webオンリー用進捗①.
宿儺が久々に自宅マンションの扉を開けたのは日付が変わってしばらく経った頃合いだった。
基本的に規則正しい生活をおくっているが、経営者としてどうしても外せない仕事はあるものだ。前々から組み込まれていた分刻みのスケジュールにイレギュラーな案件もねじ込まねばならず、ここ数日はオフィスの仮眠室で寝泊まりする羽目になった。
とはいえ、書類の処理やアポイントの調整など業務に関することはもちろんのこと、食事や替えのスーツの手配も秘書である裏梅が筒がなく執り行い、仕事を行う上で不自由はなかった。仮眠室にしても仮眠というにはかなり質のよい環境を整えてあるし、そもそも常人離れした体力を持っている宿儺としては多少睡眠時間が削られようが大きな問題にはならない。
それでも、愛用しているルームフレグランスと自宅が持つ特有の匂いというべき香りの混ざったものが鼻腔を抜けた時、家へ帰ってきたのだと全身が認識したのか珍しく宿儺の口から小さなため息がこぼれていた。
どうやら自分で思っていたよりも疲弊していたようだ。このままベッドへ入りたい衝動を抑えた宿儺は、足早に浴室へと向かいさっさとシャワーを浴びた。この時間まで起きていると若干の空腹を感じるものだが、今は食欲よりも睡眠欲が優勢だ。ひとまず炭酸水で誤魔化すことにした宿儺は冷えた炭酸水のボトルを片手に寝室へと向かった。
遮光カーテンがぴっちり閉じられた寝室では、いくら夜目が効く宿儺でも目を凝らさなければならない。だが、キングサイズベッドの右半分のスペースがこんもりと膨らんでいる光景は、視覚ではっきり確認せずとも容易に想像できる。入口から遠いベッドの左側に腰掛けると、案の定ベッドの左半分のスペースはきっちり空いていた。
右半分のスペースで眠る同居人とはそれなりの付き合いになる。きっかけは宿儺が個人名義で出資している企業のレセプションパーティー。長年取り組んでいたプロジェクトの突破口を開いた研究員として、取締役から直々に紹介を受けた時のことだ。まだ中堅にも達していない若造ではあったが、大口の出資者である宿儺に対して臆することも媚びることもなく、ただ真っ直ぐに宿儺を見つめてくる翡翠色の瞳は単純に物珍しかった。パーティー後の呼び出しにも応じたのは取締役からの圧があったからか自身の意思かは宿儺の知るところではないが、初めてのわりに身体の具合はなかなか良く、同性に組み敷かれながら知らない快感を必死に理解しようとしている姿はそれなりに情欲を掻き立てるものだった。ことが終わり、ぼんやりと天井を見上げる男へ気まぐれにプロジェクトに関する疑問を投げかけてみたのだが、さっきまでの呆けた様子は一瞬にして消え去り、爛々と目を輝かせながら研究内容について説明し始めた光景は予想外に愉快だった。
それから、適当な時に男を呼び出せる条件の元に出資額を増やし、いちいち連絡するのも面倒だからと宿儺の自宅に住まわせるようになるまで然程時間はかからなかった。
今まで特定の相手を作らなかったわけではない。毎回他を探す手間を考えると身体の相性が合う相手をキープしておく方が効率がいいからだ。
宿儺は相手に求める条件については必ず最初に提示する。その時は宿儺の条件を了承するものだが、どうも時間や回数を重ねるに連れて提示した条件外の部分まで手を伸ばそうとしてくる人間が多く、その度に関係を切ってきた。
その分、この男は最初も今も一定のところできっちり線を引いている。宿儺に多くを求めず、かといって控え過ぎることもなく、自分の主張を通そうと強気に出てくることもある。図々しいければ面倒で、従順なだけでは面白くない。宿儺が好む範囲の中で自由に生きているこの男は、側に置いておくにはちょうど良かった。
宿儺は右側がこんもりと膨らんだ掛け布団の中へ身体を滑らせた。横向きじゃねぇと寝にくい。と子供のように丸まって眠る男の身体へ後ろから腕を伸ばす。上背もあり研究職の割に身体は鍛えているようで、規格外れの体格である宿儺が覆い被さっても潰れてしまう心配はない。むしろ、腕が余り過ぎないサイズ感に弾力のある肉体の感触、宿儺が愛用しているボディクリームの香りを纏っているところに思わず口角が上がった。
一人でも問題なく生きていけると、宿儺は常々思っている。ただ、愉快なものを見つけそれと日々を過ごしているうち、『愉快な』ものから『心良い』ものへと認識が変化していた。
全ては自分の欲求を満たすため。それ以上でもそれ以下でも何もない。
この男を──鹿紫雲を側に置くことなど。
ただ、鹿紫雲を踏み込ませてもいいと思う範囲がどうにも広がっているように感じる。一人でも何も問題はないが、鹿紫雲を側に置いているとより快いというわけなのだろう。
宿儺が自分の中にあるこの感覚に気がついてから、まだ日は浅い。己の変化についてもう少し理解を深めておいた方が今後に活かせるというものだが、今の最優先事項は探求よりも睡眠だ。まあ、こいつを手放す予定はしばらくないからゆっくりでいいだろう。
間抜けな顔をして眠る鹿紫雲を今一度強く抱き竦めた宿儺は、自身も眠りの世界へと落ちていくために思考を止めることにした。