幸せはパンの香りとかたちをしている「お話があります、聡実くん」
「なんでしょう」
「今日、前から買い出し行こうて言ってた日なのは分かってるよな」
ふわりと揺らめいて、注がれるお湯に反応して立ち上がる湯気とともに香り立つほろ苦さが鼻腔を突き抜けていく。休日の朝のルーティンとして、コーヒーの香りはすっかりと組み込まれこの家に馴染んでいた。例に漏れず休日である本日も、聡実くんと自分の、同じ形をした揃いのマグカップ二つを用意して、そこに冷めないように白湯を注ぎ温めておくのもすっかり習慣と化していた。
そんないつもの朝、だったはずの本日。コーヒーから始まり朝食の準備に取り掛かろうとしていたところ、それは唐突に訪れた事件だった。
「昨日の夜にはあったはずの朝の分の食パンが、ありません。消えました」
「……」
「クロックムッシュかフレンチトーストか考えてたのに、非常に残念です」
「……すいません。お腹減って昨日生パンで食べました」
「ンモ〜! やってくれるやん」
予想はついていた。というか今この家には自分と聡実くん、二人しかいないので自分に心当たりがないのなら、必然的にもう一人、聡実くんの仕業なのは火を見るよりも明らかだった。
しおらしくこちらから目線を逸らし、所在なさげに両手の指先を擦り合わせる聡実くんは、正しく悪戯がバレてしまった子供みたいだった。実を言うとこれまでも既に、ここで一緒に暮らし始めてからというもの、こういうことは何度か起きていたことだった。お腹が減ることは罪ではないので、そうなってしまったのなら仕方がない。
「しゃーない。じゃあ罰として朝ごはんはもうしばらくお預けや」
「えー」
「えーやないの。パン屋さん行くで」
湧き上がった小さな抗議の声に、一つ案を提唱してみる。パン屋さん。同じ言葉を繰り返す聡実くんは、まだこれから起こることを飲み込めていないようだった。首を左に小さく傾ける。疑問を持った時に表れる彼の癖は、今朝は小さく跳ねた後頭部の寝癖を揺らすおまけ付きだった。
「ほら行くで〜。はよ行かんとな、売り切れてまうからな。聡実くん支度してきい」
疑問符が浮かび続ける聡実くんを引っ張って、身支度を促すためにとりあえず洗面所に押し込める。頭のところについている寝癖も治すよう、教えてあげると少しムッとした顔で肩パンが飛んできた。
さて、聡実くんにはまだ詳細には明かしていない目的地へは少しばかり遠出になるため、聡実くんが支度をしている間にこちらもそのための準備にとりかかることにする。
*
「うわミスった」
「え? 何がよ」
数十分後、すっかり身なりを整えた再びリビングに現れた聡実くんは、ダイニングテーブルで大人しく待っていたこちらを見て開口一番、そう放つ。あからさまにテンションが下がったとでも言いたげな口振りだった。
「ちょっと着替えます」
「え! もう着てるやん! それでええやんか何があかんの」
「いやだって、白Tジーパンてこんなん狂児さんとペアルックみたいやん。やってもうた」
そこまで肩を落とされるとこちらとしてもそんなに嫌なものなのかと、少し気にしないでもない。先ほど聡実くんと会話をしたときから既にこの格好をしていたけれど、寝起きの聡実くんはこちらの服装まで意識に入っていなかったらしい。
「ええやんペアルックでもオソロでも〜。それに白Tジーパンなんか街中そんなカッコの人なんぼでもおるやん。大阪だけやなくて日本中今日オソロの人とかめっちゃおるで絶対」
「そこまでの規模の話してへんし……はぁ、もうええわ。これで行きます。もうお腹減ったし」
かわいいな。またひとつ、聡実くんのかわいいと思うところを見つけた。お腹が空くとわりと色々なことが投げやりになってしまうのは前からで、それによって推し切れた予期せぬペアルックがもたらしたのは、お揃いを恥ずかしがる聡実くんだった。厳密に言えば今日自分が着ているのはトレーナーで、Tシャツではないけれど、ファッションにさほど興味がないのも聡実くんのかわいいところである。
「ほんならもう行こか! ちょっとばかし長旅なるからな」
「ほんまにどこ行くん……?」
「せやから、パン屋さんやって」
ほんまに? と向けられる疑わしげな聡実くんの視線を交わし、先ほど洗面所に押しやったのとまた同じ要領で、今度は玄関に向けて聡実くんの背中を押す。車のドアを恭しく彼のために開けてみせれば、ますます疑いの目は険しくなるばかりだった。
*
道中は小一時間ほど車を走らせる予定で、大阪を北へ北へと北上していく。目的地が見えてくるほどには進んでおり、ドライブは至って順調だった。
車内にはコーヒーの香りが充満している。先ほど飲みきれなかった分は水筒につめて、この旅のお供として持ってきた。そしてお腹が減った聡実くんには、本来の朝食で付け合わせにする予定だったリンゴやオレンジ、フルーツの盛り合わせを渡している。きっとそれだけで彼のお腹が満たされはしないのだろうが、目的地に辿り着くまでのせめてもの繋ぎにでもなればと思っていた。
ほろ苦いコーヒーと、フルーツの甘酸っぱい香りで満たされる車内では、ラジオからカントリーソングが流れている。予定していたドライブではなかったけれど、最上に近い日和でのドライブだった。
助手席に座る聡実くんは、シートベルトに頭を預けてすやすやと寝息を立てている。お腹が落ち着くとうつらうつらと舟を漕ぎ出していたので、寝ててええよ、と伝えればすぐに夢の中へ落ちてしまった。
寝顔を見ていると思い出す、あの時と今では何もかもが違っていた。車だって利便性を考えたミニバンになり、同じ住むところからこうして朝、ドライブに行くことができる未来を迎えるなんて、考えたことすらなかった。
「聡実くん、着いたよ」
まどろみに散らばった聡実くんの意識を寄せ集め、引き上げるために肩を優しく揺り動かす。まばたきを二、三度繰り返した聡実くんはフロントガラスから差し込む日の光の眩しさに目を細める。
「パン屋さん着いたよ」
「パン屋さん……」
白いTシャツから伸びる健やかな腕が一層真っ直ぐに伸ばされて、聡実くんは眠りとは完全に決別したようだった。時刻はすっかり朝食よりもブランチがふさわしい時間に移り変わっている。大阪でも緑豊かな北部まで車を走らせて、お目当てのパン屋に辿り着いた。
店舗はパンを焼くための石窯が目を引くが、白塗りの壁が素朴で自然の中に溶け込んでいる温かみがある外観をしている。自分たち以外にも客で賑わっており、人気のほどがうかがえた。
「いい匂いや」
深呼吸をして、店内に漂うパンの香りを肺いっぱいに閉じ込める。すっきりとしていて香ばしい、小麦と酵母の香りはパン屋という場所でないと感じられない。
「幸せの香りやなあ」
「狂児さんここ来たかったんですか」
「うん。そやねん。インスタで見てん」
「インスタ……」
「お昼もここで選ぼ。聡実くんどれがいい?」
パンは自分たちで取る仕様ではなく、ショーケースに並べられている中から選ぶようだった。目の前にいる店員さんに欲しいものを告げて包んでもらう。
「えーと食パン一斤と、クロックムッシュと」
「僕もクロックムッシュほしい」
「ほんならクロックムッシュ二つで。レーズンのバケットのと、あんぱんも」
「僕もあんぱん食べたいです。あとベーコンエピもお願いします。あとミルクパンと、チョコレートとオレンジのパンも」
「アッ、すんません、そのチョコとオレンジのん二つでお願いします」
店員さんを混乱させかねない注文を二人それぞれやってしまい、申し訳なさで聡実くんと目を合わせた。しかしさすがはプロといったところで、心配するまでもなく注文通りのパンが並べられていく。ブランチにおやつ、それに明日のパンまで手に入れてしまえば、それはもうこの世の全てを手に入れたと言っても過言ではないのではないだろうか。
「さすがに過言でしょ」
「それぐらいの満足度って話や〜ん。いやほんまに来れてよかったわ。ありがとう聡実くん、昨日パン食べてくれて」
「……それはほんと、ごめんなさい」
いくつかのお揃いのパンを抱えて、車に戻れば再び車内は焼きたてのパンの香りに包まれる。はぁ、と息を吸い込んでその香りを堪能していると、助手席に乗り込んだ聡実くんも同じことをしていておかしくなった。
「楽しみですね」
「うん。いったん帰って食べてからまたスーパー行こか」
「そうしましょ。帰りもお願いします」
「はいよー」
家路を辿るべく元来た道へと下っていく。ブランチに胸を躍らせてアクセルを踏み込めば、隣に座る聡実くんのお腹がぐう、と景気付けに鳴り響いた。あまりにも小気味の良い音に、ふふ、と思わず笑ってしまうと、本日二度目の肩パンが左から飛んできた。