「……立香?」
「あれ、伊織だ」
「もしや同じ電車だったか?」
とある月曜の夜。仕事帰りの伊織は、駅の構内のコンビニから出てきた恋人に声を掛けた。ここは二人が同棲する家の最寄駅だ。
「そうだったのかも。全然気付かなかった」
「少し急げばまだバスに間に合うが……」
「えっ、じゃあ行こう!」
立香の手が伊織の腕を掴む。ぐい、と強く引っ張られるがまま、二人は一緒にロータリーへと走り出した。
向かう先の停留所にはすでにバスが停まっており、同じように帰宅する人々が四角い箱の中へと吸い込まれていくのが見える。伊織と立香もなんとか走り込むと、すぐにドアが閉まってバスは滑らかに発進した。
「頑張って……走った甲斐があった、ね……」
肩で息をしている立香と対照的に、伊織は涼しげな顔だ。後方の席がひとつ空いているのを見つけたので、彼女を座らせてやる。
「ヒールを履いているというのに器用に走るものだ」
「それはまぁ、慣れだから」
不意に、伊織が右手に持っていた鞄が取り上げられたかと思えば、立香の膝の上に抱えられていた。席に座らせてもらったお礼、ということらしい。
「ありがとう」
「どういたしまして。あ、そっちの袋も持つよ?」
今度は左手に持つ赤橙色のエコバッグに手が伸びてきたので、「これは軽いから大丈夫だ」と丁重に断る。
「何を買ったの?」
「11月11日といえば、のモノだ」
「えっ!?」
バスの中なので多少声は抑えつつ、それでも驚いたように立香が声を上げる。それから、彼女が持っていたコンビニの袋の口を開けて、中身を伊織に見せてきた。
「私も買ったんだけど……」
中には水のペットボトルが1本と、赤い箱がひとつ。
「先程のコンビニでか?」
「うん。お水買おうとしたらレジの前にいっぱい並んでたから。そういえば今日はあの日だ……って」
11月11日。この日は様々な語呂合わせの記念日があるが、特に有名なのは『ポッキー&プリッツの日』だ。コンビニやスーパーで派手に陳列されて、普段買わない人すら「今日くらいは買ってみるか」と手に取ってしまう。ちょっとしたお祭りのようなイベント。
伊織と立香も例に漏れず、揃って赤い箱のポッキーを購入していた、という訳だ。
「同じ電車に乗ってた上に同じお菓子も買ってたなんて……偶然すぎて面白いね」
こちらを見上げながらふわりと笑う立香の姿に、伊織は静かに心打たれていた。ここがバスの中でなかったら、その腰に腕を回して抱き寄せていただろう。胸に込み上げる温かな幸せを逃さぬよう、口付けて蓋をしてしまいたかった。
「食後にコーヒーを入れて食べようか」
「はぁい。あ、今晩はグラタンだったよね?お腹空いた〜!」
「ああ。昨日のうちにホワイトソースは作っておいたし、すぐにありつけるぞ」
「やった!」
語尾を弾ませながら頷いている立香の頭をそっと撫でる。赤橙色の柔らかな髪が指の間をするりと抜けるのを、伊織は穏やかな目で見つめていた。
*
夕飯を終えた二人は、リビングのソファに並んで座ってポッキーを食べていた。同じものが二箱あるので、今日のところは伊織が買ってきた方を開けている。
「久しぶりに食べたが……昔より美味くなったか?」
「あー、なんか分かる。チョコの味が本格的というか」
久々に食べたポッキーは、思っていたよりも甘さが控えめで、チョコレートも滑らかだった。『子どもが食べるお菓子だから』と侮っていたのかもしれない。正直に言うと美味しい。
「伊織が買うって分かってたら、他の味買ってたなぁ……『冬のくちどけ』とか」
一本摘んだポッキーを指の先でくるくると器用に回しながら、立香がぼやいた。
「別に今日でなくとも好きな味を買えばいいだろう?」
「そっか。久しぶりに食べたらなんか他のも食べたくなっちゃって」
えへへ、と笑う彼女を横目に見つつコーヒーに口を付ける。食欲は満たされ、暖かな部屋で温かいコーヒーを飲みながら、恋人と甘いお菓子を食べている。なんとも穏やかで、愛しい時間だ。
「……それで、アレはしないのか?」
「なあに?」
「ポッキーゲームだ」
途端に立香の顔が赤く染まっていく。不規則に瞬きする瞼の奥で、金の瞳が泳いでいる。
「立香?俺は何がおかしなことを言ったか?」
「う、ううん!その……心を読まれたのかと思って。私も、言おうと思った、から……」
もじもじと恥ずかしそうに呟く彼女の姿がいじらしく、伊織の口角は際限なく上がっていく。
「だが、ゲームにならぬな」
「へ……?」
「俺たちがしても、そのままキスをして終わりだ。勝ち負けがない」
「確かに……」
「それでもいいか?」
「うん。それでも伊織とポッキーゲームしたい」
ふにゃりと笑う立香に同じように笑みを返しながら、ポッキーを一本手に取った。彼女の口にそっと差し入れ、反対の端を自分で咥える。目と目が合ったのを合図に二人で少しずつ食べ進めれば、あっという間に唇が重なった。
チョコレートのまろやかさとプレッツェルの香ばしさ。コーヒーの苦味と酸味。そして、瑞々しい果実のような――恋人の唇の甘さ。
「一人で食べるより少し甘い気がする」
「……そうだな」
呑気に言う立香に返事をしながら、伊織は今日が月曜であることを呪っていた。このまま盛ってしまえば明日に障る。
それでも、ほんの少しだけ。もう一度だけ味わいたい。欲を押し殺しつつソファの背もたれに手をつき、隣の立香に覆い被さるようにして囲い込むと、彼女は慌てて胸を押し返してきた。
「……駄目か?」
「ねぇ伊織……明日って出勤?」
「いや、在宅ワークだ」
あちこち彷徨っている瞳を捉えてゆっくり答えると、立香が蚊の鳴くような声で囁いた。
「実は私も、明日は家だから……あんまり遅くなりすぎなければ……キスの続きも……して良いよ……?」
それは願ってもない、そして、あまりにも可愛らしいおねだりだった。伊織はたまらず目の前のぬくもりを掻き抱いて、髪や耳に次々と口付けを落としていく。
「……善処する。ひとまずこのまま風呂に入ろうか」
赤く染まった耳元へ吐息と共に囁いてから、柔い身体を抱えて浴室へと向かったのだった。