その9 喫茶店での一件から、5日が経つ。
イッカンには、バイトや他のバンドの助っ人や依頼がある。イチヤは引っ越しの片付けや通信学校の入学式があり、スケジュールが合わなかった。
時間は過ぎ、太陽を誘うように空に赤みが差し始めた頃。
大通りから細い路地へと入り、また大通りへ、とイチヤは興味の赴くままに、趣味の散歩を楽しんでいた。
路地裏に貼られたスメーシーワールドの古びたポスター。
〈ソ〉が〈ン〉になってしまっているガソリンスタンドの掠れた案内看板。
ナワバリバトルを独自の感性で捉えた、と説明文が添えられた流線型のインクが交わるウォールアート。
アスファルトの割れ目から顔を出す小さな白い蕾。
骨董屋の窓際に飾られ、街灯に照らされるジャッチ君の古い陶器の人形。
すれ違うヒトは指折り数える程だ。まだ町は眠っている。
少し離れた場所に見えるイカスツリーのオオデンチナマズは相変わらず……
「ん?」
イチヤはふと足を止め、周りを見回した。
大通りから一本逸れた道を歩いていたつもりだったが、気づけばハイカラシティのかなり奥まで来てしまっていた。24時間煌めく広場と違い、彼が今いるのは住宅街だ。古くからの道は迷路のように入り組み、似たデザインの家が建ち並び、所々に行き止まりがある。
興味のあるものだけ視界に入れていたイチヤは、帰り道を覚え忘れ、迷子になっていた。
「どうしよ……」
途方に暮れながら歩いていたイチヤは、ブランコと滑り台だけの小さな公園を見つける。
ピンク色のペンキが剥がれかけたベンチに座り、狭い空を見上げた。
携帯端末は持っていない。ハイカラシティの観光マップも持っていない。無暗に歩き回っては、余計に迷ってしまいそうだ。
何か良い手は。
「あっ!」
イチヤはある事を思い出し、周囲を見渡すと、公園の隣に設置された電話ボックスを見つける。急いで中へ入り、ポケットから青い財布を取り出すと、緑色の公衆電話へと硬貨を入れる。
ボタンを押し、ある電話番号を入力する。
きちんと電話番号と押された数字が合致すると、受話器からプルルルッと呼出音が聞こえ始める。
心の中で〈出てくれ〉とイチヤは強く、強く念じた。
呼出音が繰り返し、5回目を迎えた時、
『……はい』
受話器から、寝起きのやや枯れた籠り声が聞こえて来た。
「イッカン!! おはよう!」
元気よく挨拶をすると、寝起きの相手は大きなため息を吐くのが聞こえた。
『…………今、5時40分だぞ』
「ごめん。散歩してたら、迷子になってさ。助けて」
『はぁあああ?』
力のない籠り声は、まるでクレッシェンドが掛かったかのように一気に聞き取りやすくなった。
『ジジイみたいに早い時間から外出て、なにバカやってんだ!』
「や、やっぱり朝の散歩は、気持ちいいからさ!」
『こっちに来て日が浅い奴が何言ってんだ。慣れないうちは来た道を覚えるなりしとけアホ』
「はい……ごもっともです」
反論したが正論で殴られたイチヤに対して、電話越しにイッカンは再びため息を着いた。
『それで? おまえは今どこの辺りにいるんだ?』
「え? 来てくれるんだ?」
『何かあったら危ないだろ』
インクリングとして独り立ちは出来るが、総合的に見ればイチヤはまだ保護対象の年齢だ。バンカラ街ほどではなくとも、ハイカラシティにも治安が悪い場所が存在する。イチヤの場合、住んでいた環境もあり危険回避能力は高そうだが、迷子となっては不安が過る。
『それに、朝っぱらから呼び出してきたんだ。朝飯奢れ』
「一言余計だ……」
『あ?』
「な、何でもない! 金持ってるから、お礼に奢る!!」
威圧感のある声を返され、イチヤは慌てて言った。
そうしてイチヤは目印になりそうな建物や看板、イカスツリーの大きさとオオデンチナマズの向きなど、手当たり次第にイッカンに伝え、電話は終わった。
難を逃れたと安堵しつつイチヤは、ベンチに座って迎えを待った。
空は赤から白、青へ徐々に変化を始める。影は光と大きく分かれ、小鳥たちの話し声が増えると共に、新聞がポストへと投函される音が耳に届く。
町が目覚めを迎える。
太陽の日差しが小さな公園を照らす。気持ちの良い温かさに、気を緩ませているイチヤはウトウトと眠気に誘われた。
「おい」
「いてっ」
頭を小突かれ、イチヤは顔を上げる。
呆れた顔でこちらを見下げるイッカンが立っていた。
「助けてとか言っておいて、寝るな」
「んー、ごめん」
大きく伸びをしたイチヤは、ベンチから立ち上がった。
「一体どうやったら、ここまで来れるんだよ。さっさ飯食いに行くぞ」
携帯端末から位置情報を確認しながらイッカンは歩き出し、イチヤはそれについて行った。
「今の時間に開いてる店ってある?」
「ファミレスとか、でかいチェーン店開いてるだろ」
「えー……ああいう所って、パン系のメニューあんまりないじゃん。もっと別の場所が良い」
「なんで迷子になったやつが我儘言ってんだよ」
2人は他愛ない会話を重ねながら、住宅街を抜け、ハイカラシティ広場へと続く大通りへと出た。
↓ 没になったシーンの供養です。没の理由は、イチヤを中心にした視点を増やしたいと思ったからです。
整理されてはいるが生活感の滲み出る部屋の中。目覚ましのアラームではない音が、携帯端末から聞こえてくる。
こんな時間だから、いたずらか、間違い電話だろう。直ぐに鳴り止む。
ベッドの中でぼんやりと思っていたイッカンだったが、一向に音は鳴りやむ気配はない。音は頭を叩くように響き、無理にでも眠りから引きずり出される。
「誰だよ……クソが……」
殺意に近い何かを吐き出し、イッカンは着信を拒否した。
しかし、直ぐにまた着信が来る。
もう一回やっても、結果は同じ。電話の相手が、知り合いの誰かであるのは確定した。
「……はい。もしもし」
『イッカン。おはよう!』
元気溌溂の聞き覚えのある高めの声に、寝起きのイッカンの朧気な意識は、苛立ちと呆れが混じり合うが、それを眠気が蓋をしようとする。
カーテンの隙間から零れる日差しはまだ弱い。カラーボックスの上に無造作に置かれたデジタルの置時計を見ると、時刻は5時40分だった。
「こんな早くに何だよ」
無理に起こされた怒りをぶつける程の気力は無く、欠伸交じりに訊いた。
『散歩してたら、迷子になった。助けて』
「はああああぁ?」
驚きのあまり、イッカンの意識は覚醒した。
「慣れない土地でなにやってんだ」
『面目なーい』
力のない声が返って来て、イッカンはため息をついた。