あと少しで恋人 社会人になって少し経った頃、ついに念願の一人暮らしを始めた。
築年数は浅くもなく古すぎもない、何の変哲もない1Kのマンションだ。駅まで徒歩約十五分と少々遠めなことだけを除けば、職場までのアクセスも良く、近隣にはスーパーもコンビニもある。まだ引っ越してきて日が浅いながらも、黒子はこの街を気に入っていた。
始まる前は懸念していた一人暮らしは、思っていたほど大変ではなかった。一番不安だった食事も、近くにスーパーがあるので困った時はそこのお惣菜を買えば何とかなる。冷蔵庫を開ければ、たまに「こんなのいつの間に買っただろうか?」っていうお惣菜や、気付いたら卵や納豆なんかの食材もあったりするけれど、お惣菜のシールには黒子の行きつけのスーパーのラベルが貼られているから、たぶん無意識に買い物かごに入れていたのだろう。仕事終わりで疲れていたから記憶にないだけだ。きっと。
「あつい…」
思わず独り言が漏れてしまうくらい、暑さの引かない夜だった。駅から徒歩十五分の距離は、日が落ちた後とはいえ真夏にはなかなか堪える。しかも帰りは上り坂だから、余計に足が重たく感じられた。
ひたすらに足を前に進めると、マンションの外壁が見えてくる。四階建ての小さなマンションにはエレベーターがない。これが最後の関門、とばかりに、一歩一歩階段を踏み締める。
最上階四階の角部屋、そこが黒子の部屋だった。汗だくのままポケットから鍵を取り出しドアを開けると、外よりもずいぶんひんやりとした空気が流れてくる。このマンションが北向きだから、夏は涼しくて比較的快適だ。夏でこれだけ涼しいのなら、きっと冬は冷え込むのだろう、と思いながら、扇風機のスイッチを入れた。
手洗いうがいを済ませて、冷蔵庫の扉を開ける。飲みかけのミネラルウォーターのペットボトルを手に取った。最初は麦茶の作り置きをしていたけれど、なかなか飲みきれずに痛んでしまうことが多くて、もう最近は結局ペットボトルをネットでまとめ買いしてしまっている。
「あれ、そういえば…」
ペットボトルゴミの回収日、今日だった。しまった。結構溜まってしまった気がするけれど、今朝、捨てた記憶がない。ふと、いつもペットボトルを溜めているキッチンの隅の方を見れば、ゴミ袋は綺麗に片付けられていた。
なんだ。ちゃんと捨てていたじゃないか。朝も慌ただしかったけれど、きっとそれでも無意識に捨てていたのだろう。今朝のボク、グッジョブです。と思いながらも、冷蔵庫の中のお惣菜を一つ手に取った。自分じゃなかなか作れない、野菜がたくさん入った煮物のお惣菜だ。ついでに、いつ買ったかも覚えていない納豆のパックも手に取る。
炊飯器の中には、ほかほかでつやつやのごはんが炊き立てで入っていた。いつ炊いたのかさっぱりわからないけれど、きっとこれも過去の自分がタイマーで炊飯をしておいてくれたのだろう。きっと。
白米を小盛りで茶碗に盛り、お惣菜と納豆をテーブルに並べて、ベッドに凭れテレビを見ながらだらだらと夜ごはんを食べる。誰にも邪魔をされない至福の時間だ。
部屋も、今のところ荒れていない。厳選に厳選を重ねた本は多少スペースを取っているけれど、あとはほとんど実家に置いてきた。食器が溜まることもほぼない。洗うのを忘れたな、と思った日も、家に帰れば食器はもちろんのこと、シンクごとぴかぴかに綺麗だったから杞憂に終わった。「いつの間にか」出来上がっていることが増えている。知らないうちに家事の才能に目覚めたのかもしれない。
なんてことは、さすがに思わない。
ちまちまと箸を動かしていたら、フローリングに敷いてあるマットの上に髪の毛が落ちているのに気付いた。一度箸を置いて、指で摘まみ取る。
短めの、赤い髪の毛。黒子の髪の色とはもちろん違う。
赤毛の友人はいるけれど、火神は今、海外で活躍中だ。そもそも、引越しの際に手伝いに来てくれた黒子の両親以外はまだ誰もこの家に招待していない。友人を招くのは、もう少し部屋が片付いてからにしようと思っていたのだ。
「まあ、そんなこともありますよね」
ベッド脇に置いてあるティッシュを一枚取り、赤い髪をその中に丸め込む。箸を持ち直して、煮物の蓮根をかぷりと口に入れた。シャキ、シャキ、と咀嚼音が、静かな部屋に響いていく。
その日の夜、夢を見た。薄暗い、ぼんやりとした景色の中で、赤い毛先が揺れている。うすら目を開けてみるけれど、夢の中でもどうしても眠たくて、黒子はうつらうつらとまぶたを閉じた。
耳元でわずかな息遣いを感じた。あたたかい指先が、黒子の髪を優しく撫でる。その感触が気持ちよくて、夢の中でさえ、ずぶずぶと眠りの中に落ちてゆくような感じがした。
「黒子」
名前を呼ばれた気がするも、返事をするのも億劫だ。重たいまぶたを何とか開くと、目の前で赤い毛が夜の闇に光って、黒子の額に重なるように触れる。
唇に、ふにゅりと熱い体温が触れた。それが何なのかはよくわからずも、気持ちいいことだけはわかる。思わず腕を伸ばして、背中にしがみつくように手を回した。
重なる唇が息を呑んで、赤い毛先が、ひくりと揺れたのがわかった。もっと続いてほしいのに、その夢はすぐに終わってしまう。もっと、キスしてください。そう言いたかったけれど、言葉になったかどうかはわからない。
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八月も終わる日曜日、久しぶりにお茶でもどうか、と友人に誘われた。電話やメールはたまにしていたけれど、実際に会うのは確かに少し久しぶりかもしれない。
待ち合わせ場所に指定された店は、黒子の住む家の駅から数駅の場所にあるチェーン店のカフェだった。約束の時間の数分前に到着すれば、赤司はもう既に店の奥のボックス席に座っていて、黒子を見つけるなり微笑んで軽く手を振っている。
「やあ、黒子。久しぶり」
「お久しぶりです、赤司君。お待たせしてすみません」
「全然、待ってないよ。暑かっただろう」
「今日も暑いですね…。赤司君、もう注文しましたか」
「いや、黒子が来たら頼もうと思って。メニューどうぞ」
「ありがとうございます」
アイスコーヒーとアイスティー、それからパンケーキを一つ注文する。汗の引かない黒子に対し、赤司は涼やかな顔でアイスコーヒーのストローを咥えた。唇がつやつやと濡れている。リップでも塗っているのだろうか。
「どう?一人暮らしは」
半分こしたパンケーキを一口大に切って口に入れる。ホイップクリームとストロベリーソースは、たっぷり甘くて喉が渇いた。
「今のところ順調ですよ」
「本当に?ちゃんと食べてるのか?」
「はい。忙しいと買って食べることも多くなっちゃいますけど、近くにスーパーもありますし、大丈夫です」
「そう。なら良いけど」
カラン、とアイスティーの氷が鳴る。店内の冷房はよく効いていて、汗が少し冷えてきた。ちびちびと飲みながら、ストローでかき混ぜる。
「今度、黒子の家に行ってみたいな」
「もちろんです。もう少し部屋が片付いたら来てください。掃除も結構ちゃんとやってるんですよ。拭き掃除とコロコロは毎日かけてます」
「へえ、すごいじゃないか」
「一緒にごはんとか、作りましょう。簡単なものしか作れないですが」
「いいね。オレも練習しておくよ」
皿に残ったストロベリーソースまで綺麗に掬い上げて、赤司は半分こにしたパンケーキを完食した。ぺろりと唇を舐めると、つやつやに濡れていたはずのそこは、わずかに湿ったように見える。
黒子の皿にも、パンケーキがもう一口。てかてか光るソースの中に苺の果肉が残っている。窓から盛れる夏の日差しに照らされる赤司の毛先も、同じように真っ赤に揺れていた。
「まだ、両親以外はうちに来てないんですよ」
「そうなんだ」
「赤司君を一番最初に招待しますね」
「ありがとう。楽しみにしてるよ」
最後の一口を口に入れた。もぐもぐと咀嚼しながら、まだ綺麗なままのキッチンに赤司と二人で立つ姿を想像する。きっと赤司は料理もそつなくこなすだろう。早く部屋を片付けて、彼を呼べるようにしなければ。そのために毎日拭き掃除とコロコロをかけて、たまに赤い髪の毛を見つけたら嬉しくなって集めてしまう。そんなことは、わざわざ言わないでも良いだろう。
唇を少し噛んで、舌で舐める。甘い苺の味がした。彼の唇も、きっと同じ味がするのだろう。もう少し、この秘密を楽しませてほしい。