その7 ビルの間を抜け、網目の様な細道を通る。イッカンの道案内で10分ほど歩くと、目的の場所へと到着した。
隠れ家のような佇まいの喫茶店。古びた看板には〈show you〉と書かれている。
レンガ調の外観に重厚感のある玄関扉の上には、年季を感じさせる赤い庇が取り付けられ、プランターに植えられた白い花が見ごろを迎えている。
「ここは?」
「昼間は喫茶で、夜間はジャズバーを経営している。俺のバイト先の1つだ」
「へぇー」
お洒落でいながら歴史を感じる趣のある佇まいに見惚れていると、イッカンは何食わぬ顔で喫茶店へ入って行く。その後ろをイチヤは慌てて付いて行った。
カラン、とドアベルが鳴る。
「おや。出勤日じゃないのに、どうしたんだい?」
レコードのジャズが流れる店内。カウンターでコーヒーカップを磨いていた年老いたイカが、イッカンへと話しかける。
額縁に入ったジャズのポスターが飾られた黄土色の壁、天井から吊り下げられた暖色光のライト。フローリングの床は毎日丁寧に掃除されているのか、ライトに光を反射する程に綺麗だ。カウンターの後ろには、コーヒーカップだけでなく、何百枚ものレコードが収められた棚が壁一面に並んでいる。
出入りの扉横の壁に掛けられた掲示板には、店で開催されるジャズや歌謡ポップスなどのライブポスターが貼られている。年齢層が高いと思いきや、案内の中には20代の若いロックバンドのライブポスターもあった。
「こいつが演奏聞いて欲しいって言うので、奥の控室を使わせて貰いたくて来ました」
「こんにちは」
イッカンの後ろから顔を出したイチヤは、店主へ挨拶をした。
「はい、こんにちは。イッカン君の弟かい?」
「違います」
「バンドメンバーのイチヤです!」
「勝手に仲間内にするな!」
「あとちょっとで成るんだから、変わりないだろ!」
「変わる!」
じゃれ合いの様に喧嘩をする2人を見て、店主は微笑ましく思った。
「夕方までステージ使っても良いよ」
「えっ、いいんですか」
「今日はライブの日だから、常連はそっち目当てで来ていないんだ。だから、かなり空いててね。暇なんだ」
年季の入った重厚な椅子とテーブルが並ぶ広い店内には、全く客がいない。裏通りに面し、知る人ぞ知る喫茶店であるここは、一見さんはあまり来ないのだ。
「ありがとうございます」
「お客さん来たら、呼んでね」
「わかりました」
穏やかな声で店主のイカはそう言い、店の裏へと入って行った。
カウンターへと入って行ったイッカンは、店内に流れる音楽を止める。
「ステージはこっちだ」
彼が歩いて行った店内の奥には、グランドピアノが置かれた開けた場所がある。ここだけは壁にステージカーテンが掛けられ、天井にはスポットライトが取り付けられている。
「演奏の準備してくれ」
「うん」
イッカンは壁際に置かれているギターアンプの位置を僅かに動かし、その隣に置いてあった譜面台をステージまで持って来る。イチヤはエレキギターをケースから取り出し、ストラップを肩へと掛けた。
「準備完了!」
「は? アンプに繋いで、チューニングしろよ」
「アンプ? チューニング? なにそれ」
明らかに分かっていない様子のイチヤに、イッカンは嫌な予感がした。
「エレキギター弾く癖に、知らないのか……?」
パッと見たところ、エレキギターの手入れは出来ている。弦も交換できていそうだ。それなのに、演奏の前に行う準備を何も知らない。
嘘を言っている様には見えず、イッカンは説明する事にした。
「アンプは、音の変換や増幅をさせる機械だ。演奏するだけでは小さくて聞き取りにくい音も、アンプを通してならはっきりと聞こえる。エレキギターなら、本来の音を引き出してくれるんだ」
「チューニングは?」
「音を調律することだ。湿度や気温によって、太さの違う弦はそれぞれ音程が少しずつ変わる。6本の弦の音を合わせないと、雑音だらけで、綺麗な音楽はできないんだ」
「へぇー?」
理解できていないのがまる分かりで、イッカンは苛立ったが、いちいち怒っていては埒が明かないと自分に言い聞かせる。
「ちょっと待ってろ。舞台裏に道具あるから」
イッカンがため息を着きつつ、舞台の後ろカーテンを捲り、隠れた扉を開けて中へと入った。中は控室兼練習部屋だ。ライブ前の演奏家たちが最後の調整を行うために使われている。防音設備が整っているので、イッカンはここを使わせてもらう予定だった。
棚に置いてあるアンプとギターを繋ぐシールド・コードとチューナーを持って、イッカンは店内へ戻った。
「まず、このコードをおまえのギターとアンプに繋ぐ。場所は……」
エレキギターのアウトプット・ジャック、アンプのインプット・ジャックにコードのプラグを繋ぐ。そして、アンプに電源を入れた。
「隣に置いてあるのも、同じアンプ?」
イチヤのエレキギターと繋がっているアンプの隣には、二つ電源スイッチがあるアンプが置かれている。
「こっちは真空管が入ってる。曲のジャンルやミュージシャンの好みで、使い分けてる。これまで説明すると長くなるから、今度楽器屋に行って聞け」
「わかった」
「アンプは、このつまみで音域をどれくらい出すか、削るかを調整する」
「う、うーん?」
「おまえの場合、まずはチューニングやって、アンプを通してどう音が出るか知ってからだ」
高、中、低の音域、エフェクトの有無、スピーカーから聞こえる音量の調整とつまみにはそれぞれの効果がある。こればかりは、説明したところでは分からない。実際に音を聞き、アンプのつまみを弄って、ようやく理解できるものだ。
「まず、これをヘッドに取り付けろ。それから電源を入れて……」
手の平に収まる程の小さな長方形の機械をイチヤへと渡し、イッカンはチューニングのやり方を教えた。
こちらの方法はアンプに比べれば単純だ。音が低ければエレキギターのペグを絞め、高ければ緩め、一本一本の弦の最適な音になるまで調律を行う。
一回やり方を教えるとイチヤはすぐに理解した様子で、チューナーの画面に映し出されるメーターの針の見ながら、調律を始めた。
アンプを通して聞く音の違いに戸惑いながらも、真剣に取り組む姿勢は、確かに音楽が好きなのだとイッカンは思った。
そして、
「だから、毎日音が違うのかぁ」
なんとかアンプの調整とチューニングを終えた。
「その違いを直そうとは思わなかったのか?」
「全然! プロは技術で、なんとかしてると思ってた!」
「んなわけねーだろ……」
無知さに呆れはするが、音楽に真剣な分、飲み込みは早い。
妥協点だとイッカンは思う。
「それじゃ、曲を聴かせてもらうか。楽譜は?」
「俺は楽譜読めないし、書けないよ」
「はぁ……?」
イチヤに不思議そうな顔をされ、さらにイッカンは驚いた。
アンプやチューニングは、まだ初心者であり得る話と思えるが、楽譜は論外がすぎる。
「おまえ、中学の音楽の成績は?」
「5段階の内で2」
「テ、テストは?」
「んー……赤点回避?」
「最後まで?」
「うん」
「……ちょっと待ってろ」
イッカンは、喫茶店のバックヤードからメモ帳とボールペンを持って来ると、ト音記号などを音楽初心者向けの記号を書いた。
「試させてくれ。これは、何て読むんだ?」
「これは……」
結果、10問中9問正解。正解の一問は音楽知識からではなく、SNSのタグ表記で使用されている〈♯〉である。
絶句し、イッカンは頭を抱えたくなった。
座学は駄目でも楽器演奏は出来るから、温情の〈2〉
学校の授業で教わる音楽が古臭いものばかりで、学ぶ気が起きない。そこはイッカンも学生時代に思った事があるので、理解はできる。しかしイチヤの場合は基礎知識どころか、音楽の初歩の初歩、小学生や幼稚園レベルが分からない。
「……ここまで来たんだ。聴かせろ」
これは、危ないのでは? 本当にこいつ曲を作ったのか?
一瞬そう思ったが、ここまで来て聴かないのは駄目だ、とイッカンは踏み止まった。