シナスタジア 真っ赤が聞こえる。あの日に鎮魂歌として捧げて以来、どんな夕焼けや体内を流れる血なんかよりも、ずっと赤い色に聞こえる。
「真っ赤や」
「え? 紅やろ」
ぽつりと溢しただけの僕の言葉を律儀に拾い上げた狂児は、至極真っ当、間違っていないツッコミを返してくる。
つけっぱなしで見ているかも分からない懐メロ特集のテレビ番組から流れているのは、狂児の十八番の紅だ。もう来世の分まで聞いたんちゃうかなと思うほど、すっかり耳に馴染んだメロディーは、もしイントロクイズで出たら誰よりも先に解答できるレベルだった。
画面の向こうでは今をときめくバンドがカバーの形で楽曲披露をしていて、あわせて隣に座る狂児も、カラオケばりの熱唱とはいかないものの口ずさんでいる。鼻にかかって掠れる高音は、ハミングで聞く程度にはあの必死な気持ち悪さからも遠く心地よい。そしてやっぱり、狂児のハミングでも今度はずっと穏やかな赤色になって僕には聞こえる。まあ、それでも僕の方が断然上手いけど。
「共感覚って知ってますか」
「共感覚ぅ? なんそれ」
わざとらしく顎に手を当て考える素振りをしたのは一瞬だけで、すぐに堪え性なく白旗をあげた。狂児はテレビに注いでいたはずの目線を外し、背中を預けていたソファの背もたれに頭まで倒してしまって、僕よりも低い位置からこちらを見上げてみせる。ねだるようなその仕草が好きだった。まるで動物が急所を曝け出すみたいに、大きな身体で信愛を伝えてくれる狂児に応えようと、傾けた額に重力にしたがって流れ落ちた前髪を梳いてやる。
「文字に色が見えたり、味とか匂いに形を感じたりみたいな。感覚いっこだけじゃなくて複数感じる人がいるらしいんですけど」
「ふーん。え、聡実くんそうなん?」
「ううん。ちゃう。ちゃうんやけど、」
紅だけは、もうずっと赤に聞こえる。
飛び出しそうな心臓。灼けるような喉の痛み。マイクを握る冷え切った指先。目に染みるたばこの煙。赤色とともにあの時の全てが鮮明に思い浮かぶ。
「そういうのも共感覚なんかなってふと思っただけです」
「へー。なんかおもろいな」
「……ほんまに分かってんかっ」
「んわわわ、やめひぇ」
腹の底が読めない返事に一人で勝手にイラついて、髪に触れていた手でそのまま狂児の鼻を摘む。気道を塞がれて出てくる間抜けな声にもまだ余裕が感じられて、完全に八つ当たりだとも分かっているが、親指と人差し指にさらに少しだけ力を込めた。
「ほんま、ほんまに」
「……ほんまに?」
「うん」
最早狂児が理解していようがいなかろうが、そこに論点は存在しない。赤くなった鼻先が目を引く、こんな時でしか見られない間抜けなツラを目の当たりにできたことに満足して手を離した。
「あんなぁ、俺もな、聡実くんの歌声初めて聞いたとき、今もやけど、キレーな青色みたいやなぁって思ってん」
「え……そうなん?」
「うん。透き通ってて爽やかで、聞いてると落ち着くかんじ」
離した手は今度は狂児によって絡め取られて、手のひらと手のひらを合わせる形で触れ合いが始まる。むず痒い。ソファに接した腰の部分から得体の知れない何かがぞわりと、頭部まで這うような感覚に支配される。もう随分と歌っていないことで久しぶりに面と向かって褒められているのだと認識すると、顔に熱が集まるのを止められない。
「青……なんで青なん」
「んー、なんかで読んだんやけど」
合わせていた手のひらがちょうど良くお互いの体温を二分しあったころ、今度は指を絡めて、狂児の大きな手は僕の拳も包み込んでしまう。
「青は遠い色なんやって」
言い終えないうちに手を包みこむ力がぎゅっと込められるのを感じる。
青は遠い色。手にすることのできない色。詩人の誰かが言っていた言葉だった。
「……たとえ僕の歌声と狂児さんの歌声とでは、そこに天と海ほどの、開きがあったとしても」
「言うやん」
「でも、僕は少なくとも手の届く範囲におりますよ」
空いているもう一つの手で、今度は僕から、こちらと同じく空いていた狂児の手を捕まえる。逃げないし、逃がさない。同じだけぎゅっと力を込めると狂児は少しだけ驚いたみたいに動きを止める。けれどそれは一瞬の逡巡にすぎなかったようで、応えるようにしてまた、狂児が握り返してくる力を感じる。
青色はきっと、聡実くんのような形をしとるんやろうな。
うっとりするような、この世の真理を見たような目で僕を見つめてそう言う狂児の言葉は、正直まるきり理解はできない。そうですね。と平時と変わらぬ調子で返事をしてしまうと、今度は狂児が口端をにやりと吊り上げた。分かってるんかと空いている脚で脇腹をまさぐってくるので、耐えきれずに僕は声が枯れるほど笑っていた。