだと思った。
宿儺という男の行動原理は、己がとことん楽しむという至ってシンプルなもの。そこに関わる感情は、良いか悪いか、愉快か不愉快かという、行動原理と同じく分かりやすいものであるはずだ。
しかし、肩を抱く手のひらも、腰を引き寄せる腕も、絡まる指先も。もちろん、重なる唇も、今までと何かが違うように感じてしまう。宿儺の行動の意味を、求めようとしてしまう。
それこそ、少し身じろいだら身体が触れてしまう距離に眠っている理由も、勝手に作ってしまいそうになる。
──様子がおかしいのは自分の方だ。
眠る宿儺の横顔を眺めていた鹿紫雲は、小さくため息をこぼして上半身を起こした。
こんなにも側で鹿紫雲が動いても、宿儺は微動だにせず規則正しく胸を上下させるだけだ。床を共にしているくらいなのだから、それだけ宿儺が自分に気を許していることは鹿紫雲も自覚している。
手入れの行き届いている薄紅色の髪へ何度か指先を通しても、恐る恐る頬を手のひらで包み込んでみても、形の良い眉は歪むどころかぴくりとも動かない。
もしかすると、きっちり結ばれた唇を指先でなぞったとしても、いつも宿儺にされるように自分の唇をそっと重ねてみたとしても。何も気付かずに眠り続けるのかもしれない。
そこまで考えたところで、鹿紫雲は自分の手を慎重に引いた。
やめておこう。これ以上余計なことをして、自分の中にある感情に当てはまる名前がもし見つかってしまったら、もっとおかしくなってしまう気がする。今でもそれなりに満足している宿儺との関係が、変わってしまうような気がする。
そう思いベッドから抜け出そうとした時。鹿紫雲の身体は柔らかなマットレスに再び沈んでいた。
「っ、!?」
反射的につぶった瞼を開くと、いまの今まで静かに眠っていたはずの宿儺がニタニタとタチの悪そうな笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。
いつから起きていたのだろうか。なんにせよ、この様子から察するに、自分の痴態が全て宿儺にバレていたことは明らかだ。羞恥で顔面が熱くなっていくのが分かる。
「随分といじらしいことをする」
「なんのことだよ」
それでも、素直に認めることはできず、唯一自由になる顔を宿儺から思い切り逸らす。しかし、宿儺が続けた言葉に鹿紫雲は目を丸くした。
「目覚めのキスでもしてくるのかと思って、大人しく待ってやっていたんたがな」
「……はあ!?」
俺の寝顔に見惚れていたのか?起きてる時にはしてこないというのに。貴様は本当に愚かだな。
てっきり、このくらいのことを流れるように言われて、今日一日ネチネチと辱めを受けると思っていた。だが、鹿紫雲が慄いても、宿儺は上機嫌に口角を上げるだけだ。
「アンタ、寝ぼけてんのか?」
「そう見えるなら、ちゃんと俺を起こしてみたらいい」
首から上しか動かせないくらいの力で人を組み敷いているのだから、誰がどう見ても起きている。何をふざけたことを言っているのだろう。
しかし、鹿紫雲は宿儺の言葉の意味に気が付いていた。
痛いくらいに捕まれていた手首が自由になる。心なしか宿儺の顔が近付いてきたが、一定の所で止まってしまう。
いつもならこちらの承諾も得ずに触れてくるというのに、今はこちらから動くのをわざわざ待っているなんて。どこまで嫌な男だ。
けれど、そんな男に触れたいと思ってしまう自分の愚かさに、鹿紫雲は小さく舌打ちをした。
鹿紫雲が宿儺の頬を両手で包み込むと、宿儺の唇が綺麗な弧を描いた。
ゆっくりと自分の方へ宿儺の顔を引き寄せる。いつもなら宿儺がキスしようと距離を詰めてきたところで自然と瞼を下ろしていたが、今は先に目を閉じるのはなんだか癪だと、鹿紫雲は深紅の瞳を睨みつけるようにじっと見つめ続けた。
宿儺がようやく瞼を下ろしたのは鼻先が触れ合った頃合いで、くだらない睨み合いに仕方なく折れてやるといったように細まった切れ長の瞳が、無性に腹立たしくなる。それでも、ここまで来て止めるわけにもいかないと、目を閉じた鹿紫雲は手のひらにほんの少しだけ力を込めた。
自分たちの関係に、肉欲を引き出す以外の触れ合いなど必要ないと思っていた。
それがどうだろう。
ルーティン以外でお互いから唇を合わせにいくなんて。馬鹿げているはずなのに。
何の衝撃もなく唇に訪れた、柔らかな感触。寝起きのはずなのに宿儺の唇はカサついておらず、薄い皮膚はしっとりと滑らかだ。これが日々の手入れの差かと思ったが、最近は自分も宿儺が買ってきたあのバームを定期的に塗るようになったから、もしかすると似たような状態なのかもしれないと、そんなやけに冷静な自分がいることが不思議だった。
呼吸が乱れることもないからどのタイミングで唇を離せばいいか分からない。覆い被さっている宿儺も起き上がる気配を見せない。
顔を逸らせてしまえばいいとも思う。しかし、ただ静かに触れ合っているこの状況が心地良いことも。もう少し違う触れ方があることも、自分は知っているのだ。
鹿紫雲は結ばれていた宿儺の下唇をやんわりと喰んだ。歯を立てないよう、唇でゆるく甘噛む。ほんの少しだけ引っ張ってみたり、微かに吸ってみたり。
宿儺とのキスはもう覚えていないくらいしている。けれど、こんなにも慎重に、唇の厚みや弾力を確かめるようなキスをするのは初めてのことだ。
身体の奥ではなく、心の奥がじわりと熱くなる。
包み込んでいた宿儺の頬をゆっくり持ち上げた鹿紫雲は、ぼんやりとおぼつかないまま薄く瞼を開けた。見上げた先の宿儺は、ついさっきまで鹿紫雲が触れていた形の良い唇を満足げに歪めている。
「目覚めのキスにしては長かったな」
「うるせぇ……」
本当のことで何も言い返すことが出来ない。
宿儺はもう興味を無くしたのか鹿紫雲の上から退いた。のし掛かっていた重みが無くなり、解放感が訪れる。しかし、何故か物足りなくも感じて、その感覚を誤魔化すように、鹿紫雲は掛け布団を掻き集めて頭からすっぽりと包まった。
「俺は寝る!」
「ほう」
布団の向こうで宿儺がクツクツと笑っている。全てを見透かされている気がするが、今なにを言ってもきっと墓穴を掘るだけだ。
「そうか。では、俺は朝食の支度でもするとしよう。少々早いが、起こされたのだから仕方ない」
普段はわざわざそんなこと口にしないというのに。当て付けのように言い捨てた宿儺は、腹の立つ笑い声をこぼしながら寝室を出ていく。
それを聞きながら、鹿紫雲は掛け布団の中で唇をぐっ、と噛み締めた。だが、宿儺の唇の形も厚みも弾力も、まだ鮮明に残っている。
考えないようにしよう。目を逸らしておこう。
そう唱えるように、自分自身へ言い聞かせる。
しかし、本当はもう分かっていた。
心の奥を熱くさせたものの名前を、鹿紫雲は見つけてしまっていた。
それから、いつのまにか眠っていた鹿紫雲が酸欠になるくらいしつこいキスで目を覚ますことになるのは、もう少し後のことになる。