Trick so Treat 10月末日。今日のストームボーダーには子どもたちの弾む声が響いている。
「トリック・オア・トリート!お菓子をくれないとイタズラしちゃうぞ!」
サーヴァントや職員の部屋をひとつずつ回って可愛いおねだりをしていく。賑やかな声に応じて出迎えた者は、白いシーツを被った小さなお化けたちに目を細めると、思い思いにお菓子を渡していった。その度に上がる子どもたちの歓声は、ころころころ……とボーダーの廊下を転がって、束の間の平穏と幸せを広げていくようだ。朝から仮装の行列に付き添っている立香の口角も上がりっぱなしである。
「マルタには何をもらったの?」
たった今お菓子を受け取ったお化けのひとり――ボイジャーに、立香は声を掛けた。
「アイシングクッキー、だよ!ほら、かぼちゃにおほしさま、おばけに、こうもり!とっても、きらきら、しているね!」
「ほんとだ!可愛い!」
色とりどりのクッキーが詰まった袋を自慢げにかざすボイジャーに微笑んで、立香は次へと促す。
「えーっと、まだ行ってないサーヴァントの部屋は……」
「お侍さんよ!」
アビゲイルが答えると、みんな一目散に駆けていってしまう。
「ちょっと待って!伊織は多分知らない……っていうか、シーツ踏んづけて転ばないようにね!」
子どもとはいえ彼女たちはサーヴァントだ。そんなことはまず起こらないというのに、ついつい過保護に声を掛けてしまう。
「ほら、マスターさんも早く早く!」
「はーい!」
どんどん走っていってしまう小さな背中に苦笑しつつ、立香も次の部屋へと向かったのだった。
*
一行が向かった先で出迎えた『お侍さん』改め伊織は、菓子をせがむ子どもたちを一列に整列させてから、懐から取り出した小袋を順番に手渡した。
ありがとう、と口々に礼を言う子どもたちの頭をそっと撫でつつ、「一気に食べてはいけないよ」と優しく語りかける姿はとても穏やかだ。
そんな恋人を立香は意外な気持ちで見つめていた。彼にハロウィンのことを説明した記憶はない。なのにお菓子を用意して待っていた。食堂で誰かに聞いたのだろうか。
(それにしても……)
今の伊織の姿がとても『お兄ちゃん』らしくて、バレないように密かに微笑む。
(江戸ではああしてカヤさんと過ごしていたのかな……)
彼の生前の話を聞くことはほとんどない。彼自身があまり気にしていないのもあるが、立香も聞く必要はないと考えているからだ。それでも、彼の振る舞いから垣間見えるものは確かにある。浅草の長屋で穏やかに過ごす兄妹の姿が――
「ほら、マスターの分もあるぞ?」
「えっ」
不意に声を掛けられて狼狽えた。心ここに在らずだったせいで上擦った声が出てしまう。
「私は付き添いだからお菓子はいいよ!」
手をブンブンと振って断ってみたが、伊織は構わず近づいてきて立香の右の手を取った。
「そうだ、ナーサリー。この場合マスターは何と云うべきだったか……」
伊織に問われたナーサリーは、何かに思い至ったように瞳を輝かせながら立香を見上げた。
「ほら、マスター!今日はあの言葉を言わなくちゃダメよ!」
「ト、トリック・オア・トリート……?」
半ば無理矢理言わされたようなものだが、伊織は満足そうに「よろしい」と頷いて、立香の手のひらに小さな包みを乗せた。ちょこん、と乗った透明な小袋には、色とりどりの金平糖が入っている。
「伊織はハロウィンのことを知ってたんだね」
「聖杯からの知識である程度は……な。それでも『菓子を用意すべきだ』と助言をくれたのはマシュ殿とエミヤ殿だ」
「そっか。ありがとう。大事に食べるね」
礼を述べた立香の頭が伊織の大きな手でかき混ぜられる。子どもたちにするのより少しだけ乱暴な手つき。そこに彼の照れ隠しのようなものを感じて、立香も何だかくすぐったい気持ちになってしまう。
「じゃあ、みんな食堂にいこっか!もらったお菓子でパーティをするんだよね?」
立香の呼び掛けに子どもたちは今日一番の歓声を上げると、競い合うように食堂へと走っていく。それに続こうとした立香の腕が、後ろからぐい、と強く引っ張られた。
「え、ちょっと、伊織!?」
「おまえは仮装はしていないのだな」
「私はあくまで付き添いだから……ねぇ、早く行かないと……」
突然のことにしどろもどろになりながら何とか答えたが、そのまま腕を引かれて長屋の中に連れ込まれてしまう。あれよという間に壁に縫い付けられ、伊織の大きな身体で囲われて……そのまま頭から食べられてしまうような錯覚を覚えた。ぶるり、と背筋を震わせたところで頭上から少し掠れた声が振ってくる。
「昨夜ティーチ殿に聞いたのだ。マスターの仮装は凄いのだぞ、と」
「へ……?」
「特に『なあす服』とやらがおすすめと聞いたのだが、それは着ないのか?」
「え……?」
伊織の言うことの意味がわからず間抜けな声が口から漏れるばかりだが、深藍色の瞳は好奇心を隠そうともせず立香を見据えている。
黒髭が恋人にあることないこと吹き込んだらしい、ということはわかる。ナース服とは、おそらく数年前のナイチンゲールの衣装のことだ。確かにアレは凄かった。彼女にしか着こなせない際どさだった。
(黒髭ってこういう時ばっかり混沌・悪属性なんだから……!)
そんなことを思っている間にも子どもたちの足音は遠ざかっていく。焦った立香はなんとかこの場を収めようと早口で言葉を紡いだ。
「夜に!夜にまた来るから……話はその時ね!」
「……そうか」
掴まれていた手はあっさり解放された。戸惑いながらも伊織の囲いからするりと抜け出る。「金平糖ありがとう」ともう一度だけお礼を告げて、暴れ回る心臓をなだめつつ食堂へと向かったのだった。
*
その夜。立香は約束通り伊織の長屋を訪れた。ノックもそこそこに戸が内側からするりと開く。足音だけで立香の接近を察していたのかと思うほどに素早い出迎えだった。
「お邪魔します」
「……む。特別な装いはしておらぬようだが」
伊織が口を尖らせたのも無理はない。立香はいつもの礼装の姿のままやってきていた。
「いいから。ほら、あっちに座って」
渋面を作る伊織の背中を無理やり押して布団の上に座らせる。自分はその正面に膝立ちになり、目の前の肩にそっと手を乗せた。
「……立香?」
僅かに抵抗する伊織をやんわりと制し、剥き出しの彼の首筋にカプ……と軽く歯を立てて噛みつく。
「……なっ!?」
首元を手で擦りながら慌てている恋人を『可愛い』と思った。動揺する姿が珍しくて、もう少し意地悪したくなってしまう。
「今の私はヴァンパイアだから、伊織の血を吸ったんだよ」
「ばんぱいあ……?すまぬ、俺にも解る言の葉で云ってくれ」
「日本語だと吸血鬼、かな。人間の血を吸って生きる魔族なんだけど、ハロウィンの仮装の定番なの」
「吸血鬼……飛縁魔のような物の怪の類だろうか」
「それはよくわからないけど、ヴァンパイアに血を吸われた人はみるみるうちに干からびて死んじゃうんだよ?」
「なんと……大層恐ろしいモノだな」
「でしょ?」
言いながらもう一度伊織の首元に唇を寄せ、今度は先程より少し強く噛みついてみる。それから、血を吸うようなつもりで……ちゅ、と吸い付いて、ささやかなキスマークを施した。
「伊織が干からびちゃったら困るからここまでね!ごちそうさまでした」
少し浅黒い肌に刻まれた鬱血の跡に満足して身体を離そうとした途端、腰に手が回ってきて伊織に抱きしめられる。
「これで終いか?」
ぞくり、とするほど低い声だった。戯れが過ぎて怒らせてしまったのだろうか。でも、噛みついたりキスマークを付ける行為は彼の方がよくやっていることだ。
「え……と、これ以上は特に考えてない……かなぁ……仮装するような衣装もないし、金平糖のお返しに何ができるか考えた結果のいたずらというか、戯れだったというか……」
身体に回された腕に更に力がこもっていく。どうやら怒っているわけではなさそうだ。
「そうか。ところで今のおまえは、それはそれは恐ろしい飛縁魔なのだろう?」
「一応、そうなのかな……?」
「ならばこれで終いではない筈だ」
身体がふわ……と持ち上げられたと思ったら、仰向けになった伊織の腰の上に跨るように降ろされた。一気に長屋の空気が変わったのを感じる。
「え……と、ごめん、今更だけど飛縁魔ってどんな妖怪なの……?」
もはや答えはわかっているようなものだったが、それでも時間を稼ぎたくて苦し紛れに質問する。立香を見上げる伊織の瞳には欲が滲み出し、ゆっくりと揺れていた。
「男の精気を吸い取り、果てには取り殺すモノだ」
(ヴァンパイアとは似ても似つかないやつだった……)
もっと早く飛縁魔がどんな妖怪なのかを聞いていればいくらでも否定はできた筈だが――時すでに遅し。立香が跨る場所には彼の熱い猛りがぐりぐりと押し当てられている。自分の無邪気な戯れが恋人の欲を駆り立ててしまった。
「今日はおまえの好きに動いてくれ。俺はその悪戯を甘んじて受け入れよう」
彼の強い眼差しに射抜かれる。身体の奥の自分では届かない場所に情欲の火が灯った。それをわかっていたかのように下から軽く突き上げられて、甘い吐息が漏れそうになる。
ああ、これなら自分が望む場所にぴたりと届く。身体の奥で燻る劣情の熱を鎮めてくれる――立香は徐々にそのことしか考えられなくなっていく。
(これじゃあ『トリック・“オア”・トリート』じゃなくて……)
頭の中に浮かんだ言葉に淡い苦笑を溢す。熱でほんのり色づいた顔を彼の口元に寄せ、その欲を吸い取るように――唇を重ね合わせた。