最近、気温の乱高下が激しい。つい数日前は二十度まで上がって「季節はずれの陽気」などとニュースで騒いでいたのに、今日は最高気温が八度までしか上がらず、聞けば札幌よりも寒かったという。
日々の服装や体調に気を使う季節の変わり目。伊織と立香も例に漏れず、急速に冬支度を始めたところだった。
「立香?そろそろ寝るぞ?」
時刻は午前零時を過ぎた頃。寝室の暖房をつけてリビングへと戻ってきた伊織は、どこかにいるはずの恋人に声を掛けた。「はぁい」と返事が聞こえた方へ向かうと、声の主はキッチンにいた。余程寒いのかパジャマの上に薄茶色のボアブルゾンを着込んでいる。モコモコと膨らんだシルエットはテディベアのようだ。
コンロの火で暖を取りながらお湯を沸かしている立香を見て、『寝る前にホットココアでも淹れるのだろうか』と考えた伊織は、食器棚からコップを取り出そうとした。
「あ、ごめん!このお湯は飲み物用じゃなくて……これに使おうと思ってるやつなの」
伊織を制した立香が見せたのは、彼女の髪の色と同じ赤橙色をした楕円形の容器。
「ああ、ゆたんぽか」
「すぐ入れるからちょっと待ってね。伊織もいる?」
「俺は大丈夫だ。熱湯でやけどをしないように気をつけてくれ」
「りょーかい」
伊織はリビングの明かりを消そうとその場を離れたが、すぐにキッチンから「あちち」と慌てる声が聞こえてきたので思わず渋面を作った。やはり自分が代わってやればよかった。明日からは彼女より先にゆたんぽの用意してしまおう――そう心に決める。
程なくしてキッチンの明かりも消え、一階は暗闇に包まれる。立香が先に階段を上がって行くのを見送ってから、伊織も寝室へと向かった。
「わあ、あったかい……」
先んじて暖房を入れておいたおかげで寝室はほんのりと暖かい。
「それは良かった。つけっぱなしは乾燥するからもう切ってしまうが……大丈夫か?」
「うん。これがあるから平気」
立香は胸に抱えたゆたんぽを犬や猫を撫でるかのように優しくさすっている。湯たんぽへの信頼が随分と厚い。伊織はこれまで一度も使ったことがないので、その効果には半信半疑といったところだ。それに、二人が眠るクイーンサイズのベッドには羽毛布団と毛布が掛けられていて、それだけで十分温かい、と思っていた。
先にベッドへと上がった立香が、中央に湯たんぽを置いてコロリと横たわった。目線だけ寄越して「早くおいで」と誘っている。伊織は少し口元を緩めつつ、部屋の明かりとエアコンを消すと、彼女の待つベッドに潜り込んだ。
向き合うように横になった二人の間にゆたんぽが挟まっている。少しすると、その熱が布団の中の空気をじんわりと暖め始めた。思わずホッと息を吐きたくなるような、柔らかなぬくもりが身体を包み込む。
「あー……これは、眠りを誘うな……」
意識がふわふわと漂い始め、徐々に目蓋が重くなっていく。眠たげな伊織を見た立香は揶揄うように笑ったが、微睡む伊織にとっては愛らしい笑みに映るだけだ。
「気に入った?でも、このまま引っ付いてると火傷しちゃうから……」
立香が湯たんぽを抱えてくるりと反転する。このまま彼女の顔を間近で見ながら眠れるのだとばかり思っていた伊織は、「あっ」と声を漏らしてしまった。
背を向けた立香は後ろ向きのままずりずり近づいてくると、背中を伊織にくっつけた。隙間など一切許さないと言わんばかりにピッタリと。
「私がゆたんぽで温まって、その私で伊織が温まるの。どう?人間ゆたんぽ」
そう言う彼女の語尾は少し照れくさそうだ。暗いから分からないが、きっと耳もほんのり赤く染まっているのだろう。伊織は返事をする代わりに後ろから腕を回して立香を抱き込む。確かにいつもより温かい。赤ちゃんのようにぬくぬくしている。
鼻先を立香のつむじのあたりに埋めて、ひとつ深呼吸をした。洗い立ての髪の香りの奥に、彼女が本来持つ陽だまりのような柔らかな匂いを見つけて心が和む。
(これはなんとも……良く眠れそうだ……)
口に出したのか心の中だけで思ったのか。それすら判別出来ないほど急速に眠りの底へと落ちていく。
「……伊織?もう寝ちゃった?」
「…………いや、まだだが」
辛うじて答えたものの、既にふにゃふにゃの声では全く説得力がない。
「ゆたんぽ気に入ってもらえて良かった」
「ああ。冬の間は毎日これでも良いぞ」
「考えとく。それじゃあおやすみ、伊織」
「おやすみ、立香。また明日」
「うん、また明日」
明日も一緒にいられますように、という願いを込めたいつもの挨拶と共に、伊織は腕の中の恋人のぬくもりを感じながら瞬く間に眠りについたのだった。