ほつれたボタンをくっつける二人が付き合い始めてそれなりに日数は経ったと思うけれど、まだ何となくのぎこちなさとよそよそしさは拭えない。
圧倒的に恋愛経験のない黒子だけれど、意外と赤司も同じようなものらしい。「黒子としか付き合ったことないよ」と照れくさそうに笑うものだから、彼もこんな表情をするんだと胸がぎゅっとつまる。こんなに素敵な人が本当に経験がないのか、真実はわからないけれど、赤司の言葉を信じるしかなかった。
慣れない距離の近さを実感するのは、主に二人で夜を過ごせる日のことだった。まだ片手で数えられるくらいしかしたことのない恋人同士の行為は、そんな雰囲気になるたびに身構えてしまって身体がぎゅっと硬くなる。毎回ひどく緊張してしまうのが情けなく思いながらも、でももしかしたら、赤司も似たような感じなのではないかとほんの少しだけ思ってしまった。だって彼も、熱に浮かされたような瞳を燃やしながらも、くろこ、と名前を呼ぶ声は掠れている。
ことが始まる空気は甘さと硬さが混じっていて、ただでさえあまり口数の多くない二人が無言になる秒数が増えてゆく。ベッドがギシっと鳴って、お互いの呼吸音が近付いていった。もう、彼の唇しか見えない。その距離がいたたまれなくなって、黒子は強く目を閉じた。その瞬間を見計らって、赤司も目を閉じ唇に触れる。
あたたかくて、やわらかい。そんな感触を確かめるみたいに、ふにゅっと唇同士が沈み込む。何度か角度を変えながら温度を共有していたら、赤司の舌がそっと黒子の唇を舐めた。
きた。またそうやって身構えつつも、なるべく心を落ち着けてうすく口を開く。初めての時、赤司の舌を噛んで傷を付けてしまう失態を犯したのだ。さすがにもうそんな愚行は犯すまい。
唇の隙間から、赤司の舌が伸びてくる。黒子も同じように舌を伸ばせば、何がどうなったのかぴちゃっと音が鳴ってしまった。ざらつく舌を黒子も一生懸命絡めてみたら、黒子からそうするとは思わなかったのか、赤司の身体が一瞬ひくりと揺れる。唇を触れ合わせたまま、おそるおそる目を開けると、ほぼ同じタイミングで目を開いた赤司とほんの数センチの距離でばっちり目が合ってしまった。
「っ…」
恥ずかしくてもう一度ぎゅっとまぶたを閉じる。離れた唇は、触れるか触れないかギリギリのラインにいて、その場所で赤司はくすくすと笑った。やっぱり彼ばかり余裕がある。悔しさと、自分からも何かしたい思いで、ちゅっと音を立てて赤司の唇にキスをした。ぱちくりと大きく瞬きをした赤司は、そのあとに嬉しそうに頬を染めて笑う。
「かわいい」
「なっ…」
渾身の一撃を「かわいい」の一言で済まされて、黒子はガンッとショックを受けた。それから赤司は黒子の唇を塞ぐ。黒子の可愛らしいキスとは違う、甘い、とろける、息もできなくなるようなキス。
「ん、んッ…!」
「黒子」
艶っぽい声が、キスの隙間を縫ってゆく。愛おしげに頬に触れる手のひらは熱く湿っていて、指先は少し皮が厚く硬くなっていた。彼が努力を重ねてきた、紛れもない証になるような手だろう。その手がすごく好きだった。撫でる指は頬から耳たぶをなぞり、首筋から鎖骨を辿る。くすぐったくてひくひくと身体が震えた。触れられたところから徐々に熱を持ってゆく。黒子が着ていた襟付きのシャツのボタンを、赤司は片手で器用に引っ掛けた。ぷち、とボタンが外れてゆくたびに、服の下に隠された心臓がどくどくと音を立てる。沸き立つような心音が、このまま赤司に聞こえてしまうのではないか、と恥ずかしく思っていたら、急に何かが落ちたような、カラン、と小さな音がした。
「……え?」
何かと思い顔を上げれば、珍しく赤司が驚いたように目を丸くしている。視線の先を辿ってみると、ベッドの脇、綺麗に磨かれたフローリングに、安物の服のボタンが一つ、コロンと転がっていた。
「…?」
「…ボタン取れちゃった」
「え……」
「……」
下を見てみると、外されていたちょうど真ん中あたりのボタンがあったはずの部分で、ほつれた糸が飛び出ている。そういえばなんとなく、今朝着た時に糸が緩んでいると思ったのだ。
「ごめん、そんなに強く引っ張ったつもりはなかったけど…」
「安物なので縫いが甘いんですよ。気にしないでください」
まさかのハプニングに黒子が笑えば、ポカンと固まっていた赤司もつられたように一緒に笑った。おでこをくっつけて笑い合っても、その距離の近さに緊張はしつつも嬉しさのほうが勝る。気を取り直してキスをして、残りのボタンを外して肩からシャツを抜いた。黒子も見様見真似で、拙いながらに赤司の服を脱がせる。下着だけ身に纏った姿になれば、あとは抱き合ったままベッドへと沈み込んだ。男が二人寝転んでも十分余裕のあるダブルのベッドは、素肌に纏うシーツがさらりとしていて気持ちいい。
照明を落とした部屋で、赤司の瞳がきらりと光る。今その目に映っているのは黒子ただ一人だ。愛おしさに溢れて、緊張で冷たくなってしまった手で彼の頬を撫でる。ひたりと湿った手でも、赤司は気持ちよさそうに目を閉じて黒子の手のひらに擦り寄った。
「あかしくん」
「ん?」
「触っても、いいですか」
「もちろん。どこでも、好きなところを触って」
黒子だけの特別だよ、と言って彼は笑った。さっき彼がやったように、頬に触れて、鎖骨を撫でて、胸筋に触れる。しっかりと筋肉のついた、均衡のとれた美しい身体だった。こんなに綺麗な人とベッドの上で裸で抱き合っているなんて、なんだかいまだに信じられない。
「俺も触っていい?」
「ぅ…は、い…。どうぞ」
ぺたぺたと、まるで子供の触れ合いみたいに、お互い気の済むまで身体に触れ合った。けれどそのうち二人して焦れてきて、少しずつ身体の奥のほうを開いてゆく。
枕元のキャビネットに手を伸ばし、赤司がコンドームとローションを手にした頃には、黒子ももう恥ずかしさはありつつも触れ合える喜びでいっぱいだった。手探りながらも二人で気持ちよくなれる場所を探して、つたないながらも大人の真似事をする。必死で息をしながら、世の恋人は当たり前のようにこんなことをしているのか、と思った。奥深く、他の誰にも許さない場所に触れて、触れることを許す特権を噛み締める。
赤司の額にじんわりと汗が滲んでいる。それを指で拭ってあげれば、赤司は汗で濡れた黒子の手をそのまま取って、その薬指に小さく噛みついた。うすく歯型のついた指を見て、お返しにとばかりに黒子も赤司の薬指に唇を落とす。汗だくになりながらも、二人で目を見合わせてくすくす笑った。
好きだよ、大好き。愛してる。一生そばにいて。ありったけの愛の言葉を囁かれて、頷きながら一生懸命返した。好きです。大好きです。ずっと一緒にいてください。
弾け飛んだボタンが、薄暗い照明の中で、部屋の片隅でつるりと光っている。
.
「んん…」
身体がだるくて身を捩る。ベッドの中は温かいけれど、少し熱くて布団を剥いだ。両手両足を思いきり伸ばしても、広いベッドからはみ出ることはない。けれど、それにしては広すぎないかと思い目を開けた。
ベッドに眠っていたのは黒子だけで、隣にいたはずの赤司がいない。あれ?と目を擦りながら寝返りを打てば、ベッドの脇に頭を凭れさせながらフローリングに座り込んでいる赤司の頭が見えた。
「あかしくん…」
「あ、黒子。おはよう」
「おはようございます…」
自分が発した声が思ったよりも掠れていて、ンンッと咳払いをする。今は何時だろう。少し寝過ぎてしまっただろうか。でもまだ眠い。もぞもぞとベッドの中でまどろんでいたら、フローリングに座っている赤司が何やら手元を動かしていることに気が付いた。
なんだろうと思い、はっとする。赤司の手元にあったのは、黒子が昨晩着ていたシャツだった。
「あっ、赤司くん!?何してるんですか!?」
「え?ボタン縫ってるだけだよ」
「な、なんてことを…」
ベッドから飛び起きた黒子は頭を抱えた。黒子の身なりは綺麗に整えられていて、赤司のものであろう、明らかに質のいい白いシャツが着せられている。自分はこんなにいい服を着せられているのに、赤司が持っているのは量販店かつセール品で買った黒子の着古したシャツだ。しかもあの赤司が、針と糸を持ってその古びたシャツのボタンを縫っている。
「ダメだった?」
「いえ…赤司くんにボタンを縫わせてしまった自分が恐ろしいというかなんというか…」
「黒子にしかやらないよ」
「ボクにもやらなくていいです…」
「俺が取ってしまったのだから、俺が付け直すのは当然じゃないか」
「うぅ…」
「ついでにここもほつれてたから、縫い直しておいたよ」
赤司が付け直したボタンは、あまりにも完璧にまっすぐ並んでいた。こんなところまで無敵さを出さなくても良い、と思いつつ、裁縫道具と彼の組み合わせがなんだかちぐはぐで、少しだけ笑ってしまう。
「このおうち、裁縫道具なんてあったんですね」
「いや、なかったから黒子が寝ている間にコンビニで買ってきたんだ。縫い方もスマホで調べて」
「ひぃ…」
「だからもういつでもやってあげられるよ」
「結構です!」
むっと唇を尖らせていたら、裁縫道具を片付けた赤司が黒子に近付いた。それからあっという間にキスをする。流れるような動作のあと、赤司はそっと黒子の頭を撫でた。重力に逆らった髪の毛は爆発している。
「朝ごはん用意しておくから、寝癖直しておいで」
「ぼ、ボクも一緒に作ります!待っててください!」
「そう?じゃあ待ってる」
ふらつく足取りのまま洗面所に向かい、冷水で顔を洗って爆発頭を直そうとする。と言ってもあまりうまく直らずに、結局は赤司に手伝ってもらった。二人並ぶキッチンには、香ばしいコーヒーの香りとトーストの匂いが漂っている。
ちなみに赤司の縫ったシャツのボタンは、あれからほつれることなくしっかり縫い付けられている。けれど見るたびにその時のことを思い出して恥ずかしい。ぴったりくっついて離れない、まるで自分たちみたいに見えて余計に恥ずかしかった。