とつくにの密話「おーかーぴ、こっちむーいて」
歌うように弾む声で、呼ばれた自分の名前に顔を上げれば、スマホを構えたまなちゃんと画面越しに目が合う。撮るよー、という掛け声のもと、本日何枚目かのツーショット写真の撮影がはじまる。ぎこちなさが前面に押し出されている僕とは対照的に、綺麗な笑顔をした彼女の姿を切り取ることに成功したらしい。ツーショットに満足したまなちゃんは、今度は建物の外観をおさめようとカメラを構えていた。シャッターを切り続ける彼女の横で、せっかくならばと僕も彼女の真似をして二、三枚の写真を撮ってみた。
「そんな待たなくて入れそうでよかった〜おやつどき外して正解だった」
「ほんまやね。ここ人気なんやろ?」
「週末だと予約したほうが無難ぽい。あとアフタヌーンティーするなら予約はマスト」
「アフタヌーンティー……なんか……あの、すごいやつ……」
「いやおじさん並みの認識でウケる」
けらけらと明るい声色で僕を笑い飛ばすまなちゃんは、やはりいつもよりもテンションが高い。というのも、今僕たちが通う東京の大学からは遠く離れた、京都に来ていることが、全くの無関係ではないはずだった。
どっか旅行行きたいな。なんてありふれた雑談から話が膨らんだのが事の始まりだった。手軽に行くなら国内、もうじき始まる大学の長期休みを利用して、等々、とんとん拍子に話が進み、そうだ、京都行こう、なんて昔に流行ったキャッチコピーよろしく行き先も決まった。じゃあ岡ピ、案内してよ。なんて出身が関西というだけの雑な括りでなされた同行の誘いを受け、この旅行に参加することになった。実際のところまなちゃんはしっかりと行きたいところをリストアップしてくれているため、僕が案内する余地は全くなくとても助かっている。
「丸山も来れたらよかったのにねー」
「繁忙期大変そうやったね」
いつも行動を共にしている丸山のことも当然誘っていた。けれどタイミング悪く、バイト先の繁忙期が重なりスケジュール調整が難しいようで、丸山は泣く泣く参加を断念せざるを得なかった。そのような経緯を経て今回この旅行は、僕とまなちゃんの二人で敢行されている。
友達と二人で旅行という、人生で初のイベントに、浮き足立っていた。彼女ほど分かりやすくテンションに現れていないのは、それはもう生来の気質によるものとしか言えず許してほしいところではある。
生まれ育った大阪と同じ関西圏とは言え、大阪とはまた違う歴史を感じる街並みは、どこを歩いても新鮮に感じる。けれど人々がエスカレーターで立ち止まるのは大阪と同じ右側だったり、聞こえてくる言葉はよく馴染んだイントネーションであったり、懐かしさを感じる部分もあった。似ているところは見つかるけれど、帰ってきたという感覚はない。旅行者としてここにいる自分の足元がずっとふわふわしているような不思議な気持ちだった。
そうして僕たちは今、京都市内は八坂神社のほど近くにある、かつて迎賓館として栄えていた建物を使用したカフェを訪れている。言わずもがなまなちゃんセレクトによるこの場所は、初めて訪れる場所だった。
重厚な石造りの建物にふさわしい、僕の身長の何倍もありそうな二本の柱が聳え立つ玄関口を目の前にして、まずその雰囲気に圧倒されてしまう。扉が開いて、招き入れられる廊下には、足元に広がる真紅の絨毯が訪れる人々を奥へ奥へと誘うように広がっていた。その上をただ歩いているだけで、まるで自分が上等な人間にでもなったような気がして妙な気分になる。
空間の雰囲気に飲み込まれてしまいそうなところを必死に、先導してくれる従業員の方を後追いしていく。落ち着かないのはまなちゃんも同じようで、先ほどからきょろきょろと首を忙しなく動かしては瞳をキラキラと輝かせている。彼女は見慣れない内装や建物の雰囲気に高揚しているらしく、場違いないたたまれなさで背中を丸めているのはどうやら僕だけのようだった。
案内された先の目的地は一つの部屋の中だった。赤い絨毯と豪華な照明に照らされていた重厚な雰囲気のロビーとは打って変わって、室内はエメラルドグリーンが鮮やかな窓枠から柔らかな外の日差しが差し込んでいる。わぁ、と隣を歩くまなちゃんから、感嘆の声が漏れ出るほどに、素敵な内装だった。
通常よりも低いテーブルとソファは、それぞれが一人で座るには持て余すほどにゆったりとくつろげるつくりをしている。腰を下ろしてしまうと、もう簡単に立ち上がるのが難しい。
「やばい、ときめきが止まらん」
はあ、とうっとりする声をあげ、忙しそうにあたりを見まわす。控えめに聞こえる周囲のおしゃべりも、ロビーから響くピアノの演奏も、何もかもが非日常の空間だった。
「ケーキもやばいって。全部おいしそうすぎる」
選べない、なんて嬉しい悲鳴をあげながら、メニューをめくる指先は軽やかだった。
「岡ピどれにする? 決めた?」
「全然まだ。えーどうしよ」
「だよねだよね。迷うよね」
さっきまであんなに内装に目を輝かせていた表情はがらりと変わり、メニューを見つめる真剣な目になっている。雰囲気に圧倒されかけていた中で、くるくると変わるまなちゃんの表情を見ていると、胸の奥がほっと緩んだような気がして息が吸いやすくなる。
「や、決めた。あたしはフランボワジェとウインナーコーヒーにする」
「ええやん。僕どうしよかな……ミルフォイユて、ミルフィーユのことやんな」
「たぶん? 気になるならいっちゃいなよ」
「ならこれにする」
息巻くまなちゃんに背中を押され、決めていた通りに注文をすませる。こちらに一礼をしてテーブルを離れるウエイターさんの振る舞い一つ一つが洗練されていて、曲がりなりにも飲食店バイトを経験している身としては、我が振りを思い出されて背筋が伸びる心地がした。
「いやー、最高ですな」
「ほんまに。なんかめっちゃ緊張する」
「あたしはテンションあがりまくり」
そう言って笑うまなちゃんの表情筋は全てが緩んでおり、嬉しくて仕方ないというのがありありと見てとれる。
「ね、ケーキきたら写真撮って」
「あ、うん。撮れるかな上手に」
「いやがんばれよ。彼女に送るんだから」
「責任重大や……」
「岡ピのはあたし撮るし」
「撮っ……ても、送らん、と思う」
「なんでよ〜」
彼氏さんも見たいんじゃないの。
にんまりと口角をあげてこちらを見て笑うまなちゃんに、普通はそういうものなのかと考えを巡らせてみる。思えば狂児とご飯を食べている時やら外で会っている時やら、何かとカメラを向けられることが多いような気がしてきた。
「あたしが撮ったのでよければ送ったげなよ」
「自分が写ってるの送りつけるのって、難易度高くない?」
「そうかな〜考えすぎないで送ればいいじゃん」
そういうものだろうか。逆の立場に立って状況を想像してみる。狂児から、狂児が写っている写真が送られてくる。ありえないシチュエーションすぎて早くも己の想像力に限界をきたし始めているが、挫けてはいけない。それを受け取ったとして、僕は。
「……そういうもんかな」
「分からんかったらやってみよー」
ゆるい実行の号令が出されたちょうどのタイミングで、注文した品々がテーブルに到着する。優雅にセッティングされていく様を眺めるために、緩んでいた体幹を伸ばして座り直せば、向かいにいるまなちゃんも同じような行動をしていた。
「岡ピ撮って撮って」
テーブルに並ぶ煌びやかなケーキと、彼女が一緒に頼んでいたウィンナーコーヒーもまた、バラの花の形をした生クリームが別添えでサーブされている。
この光景を目の前にして、構えたレンズに向けるまなちゃんの笑顔がいつもより輝いて見えるのは、きっとこの写真を届ける先の人のことが、彼女には今見えているからだろう。
*
「まなちゃんはさあ」
「ん?」
「今の彼女さんと、向こうで出会ったんやんな」
「そだよ」
「どんな人?」
「岡ピ酔った?」
「酔ってへん」
「酔ってる人間はみんなそう言うんだよな〜」
アハハ、と軽快に、いつもより大きめなボリュームの笑声は、賑わう店内の喧騒の中でもクリアに聞こえる。酔っているかと聞かれたが、事実少しのアルコールを入れて、親しい友達との気のおけない酒の席であったので、心地よい気分にはなっていた。
いつもの大学での飲みの席とは少し違う自分であることも、自覚はしている。このいやに高揚している気分には、今いる店内の雰囲気も十分に影響していた。
ティータイムの後、腹ごなしに円山公園をぐるりと散歩して時間を潰せば、徐々に日も傾いていきあっという間にディナーには頃合いの時間を迎える。ここでもまた、店はまなちゃんのセレクトでお腹を満たして、まだ長い夜を楽しむべく、僕たちはいわゆる二軒目に突入していた。
例に漏れずこの店にも、まなちゃんたっての希望で訪れている。ここは二軒目、などと野暮ったい呼称で表すことが憚られるような、洗練された店だった。
四条大橋から更に高瀬川沿いに南へ、様々な飲み屋や飲食店、クラブなども店を連ねる木屋町の一角。伝統的な町屋を思わせる造りの店が多い通りの中で、和のイメージとは対角にある煉瓦造りの壁が異国情緒を感じさせる店構えをしていた。ぽつりと灯る明かりを頼りに狭い階段を上がれば、そこにバーがあった。
店内は、まるで映画のセットのような空間だった。絞られた照明のもと、天井からは鳥籠や機械のパーツが吊り下げられていたり、壁には車輪や剥製、標本のようなものが所狭しと飾られていたりで、ファンタジー作品に紛れ込んだかのような錯覚を起こさせる。
バーテンダーは皆外国人で、よく見ると店内にいる客も外国人が多いようだった。京都ではないような、不思議な空間に本日二度目の訪れである。
運良く空いていたカウンターに通されて、気さくに声をかけてくれるバーテンダーから軽くメニューの説明を受けると、緊張も徐々に落ち着いてくる。これまでバーという空間に縁がなかったので、身構えてしまっていた。
一方でまなちゃんは、先ほどのカフェ同様に目を輝かせて意気揚々としていて、またしても肩身を狭くしていたのは僕だけだったようである。聞けば留学中にも何度か、向こうでこうしたバーにも行っていたらしい。
「……や、ごめん。言いたないんやったら、言わんでも」
「うそうそゴメン。しよしよ、そーいう話」
カクテルを何杯か、途中もちろんカメラマンになることも忘れずに、ついでにこちらの写真も撮られたりして、彼女の話を聞いているうちに自然と、そんな流れで口にした。いや、そんな流れになることを、きっとこの旅行の始めから多少は期待していた。
「てかこの旅行もさ、いつか彼女こっち来たときに行けたらなーって思ってたとこ、選んでみたんだよね」
岡ピと一緒なのに、ごめん。そう言って顔の前で手を合わせて、謝罪をする。はじめからまなちゃんの行きたいところに付き合う、という名目でもあったので、それは全く、構わないのだけれど。
「全然ええねんけど、むしろ彼女さんと来たかったとこ僕と来て良かったん?」
写真も撮って、そしてそれを送るとかも、言っていたような。お会いしたこともない彼女さんに急激に申し訳なさが沸き起こってきた。
「やそれは全然。彼女にも友達と行くって言って、いつか連れてったげるねって言ってるから」
パッと明るくなるまなちゃんの表情に、ひとまずほっと胸を撫で下ろす。下調べ旅行とでも言うべきか、いつかまなちゃんが彼女さんを完璧にアテンドするその時の、少しでも役に立てているのであれば、いいのだけれど。気がかりはもう一つあった。
「友達、って、僕と二人ってのも、その……大丈夫やった?」
持ってまわったような、奥歯にものが挟まったような、判然としない物言いしかできない己が歯がゆい。まなちゃんは一瞬だけ、きょとんとした顔をした後に、あぁ、と得心がいったように目を見開いた。
「うん。それで言うともいっこ謝んなきゃ。男の子だけど、彼氏いる子って、言っちゃった。ごめん」
手元のグラスの縁を気まずそうにもてあまして、指先が迷うように揺れていた。テーブルに置かれた蝋燭のほのかな明かりが、表れたまなちゃんの不安とまるで同調するように揺れている。
「それも別に、大丈夫。誰にでも言うてるわけちゃうけど、変に不安にさせるよりいいと思うし」
「やー、でもごめん! やっぱ事前にちゃんと岡ピに聞くべきだった! 反省します」
「むしろ気つかわせてごめん」
「岡ピ悪くないし! てか逆にそっちは大丈夫だったん? 彼氏さん」
「あぁ、うん。普段から話してる友達の子とって言って、ちゃんと分かってもらってる」
「わー、やっぱ大人だ」
まるきり嘘ではない。交友関係は包み隠さず狂児に明かしているし、まなちゃんのことも丸山のことも、バイネームで普段の会話から登場させているため狂児からしても全く知らない存在ではない。
「でも今度は自分とも旅行してって言われた」
「なにそれ可愛いな」
可愛いやって。現役女子大生に褒められてますよ、狂児さん。まなちゃんもまさか、自分のその発言が二十五も上のおじさんに届けられることになるとは思いもしていないだろう。真実を知るただ一人の僕は、おかしくなって込み上げる笑いを噛み殺した。
「でも実際さー、歳上とデートするってなったらどんな感じなの? 期待はするよね」
「うーん、確かに、ご飯とかええとこつれてってくれたりは、してるかも」
「いいじゃーん」
「ん……でも高いとこばっかじゃなくて、こっちが肩肘はらんでええようなとことか、楽でおれるとことかも全然あるし」
「そかそか。んふふ」
緩みきった声が漏れ聞こえてきたかと思えば、突如まなちゃんはカウンターに付いていた両肘を天板に放り出してしまう。そうして前のめりになりにんまりとした笑みを浮かべて、じっとこちらを覗き込んできた。
「な、なに」
「んー、岡ピの恋バナ聞けてうれしーなって」
よかったねえ。耳に届いたその言葉は、心からまなちゃんの祝福が込められたものだった。かつて友達の話、だなんて見え見えの嘘でどうしようもない相談を持ちかけていた頃が懐かしくもある。こうして今、自分のこととして彼女に話ができるようになるまで時間はかかってしまったけれど、嘘ではなく正直な言葉で伝えられるようになってよかった。
「うん……ありがとう。まなちゃん」
「え〜どしたの〜やっぱ酔ってんね岡ピってば」
「酔ってへんわ。そっちやろ酔ってるん」
「酔ってないでーす! も一杯飲も! なんかあの火出てたやつ飲んでみたい」
薄暗い照明の中でも、普段は白い彼女の頬が少し赤くなっているのがアルコールのせいではないならば、それはどうしてだろう。けれどきっとそれは僕自身にも跳ね返ってくる疑問でもあるため、何も言わないでおくことにした。
知らない土地での夜はますます更けていく。星が一つ、また一つと現れていくようにして、お互いの知らないところを少しでも多く知り合えば、きっと今日は忘れられない夜になる。何度目かの乾杯を交わして、今度は彼女の話を聞く番だった。