海の幸 燃える炭火がちりちりと頬の水分を奪う。普段自宅であたっているエアコンの乾ききった温風とは性質が全く違っていた。皮膚を貫通した遠赤外線が骨まで到達して、体の奥底からじりじりと温度が上がっていくような感覚だった。
炭火を前に何をしているのかと問われれば、ただ暖をとっているわけではない。牡蠣を焼いている真っ最中だった。机上に置かれたかごに山のように盛られた牡蠣以外にも、海老に蛸、帆立に鮑、蟹の爪などが海の幸の見本市の如く、網の上で無駄な隙間なく、テトリスのように並んでいる。
焼き上がるのを待っていた。遠赤外線だけで満足している僕よりも直接に、炭火にあたる魚介類たちはもれなく全て、そこに置かれてしまえば行き着く先は誰かの腹の中になる。例えば僕とか狂児とか。
閉じていた牡蠣の殻は、熱が浸透していくにつれて徐々に口を開き始める。まるで熱さに耐えかねて、逃げ場を探しているかのように。網の上には逃げ場なんてない。殻の開いた口から、じゅわじゅわと汁が溢れ出す。内側で漂っていた水を落としてしまった牡蠣に気持ちがあるならば、どんな心地なのだろう。網目をすり抜けて垂れ落ちてしまった汁が木炭に降りかかればパチパチと、小さな爆発が生じ始めた。
「これもう良さそうやな」
網を挟んだ向かい側からぬっと腕が伸びる。突如視界に現れた、蛍光ピンクのジャンパーの袖はあまりにも異質で見慣れず思わずぎょっとした。それはなにも着ている狂児の趣味ではない。どうやらこの牡蠣小屋という場所においては汚れても良いように、用意されている蛍光色のジャンパーを着る必要があるらしかった。
例に倣って僕も狂児と同じく、蛍光ピンクのジャンパーを装備している。けれども僕がこのテーブルの火を扱うことはない。網の上の獲物は全て狂児が育てているからである。狂児は炭火を完全にコントロール下においていて、目の前に並ぶ食材の火の通り具合までも完璧に把握しているようだった。
狂児は焼けたと思わしき牡蠣を手に取り、てきぱきとした手捌きで次々に殻を剥いていく。開いた口からぐっとナイフを差し入れて、ぱかり、と音を立てて牡蠣はあっけなく二つに分離した。分かたれたその内側には、厳重で堅牢な殻が守っていたのは、白く輝いて皺一つない、豊満な身が隠されていた。
「これ、この汁ごと食うても上手いねんで。熱いから、気ぃつけて」
剥いた牡蠣を狂児は自らで食さずに、当たり前のようにこちらに差し出す。美味しい食べ方の説明を添えて、物事の最上をいつだって与えようとする。僕はそれを享受することに、いつまで経っても慣れない。
「ありがとうございます」
「殻で唇切らんようにね」
思いつく限りの注意点も付け加えられた牡蠣の殻を狂児から受け取る。軍手越しに受け取ってしまえば熱はあまり伝わってこない。それでも目の前に掲げた身から立ち昇る湯気が、油断は禁物と訴えかけてくる。
恐る恐る、口を寄せる。炭火で温められた殻に宿った熱が、唇の皮膚を通じて直に伝播する。熱い。生理的な反射で思わず顔を背ければ、向かいに座る狂児はだから言うたやん、とでも言いげに眉を下げる。自分だって猫舌なんやから人のこと言われへんやろ。喉から出かかった言葉はあと一歩のところで、吸い込んだ息もろとも飲み込んでしまった。香ばしい炭火とともに、目の前で海が広がっているかのような磯の香りが鼻を突き抜けて脳天を刺したからだった。
「な、なんやこれは」
「リアクション早い早い。ほら冷めてまうって」
早く早くと狂児がせっつく。僕だってもったいぶってこんなリアクションをとっているのではない。狂児の言われるがままなのは大変癪に障るけれど、今目の前の約束された最高を目の前に、もう一秒だって待てない。
口を開けて一息に、少し迷う大きさだったけれどここまで来てしまえばもう引き下がれない。なんとか全てを流し込めば、火傷しそうな熱に包まれる。身を噛み切ろうと口を動かせば、つるりとした身が舌を押し返してくる。歯を立てて噛み続けると、じわりじわりと凝縮された旨みが広がり、海の匂いが一層濃くなった。
「うまい?」
「……分からん。から、もっとください」
「フフ。レモンとかもあるで」
率直な感想だった。そもそも牡蠣をそんなに食べる機会はないし、せいぜい食べたとしてもカキフライくらいだ。こうして焼き牡蠣の形で食べるのなんて初めてで、美味しくないわけではないけれど、この味を全て理解するのには僕にはまだ色々なものが足りないような気がする。
狂児は歯切れの悪い僕の答えを聞いて、笑っていた。大体狂児は僕が何を言っても笑っているけれど、僕が何か困惑したり驚いたりしたときに、一等よく笑うのだ。
網の上に乗る牡蠣を、狂児は拾っては並べ、拾っては並べを繰り返す。焼けたものから次々と殻を剥き、中身をせっせと僕の取り皿に移していく。もっとくださいとは確かに言ったが、全てという意味ではない。
「剥いてばっかで食べないんですか」
「食べるよ~。でもこういうん好きやねん」
知ってるやろ。
知っている。焼き肉でも鍋でも、お好み焼きでもたこ焼きでも、果ては甘栗やみかんでさえ、狂児はいつもそうだから。どうしてこんなにも甲斐甲斐しい、とでも言うように振る舞うのだろう。
ぱきり、また一つ新しい牡蠣の殻が暴かれて、中身があらわになる。僕は食べやすいようにされたそれを狂児から受け取っては、何も言えずにただ食べ続けていた。
焼かれる牡蠣から汁が溢れる。木炭の上に落ちてしまうと、水分はたちまち蒸発してパチパチと弾け出す。先ほども見た覚えのある光景だった。まだまだ狂児が牡蠣を剥き続ける様をぼうっと眺めていると、それは前触れもなく、一際大きい破裂音とともに訪れた。
「うわっ爆発した」
「びっくりしたー銃声か思った」
「……おもんないです」
「アハハッ! ……ゴメンナサイ」
牡蠣が爆発した。というか牡蠣も爆発とかするんや。爆発とともに網を囲んでいた狂児のジャンパーには、牡蠣が殻の内側に溜め込んでいた汁が飛び散ったことによってまだら模様が出来上がっていた。こんな時まで、僕ではなくて狂児が選ばる。ただの偶然と言えばそれまででも、何もしない、きれいなままでいる自分にも無性に腹が立って、狂児の見様見真似で牡蠣とナイフを手に取ってみた。
狂児は物珍しい顔をして、僕の行動をただじっと見つめる。慣れないことをしている自覚はある。それに対して狂児は何を言うでもなく、何事もなかったかのように再び牡蠣を剥き続ける。ただこれまでよりも少しだけゆっくりになった手捌きで、牡蠣を剥いていた。狂児が手本を示してくれる通り、固い殻をこじ開けて、ナイフを差し込む隙間を見つけ出す。力をいれて割ってしまえば、ようやく僕にも身を取り出すことができた。
そうして取り出した身を、狂児にされたのと全く同じくして差し出す。一番いいところを、最上を、同じことを繰り返す。狂児は毒気を抜かれたような、力の抜けた顔をして差し出した牡蠣の殻と僕のことを交互に見つめていた。もう一押しが必要かと、さらに眼前に殻を突き出せば、今度は風船の空気が抜けたみたいに一気に笑い出した。そうして一頻り笑った後、狂児はようやく僕から牡蠣を受け取った。
「おいしそう。ありがとうね」
「僕のおすすめはポン酢一味がけです」