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    tsuyuirium

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    tsuyuirium

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    聡実くんが親子丼を食べているだけのお話です。

     なか卯の親子丼が食べたい。
     天啓のように舞い降りた欲望は、途端に信じられないスピードで増殖してあっという間に脳内を埋め尽くす。海馬に仕舞われていた記憶が蘇って、じゅん、と口内が潤うまで〇.一秒とかからなかった。
     ただの親子丼ではない。なか卯の親子丼である。
     そうと決まれば。というかもうそれしか考えられなくなれば。スマホのトークアプリを立ち上げる。近々の会話履歴を大して遡りもしないうちに目当てのトークルームを見つけ出してメッセージを打ち込む。〝今日なか卯の親子丼食べて帰ります〟
     数分もしないうちに、スマホが振動してメッセージの着信を知らせる。トークルームを開けば見慣れたOKの文字を背負う猫のスタンプと、帰りは遅くなるのかと尋ねる文面が目に入る。残業由来の衝動ではなく、純粋になか卯の親子丼の気分であることを添えて返信をすれば、今度はまた少し違う猫のスタンプで、承知の文字を背負うものが返ってきた。
     時計に目をやる。定時まではあと二時間ほど。絶対に定時で上がりたい。一秒たりとも残業はしたくない。幸い僕が勤める企業はかつてパートナーが勤めていたブラック企業とは正反対なので、定時ダッシュはそれほど難しいことではなかった。
     気を抜くときゅう、と鳴りそうになる腹をごまかすようにして深呼吸を繰り返す。再び時計をちらりと盗み見ても、長針も短針も、アハ体験ほども動いていなかった。もどかしさに漏れでそうになるため息を必死に飲み込んで、申し訳程度に首を回してみる。それでも一度根付いた煩悩は、そう簡単に消えることなく悶々と、着実に蓄えた血糖値と脂肪をすり減らしていた。
     
     *
     
     一八時。定時である。わざとらしく伸びをしてみせる隣席の同僚には目もくれず、速攻でパソコンをシャットダウンして荷物をまとめる。お疲れ様ですと挨拶もそこそこに、声をかけられる隙も与えずオフィスを飛び出すことに成功し、駆け出したくなる気持ちを抑えて駅へと向かう。職場から自宅最寄り駅まで三〇分ほど電車に揺られ、普段利用する自宅方面の駅出口とは違う方へ向かえば、今日の晩餐はもうすぐそこだった。
     自動ドアをくぐれば来客を知らせる電子音が店内に鳴り響く。遅れて奥の厨房からも人間の声で迎えられると、ようやくの訪れに胸が高鳴った。
     しかしこれからが肝要なところである。店内は夕飯時も近くそこそこ賑わっているが、席にはまだまだ余裕がある。
     観察を終え券売機に向き直り、店内での飲食を選択する。やたらとボタンの音と発券の音がデカいこの券売機にも、今となっては愛着すら湧いていた。順ぐりに、当初の計画通り寸分の狂いもなく、親子丼を選択すれば厨房にはやたらと明るい「おやこ」の声が鳴り響く。ここまで来れば、目的の九割は果たされたと言っても過言ではない。あとは気ままにセットメニューを選び、大仰な音を立てて発券された券をテーブルで待つ店員さんに手渡してしまえば、僕に残されているのはあとは待つことだけだった。
     すでに机上にセッティングされている湯呑みのお茶を一口飲む。この店の水なのかお茶なのか、判断に迷う薄さのこの謎の飲み物のこともここまで来れば空腹をさらに助長するスパイスに他ならなかった。
     待つこと数分、本当に大体の注文が五分以内には到着するこのスピード感も、なか卯の良さの一つに違いない。早ければ着席の次の瞬間には、もう提供されている、というようなこともしばしばあった。
     そうしててきぱきとした動きで運ばれてきた親子丼が、今、ようやく目の前に現れた。おやつ時から苦節三時間ほど。求めていた親子丼に感謝のを示すべく、まずは両手のひらをあわせる。
    「いただきます」
     すぐにでも本丸から攻めたいところではあるがそういう時こそ落ち着いて、まずは完璧に整えられた今夜の献立を堪能したい。本日のサイドメニューの選択はサラダと味噌汁。ドレッシングはごま。野菜を摂ることを忘れない堅実な選択だ。そして味噌汁。このセット提供される味噌汁も、なか卯の企業努力を感じさせる一品である。正式な名称を季節の具だくさんみそ汁と言い、その名の通り、季節によって具材となる食材が変わるのだ。
     椀を手に取り、まずは手のひらから伝わる温もりを享受する。縁に口付ければふわりと香りたつ味噌の香気に頬が弛まない人間がいるだろうか。すっと口に含むと一層舌の上で豊かに広がる味噌と出汁の風味は、心までもほぐしてくれる優しい味だった。そして肝心の、お楽しみの具材はというと、ぬるつきのある汁の舌触りからも導き出せる答えは、なめこだった。なめこが持つ独特のとろみが味噌汁に溶け出して、なめらかで角のない旨味が広がる。
     それでは満を持して、大本命の親子丼と向き合っていく時間だ。
     なか卯の親子丼は、箸ではなく提供されるスプーンで食べるのが好きだった。サラダと味噌汁へ寄り道をしてもなお器からは、まだ湯気が立ち昇っている。
     出来たてを想起させるのは何も湯気だけではない。白米に被せられている、絶妙な具合の半熟卵とじに、喉を鳴らさずにはいられなかった。ふわふわでとろとろ。スプーンをさしこめば、生じてしまった溝へと重力に従って、半熟卵が流れ落ちていく。もったいない。今この時だけ、この器の中でだけ、何ひとつ取りこぼすことのない全知全能になれる幸せがそこにはあった。
     米と十分に絡ませて、スプーンで掬い上げる。ふぅ、と息を吹きかけて冷ますのがもったいない。やけども厭わない熱さで頬張る念願のファーストバイトの瞬間、全神経を舌の上に集中させたくて、気がつけば目を閉じていた。
     口に含んだ瞬間、一番に感じるのはやはり目の覚めるような熱さだけれど、口を開けて湯気を逃して外気を取り入れてやれば、じんわりと味覚が刺激されていくのを感じる。ふわふわの卵はそのまま舌の上で何もしないうちに、溶けてしまいそうだった。一層濃厚さをひきたてるとろとろの半熟加減もやはり絶妙で、米と具材を渾然一体のものとして見事成立させている。ふわふわでとろとろ。異なるはずの二つの食感が、何度でもこの丼を掻き込む喜びを教えてくれる。
     出汁の効いた甘じょっぱさがクセになるタレが絡んでいるのは、なにも卵だけではない。親子丼、そう、親子丼とは。卵と鶏肉を擬似的に親子として見立てられていることからも、鶏肉もまた主役だった。ぷりぷりの鶏肉は惜しげもなく大ぶりにカットされていることが大変に嬉しい。噛むとほろりとほどけるように柔らかく、それでも満足感のある食べ応えだった。途中玉ねぎの存在がシャキシャキとした食感を丼にプラスしてくれることにより、飽きさせない要因として大切な働きをしていた。
     そうしてある程度食べ進めてしまえば、その次はお楽しみ、味変の時間到来である。
     なか卯には卓上調味料として、唐辛子と山椒が常備されている。チェーン店で山椒を置いているというのは、これもまたひとつ、なか卯の特筆すべき点ではないだろうか。その山椒をお好みで振りかければ、ぴりりと鋭利で華やかな香りが鼻腔から脳に伝わり、電気信号となって胃を刺激する。口に含めば、舌を刺激する辛さの後で不思議なことに、感じるタレの甘さがまたひとつ高みへと至らせる。二段構えの味変。器に残る米粒ひとつ最後まで残すことなくさらってしまえば、名残惜しいがお腹も心も、すっかり満たされていた。
     
     *
     
    「ただいま」
    「おかえり~。なか卯おいしかった?」
    「まぁ、はい。いつも通り」
    「俺も最近食べてないから今度また付き合ってや。山椒あるんがええよなあそこ」
    「山椒はいけんのほんまに謎。はい、狂児さんに、お土産」
    「あっなか卯のプリンや。え、嬉しいありがとう~……えっこれもええの?」
    「どうぞ。セットなんで」
    「〝ごはんたびてえら~い〟……コウペンちゃん……」
    「フ」
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    tsuyuirium

    DONE大学三年生になって長期休みにまなちゃんと二人で京都旅行にきた聡実くんのお話です。
    まなちゃんのキャラクター造形を大幅に脚色しております(留学していた・そこで出会った彼女がいる)ので、抵抗がある方は閲覧をお控えください。
    狂児さんは名前だけしか出てきませんが、聡実くんとはご飯を食べるだけ以上の関係ではある設定です。
    とつくにの密話「おーかーぴ、こっちむーいて」
     歌うように弾む声で、呼ばれた自分の名前に顔を上げれば、スマホを構えたまなちゃんと画面越しに目が合う。撮るよー、という掛け声のもと、本日何枚目かのツーショット写真の撮影がはじまる。ぎこちなさが前面に押し出されている僕とは対照的に、綺麗な笑顔をした彼女の姿を切り取ることに成功したらしい。ツーショットに満足したまなちゃんは、今度は建物の外観をおさめようとカメラを構えていた。シャッターを切り続ける彼女の横で、せっかくならばと僕も彼女の真似をして二、三枚の写真を撮ってみた。
    「そんな待たなくて入れそうでよかった〜おやつどき外して正解だった」
    「ほんまやね。ここ人気なんやろ?」
    「週末だと予約したほうが無難ぽい。あとアフタヌーンティーするなら予約はマスト」
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