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    tsuyuirium

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    tsuyuirium

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    きょうじさんを驚かせてしまうさとみくんのお話です。

    マウスウォッシュ飲んだやん 水の流れる音がする。玄関扉を開けば自分を迎え入れてくれる、おかえりといういつもの声は、どうやら洗面所から聞こえるようだった。
     そのまま声のするほうへ、荷物も下ろさないままに向かう。いつのまにか水音は止まっていてしばし静寂に包まれた。薄暗い廊下をその先の明かりを目指して歩いていく。リビングよりも眩いLEDの光にまで辿り着けば、鏡の前で歯を磨く狂児と目が合った。
    「ほはえり」
    「ただいま」
     さっきはお互いに顔を見て言えなかったやりとりをもう一度繰り返す。鏡越しではなく、律儀にこちらを振り返って挨拶をしてくれたことに口角がゆるくあがるのが分かった。
     手洗いとうがいのため、狂児の隣に肩を並べれば彼は大人しく右に半歩ずれて洗面台の所有権を半分こちらに明け渡してくれる。蛇口を回せば再び水の流れる音が室内に響き渡り、そこに加えて狂児が歯を磨く音もやけにリズミカルに聞こえる。
     さて、ここからどう切り出したものか。手洗いを終えてうがいのために冷たい水を口に含めば、思考も少し冷えていくような心地がした。
     鏡越しに狂児を盗み見ると、いつのまにか取り出していたスマホを片手間に眺めながらぼーっと歯を磨き続けている。表情からして完全にオフモードに入っているらしい。目には見ているのかいないのか、よく分からない画面が煌々と輝き、狂児が持ち合わせることのないハイライトを瞳に与えていた。
     よくゆすいだ口を拭って、帰宅後のルーティンをまず一つ、こなしたことに一息つく。肩に背負ったままだったバックパックのことを思い出して、狂児が何も気づいていませんようにと胸の内で手を合わせた。
     再び洗面台を明け渡すと、狂児はすぐにその小さな領地に戻ってくる。背中をかがめて先ほどの自分と同じようにして、口をゆすいでいる様を少しだけ見届けて、やはり今がタイミングだと心を決めた。
     そうと決まれば。気が変わらないうちに実行にうつすのみ。すぐにまた廊下に出て、ぱたぱたといつもより響かない自分の足音を怪訝に思えばスリッパを履き忘れていたことも思い出した。逸る気持ちがそのまま足取りにも現れている、自分の単純さがうらめしい。こんなんやったら一生隠し事なんかうまいこといかん。誰もいないリビングまで引き下がり、そこでようやく背中の鞄をおろすことができた。
     開け口のファスナーに手をかけたところで、無意識に呼吸も止まっていたことに気がついた。その時まるで計っていたかのようなタイミングで、洗面室のほうから狂児の間延びした声が聞こえてくる。吐き出そうとしていたはずの息を飲み込むと、その反動で口から色々と飛び出しそうになった。
    「ご飯残ってんでー。よかったら食べー」
    「う、ん。ありがとう」
     声が裏返ってはいないだろうか。少し気になったけれど聞こえる狂児の声は相変わらずで、気取られてはいないと思いたい。
     思いたいけれど、どうせもう今から数分後には決着する顛末でもある。そう思って息を吸えば、縮こまっていた肩甲骨がゆるやかに収縮して酸素が巡り、冷えていた指先に熱が巡り出す。右手と左手、どちらもの指を閉じたり開いたりを繰り返して、もう一度心が整うのを待つ。ぎゅっと握り込んだ爪先が食い込んで、手のひらは色をなくしていく。限界まで力を込めてから、ふっと指先を解けば徐々に血の色が戻りだす。全て元通りになれば、準備は整った。
    「ん、どしたん。ご飯ええの」
    「や、食べますけど」
     用が済んでいなくなったはずの自分が戻ってきたことを、今度は鏡越しに狂児はいたって普通に不思議そうな様子で尋ねてきた。すっかり歯は磨き終えてしまったようで、最終のマウスウォッシュの段階に入り始めている。
     相変わらず身だしなみに余念がなく、隙がない。生来の真面目な気質なのだろうと思わせる几帳面さだった。
     ただこの瞬間において、つけいる隙がないというのは、どうにも困ってしまった。これからしようとしているのはいわゆるサプライズだった。喜んでくれることを期待している。そうでなくても、自分がしたいと思えばこそこうして今日まで準備をしてきた。平素から中々隙などなかったなと、今になって思い至った自分の見通しの甘さにもまた、うらめしさが一つ募る。
     そうは言っても仕方ない。やるしかないのだ。手は塞がっているため己の頬を叩くことはできないが、からだを前に進めるために大きく息を吸う。
     こちらに向いている背中に額と胸がくっついてしまうほどに、それはいつかの駅前での夜をフラッシュバックさせるには十分な、というか全く同じ行動を今日ここで繰り返す。
     そう思うと懐かしいような楽しいような、妙な気持ちが湧き上がってきた。狂児の顔は今もあの時も見ることはできないけれど、もしかして同じ顔をしているだろうか。狂児は何も喋らない。喋れないというのが正しいかもしれない。背後をとる直前にマウスウォッシュを口に含むのを見ていた。
     ひょっとするとこれはまたとない好機ではないか。普段うるさい減らず口がこうして封じられている今、余計な茶々が入る前にさっさとやってしまおう。
     洗面台に置かれていたはずの左手を探す。脇腹をすり抜けて袖口を見つければ、逃げられないようにまずはぎゅっと握り返す。
     狂児は微動だにせず、何にも抗うことはなくこちらのなすがままに動いてくれる。探るように指先を忍ばせて、手首のくびれたところを目指せば骨ばったそこはすぐに見つかった。
     本当は後ろから何も見ないでできればよかったのに。そこまでのスマートさがまだ身についてない自分を笑うことは狂児がしなくても、自身が一番気に入らなかった。横道にそれたところで一人もやもやを募らせる、またよくない癖を一つ自覚したところでようやく、計画は次の段階に進む。
     背中から額を離して少し後ろに下がる。左手は引いたまま、ゆっくりと狂児のからだを反回転させて、今度は互いが正面を向くような形に落ち着ける。
     脈をとるように手首を握っていた手を離す。もう一方の手に握っていたもの。狂児へのプレゼントとして、準備していたオーダーメイドの腕時計を、ゆっくりと左手にとり着けた。
     昔に彼が着けていたものよりもよっぽど釣り合わない自覚はある。それでも今、自分に用意できる精一杯で思いついたものが腕時計だった。とんでもない衝動でやらかしてしまった過去の自分の行いを思うと、変わらず顔から火が出そうな思いがして、とたんに狂児の顔を見ることができなくなってしまった。
    「そんなに、たいしたもんではないですが」
     プレゼントです。そう言って渡してしまえた腕時計は思った通り、狂児によく似合っていた。そう思ったから渡したいと思ったし、事実自分の目にはよく似合っているように、見えるけれど。例えばスーツを纏った時には果たしてどうだろうかと思うと急に自信がなくなってきた。顔を上げる勇気がどうにも出ない。あんなに熱かったのも今となっては、すっかり冷め切ってしまって震えを覚えるほどだった。
     仕方がなく喋れない狂児に縋ることもできず、ただどうしたらいいのか分からなくて待ち続けていたが。きっかけは唐突に、それでも定められていたように訪れる。はっきりと耳に届くほどの大きさで、狂児の喉がごくりと鳴った。その音が意味するのはすなわち。
    「え、ちょ、の、飲んだ!?」
    「嬉しくて吐きそう……」
    「絶対ちゃうと思う。マウスウォッシュ飲んだからやと思う」
    「なあめっちゃキスしたい。キスしていい?」
    「マウスウォッシュ吐いてからのが良くない?」
     そんなんなんでもええねん。そう言われてしまえばこちらに拒否権など存在しないのだ。いつのまにか狂児の右腕が腰に回されて二人の間にあったはずの距離は消滅し、左手は下から這ってきて、喉元を通り抜けたかと思うと顎の下を掬い上げ、かっちりと顔の向きを固定されてしまった。否が応でも、よそを向くことが許されない状況に追い込まれる。
     鼻先を掠めるスペアミントの香りが馬鹿みたいに爽やかなことが、今からされるであろう行為を却って主張するようで全く落ち着かない。目を閉じることもままならないでいると、あげたばかりの腕時計が光る狂児の左手が視界をかすめた。やっぱり、そこにあるのがよく似合っていた。
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    tsuyuirium

    DONE大学三年生になって長期休みにまなちゃんと二人で京都旅行にきた聡実くんのお話です。
    まなちゃんのキャラクター造形を大幅に脚色しております(留学していた・そこで出会った彼女がいる)ので、抵抗がある方は閲覧をお控えください。
    狂児さんは名前だけしか出てきませんが、聡実くんとはご飯を食べるだけ以上の関係ではある設定です。
    とつくにの密話「おーかーぴ、こっちむーいて」
     歌うように弾む声で、呼ばれた自分の名前に顔を上げれば、スマホを構えたまなちゃんと画面越しに目が合う。撮るよー、という掛け声のもと、本日何枚目かのツーショット写真の撮影がはじまる。ぎこちなさが前面に押し出されている僕とは対照的に、綺麗な笑顔をした彼女の姿を切り取ることに成功したらしい。ツーショットに満足したまなちゃんは、今度は建物の外観をおさめようとカメラを構えていた。シャッターを切り続ける彼女の横で、せっかくならばと僕も彼女の真似をして二、三枚の写真を撮ってみた。
    「そんな待たなくて入れそうでよかった〜おやつどき外して正解だった」
    「ほんまやね。ここ人気なんやろ?」
    「週末だと予約したほうが無難ぽい。あとアフタヌーンティーするなら予約はマスト」
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