歯止めがきかない遊戯 秋の夜長のことだった。といっても、白紙化した地球にもはや四季などなく、あくまで暦の上での話だが。
久しぶりにマイルーム担当となった伊織は、立香がレポートを作成するのを待つ間、スツールに腰掛けて本を読んでいた。蛍光灯が白い光を落とす部屋に響くのは、立香がコーヒーを飲む時に立てる僅かな音と、伊織が本のページをめくる時に立てる紙が擦れる音のみだ。
そうして三十分ほど時計の針が進んだ頃。不意にこれまでと違った音が聞こえてきて、伊織は顔を上げた。音の発生源は立香だった。足元の引き出しを開けて何かを探している。静かに見守っていると、左の手が赤い小箱を引っ張り出した。箱の上部をぱかりと開けた彼女は、中の白い袋を破って細い棒を一本取り出し口へと運ぶ。パキ、と棒が折れた後、ポリポリと咀嚼する軽やかな音が伊織の耳朶を打った。立香はその間も真剣な表情でタブレットとにらめっこしている。
(成る程、当世の菓子の類か)
謎の物体の正体が解ったことに満足すると、再び手元に視線を落として文字の続きを追い始めた。彼が読んでいるのは『南総里見八犬伝』。普段はカルデアに集う英霊たちの伝記や、大陸の兵法書といった実用的な書物に親しんでいるが、今宵は珍しく物語のある本を読んでいた。カルデアには馬琴がいるので話の種にもなるだろう、との考えだったが、いざ読んでみると面白い。八犬士が犬ではなく人だったことに少しだけ驚きながらも、自分が生きた時代より後に生まれた壮大な物語を楽しんでいた。
静かに、静かに、夜が更けていく。
さらに三十分ほど経ったところで、今度はキィ、と椅子の軋む音がした。レポートを仕上げた立香が背もたれに身体を預けて大きく伸びをしている。伊織は本を閉じて素早く立ち上がり、恋人の頭を後ろからそっと撫でた。
「コーヒーのおかわりはいるか?」
「うん。お願いしていい?」
「解った」
受け取った空のコップにコーヒーを注ぎながら、疑問に思ったことを尋ねてみる。
「レポートの合間に何かを食べるのは珍しいな」
「ああ……これはとっておきなの。今日のレポートはちょっと大変だったから、糖分補給したくって」
「成る程。甘味は脳を活性化させるのだったか」
火傷をしないように、と言い含めながらコーヒー入りのコップを渡せば、お礼の言葉と共に柔らかな笑顔が返ってくる。
「うん。ポッキーっていうんだけど……伊織も食べる?」
コップを持つのと反対の手が赤い箱を掴み、伊織の方に差し出してきた。
「いいのか?なにかその……貴重なモノに見えるのだが」
伊織の問いはもっともだった。カルデアでこうした既製品を目にすることはあまりない。
「あ、わかる?こうなる前はすごく身近なお菓子で、よく買って食べてたの。とっておきって言ったのは、エミヤがわざわざ作ってくれたから。『たまにはこういう味を思い出すのも悪くないだろう』って」
「エミヤ殿の投影魔術か」
「外箱とかはね。中身は手作りだよ」
伊織はエミヤの思慮深さに舌を巻いた。立香と同郷であり、近い時代を生きた彼だからこその気遣いである。
「……そうか。おまえの時代の菓子ならば俺も食べてみたい。ひとついいか?」
「もちろん」
差し出されるまま一本取り出してみる。伊織の目から見ればなんとも頼りない細い棒切れだが、鍔はないものの柄のような持ち手があるのが剣にも見えて、口元に笑みが溢れた。
「いただきます」
きちんと挨拶をしてからひとくち齧る。ぽきん、と真ん中から折れたポッキーをゆっくりと咀嚼して、真っ先に「甘い」という感想が浮かんだ。しかし、せっかく立香のとっておきを貰ったのだから、もう少しマシな感想を言わねばと思い直す。
「……美味い。なんとも軽快な食べ物だ」
「ふふ。伊織、なんか無理してない?」
「……お見通しか。その…………甘い、な」
ほんの少しの背伸びはすぐに看破されて、結局伊織は素直に味の感想を述べた。立香は口元に手を遣ってくすくすと笑っている。部屋の空気は口の内に広がるチョコレートの味のように、甘やかでまったりとした空気に浸されている。
コーヒーを飲み終えた立香が箱を手にベッドへと移ったので、伊織もそれに倣って彼女の横に腰を下ろした。二人分の重さを支えるマットレスが大きく沈み込んでいく。
「なんだか懐かしい気持ちになるなぁ……」
新たに指先で摘んだポッキーを眺めながら、立香がぽつりと溢した。
「よく買っていた、と云ったな」
「うん。家とか学校とか……みんなで分け合って食べてたの」
「そうか」
確かに袋の中には何本ものポッキーが詰まっている。一人で食べるのみでなく、大勢で分け合うことも考えられているのだろう。伊織は少し目を閉じて、立香が友人と語らいながら同じ菓子を分け合う姿を想像した。かつて当たり前にあったはずの、穏やかな時を想う。
「今は俺と分け合うので我慢してくれ」
横から手を伸ばして、もう一本ポッキーを手に取る。立香は一瞬ぽかん、と口を開いてから、言葉の意味を理解したのかふわりと微笑んだ。
「ううん、うれしい。こういうの憧れだったんだ」
「こういうの、とは?」
「恋人と一緒にポッキー食べるの」
予想外の言葉。伊織は思わず「ぐ……」と息を漏らした。早鐘を打ち始めた心臓を鎮めようと、手にしたポッキーを口へと運ぶ。なぜだろう、先程より一段と甘い。
「憧れついでに、もう一つ付き合ってくれる?」
「ああ。俺に出来ることならば、何なりと――」
言い終える前に、彼女が持っていたポッキーが口の中に突っ込まれる。訳もわからずそのまま食べようとしたところで、「噛んじゃダメ」と言われてしまった。
コーティングされたチョコレートが口の中の熱でゆっくりと溶け始めている。甘い香りが鼻から抜けて、頭がふわふわとしてきた。一体何が起こるのかと身構えたところで、立香が反対の端をそっと咥えた。今にも触れそうな距離で見つめ合う。
「りつか……?」
ポッキーを咥えさせられたまま不明瞭な声で恋人の名を呼ぶが、返事はない。目の前の彼女はゆっくり目を閉じると、少しずつポッキーを食べ始めた。
パキ、ポリ、と小気味いい音をさせながら、徐々に顔が近づいてくる。このままではどう考えてもぶつかってしまうが、立香が何をしようとしているのかも、自分に何を求められているのかもわからず、伊織は近づいてくる愛らしい顔をただただ見つめていた。
最初に触れたのは、冷たい鼻先だった。立香は顔の角度を少し変え、もう一口食べ進めた。しっとりとして柔らかな感触が唇に触れたかと思えば、ぱきん、とポッキーが折れて顔が離れていく。
伊織の唇には二人の熱で溶けたチョコレートがべったりとついていた。甘い。先ほどからずっと甘い。その甘さの奥に、コーヒーの酸味とほろ苦い香りもした。
「立香、一体なにを……」
「今のはポッキーゲームだよ。一本のポッキーを端から食べていって、先に口を離したほうが負けなの」
「しかし、今おまえがしたのは……」
「口を離さなかったらそのままキスしちゃうっていう……ドキドキを味わうのがこのゲームの醍醐味だから」
「……ふ。成る程、そう云うことか」
ゲームといいながら、恋人同士であれば勝ち負けなど成り立たないモノだった。それはなんとも可愛い戯れだ、と思わず笑う。
「では、次は俺の番だな」
「えっ、ちょ、待っ――」
箱から素早くポッキーを取り出して、先端を立香の口に差し入れた。チョコレートのついていない持ち手の部分を自分で咥え、至近距離にある恋人の顔をじっと見つめる。
「い、おり……」
名前を呼ばれたので口の端を持ち上げて笑みを返す。立香の黄金色の瞳は動揺で揺れていたが、自分がしたことをやり返されると分かって観念したのか、そっと閉じられた。
それを合図に端からひと口食べた。持ち手とチョコレートの境目を通り過ぎ、口の中に滑らかな食感が広がる。甘く、濃厚な味が、とろけ出す。
鼻先が触れるかどうかのところで、伊織はぴたりと動きを止めた。眼前の恋人の顔を少し熱のこもった目で見つめる。静かに息を吸えば甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐり、徐々に頭に靄がかかっていく。思考がチョコレートのようにとろりと溶けて、形を保てなくなっていく。
蛍光灯の光に浮かび上がる立香の白い肌には、伏せられたまつ毛の影が美しく伸びていた。その影が小刻みに揺れているのは、唇が触れる瞬間を期待しているからだろうか。それでも伊織は動かなかった。焦れた恋人が行動を起こすまで、じっと見つめて待っている。
たっぷり十秒ほど経ったところで、閉じていた瞼がふるりと揺れた。様子を伺うように開いた瞼から現れた黄金色が、伊織の深藍色と至近距離で絡み合う。
「っ……!」
喉から潰れたような声を出して立香が飛び退いていく。その拍子にポッキーは真ん中から折れてしまった。
「先に口を離した方が負け、と云っていたな?」
口の中のポッキーを咀嚼しながら、逃げた立香を無駄のない動きでベッドの端へと追い詰める。
「それは、そうだけど!全然動かないから何かあったのかと思っ――」
言い返そうとして開いた小さな口を唇で塞ぎ、隙間からぬるりと舌を潜り込ませた。互いの境界線が曖昧になる。口の中に残るどちらのとも分からないポッキーを噛み砕き、合間に舌を這わせて絡め合う。魔力だけではないまったりとした味が口から全身に染み渡って、あっという間に夢中になった。伊織は左の手を立香の髪の中に差し入れると、貪るように口の内を舐め回し味わい尽くす。
「ん、ふ…………」
いつも以上に甘やかな吐息が静かな夜に吸い込まれていった。何度も、何度も、角度を変えながら舌を交わらせているうちに、立香の身体から徐々に力が抜けていく。もたれかかってきた恋人の重さを受け止めたところで、伊織はやっと唇を離した。
「さて、まだポッキーゲームの途中だったか」
「…………ズルい」
小さな手が長着の衿をきゅっと握っている。顔は僅かに伏せられているが、乱れた髪の隙間から見える愛らしい耳は、この先を期待する色に染まっていた。
「次は最後まで食べると約束しよう」
新たに取り出したポッキーを立香に咥えさせる。反対の端を咥えた伊織が視線を上げると、今度の立香は目を開けてこちらを見ていた。星を宿した瞳に灯る情欲の火を捉えた伊織は、喉の奥で押し殺すように笑う。それもこれも、ポッキーに鍔がないのが良くないのだ、などと心の中で言い訳をしながら。
(……鍔がなければ刃止めがきかぬ)
静かな部屋に響き始めた軽快な音は、さながら二人の体温が一つに溶け合うまでのカウントダウンのようだった。