草木も眠る丑三つ時、とはよく言ったものだ。どちらかといえば正であり聖である空気に包まれているというのに、俺の足音以外が聞こえないというだけで妙に寒々しい。
……懐中電灯の光量を落とす。おそらく俺が本丸の庭を歩いていること自体、皆とっくに分かっているのだろうが気持ちの問題だ。深夜にごめんな、と思いつつもまたしばし歩き、たどり着いたのは小高い丘の上だった。
「ああ一期、ここにいたんだな。探したぞ」
──薄紅の花弁が目の前を過ぎる。敷地の隅、母屋を見下ろすようにしてそびえ立つのは一本の巨木だ。桜の木自体はあちこちに生えているものの、ここにある桜は見上げるのに首が疲れるほどのもので──いつか芽吹いたその日から、どれほど時間が経っているのかすら分からない。下手すりゃ大体の刀より年上かもなあ、なんて笑っていたのは誰だっただろう。
「心配したぞー、体冷えてないか?」
そうして幹に寄りかかり、遠くを見ていたらしい彼──一期一振へと歩み寄る。こがねの瞳が俺をとらえ、その口元が笑みの形に歪むまでの時間がいつもより少し、長い。
「……すみません、少しぼうっとしておりました。わざわざ探しに来てくださったのですか?」
「もちろんだろー。んでほい上着、とりあえず着とけ?」
「ありがとう、ございます」
日常動作だからと言われればそうなのだが、上着に袖を通す動き自体に淀みはない。変わらず口角は上向きだし、穏やかに笑っていると言えばそうなのだろう。ただどうにも、他の刀たちといる時より覇気がないように思えた。
「今の俺に、なんかできることとかあるか?」
「……そうですね、では質問に答えていただきたいな、とは」
「おう、知識不足で分かんねえになること以外は答えるよ」
一期の目をまっすぐに見据え、できるだけなんでもないことのように。受け答えをする気は充分だし、苦痛じゃないよという意思表示のつもりだが伝わっているだろうか。
「貴方はこの桜を、うつくしいと思いますか」
──思案は一瞬。手を伸ばし、散りゆくそれらを受け止める一期の感情は、読めない。
「んー……そうだな。今みたいに月が明るい夜は、神秘的できれいだなーと思うし……昼間見上げる時もおー見事だなーと思うよ。けどその質問からするに、あんまり印象よくない感じか?」
「……どう、なのでしょうな。戦意の高まりを感じた時、同じものが周りを舞うことも……貴方に頭を撫でられた弟たちが、しばしふわふわと纏ったままであることも理解しているのですが」
今は外気に晒されている、骨ばった手が握りこまれる。
「好ましいかと問われれば、否、と答えてしまうのでしょうな。少なくとも今、貴方しかいないこの場所では」
「そうかあ。機嫌損ねちゃまずい相手っているもんな、気遣いができてめちゃくちゃ偉いと思う。
……そんでさ、それって俺のことをさ。本音を言えるとまではいかずとも、嘘ついてまで機嫌取らなくてもいいかーって思ってくれてるってことか?」
「はは……前向きですな。主の機嫌取りも仕事のうちであるのに、それを怠っているという言い方もできますが」
「えー、そんなの別にいらねえってー。大事なやつらが俺のために我慢してる方がしんどいよ、上司っつーか主としてそれどうなんだって話ではあるけどさあ」
ぶーぶー、と唇を尖らせる俺に、「ふふ」と返った笑みは本物だろうか。俺のところにやって来てくれた彼ら全員に共通する、ヒトのそれからはかけ離れた美しさを──よくできた人形が動いているかのような非現実感を、一期からより強く感じる理由をふと思う。
「……なんというかさ、一期」
なめらかな頬に触れ、輪郭をなぞる手を拒まれることはなく。夜風を含んで揺れる髪に指を通しても、こがねの一対は凪いだままだった。
「嫌なことは嫌って言っていいんだぞ、こうしてべたべた触られてるのだってそうだ。お前には『何すんだゴルァ!』って怒る権利があるっつーかむしろ行使してくれ、してくれないと不安になる」
「嫌では、ありませんよ」
「でも嬉しくはないだろ?」
返事はない。ただそっと目を伏せ、「あくまで聞いた話ですが」と落とされた声はどこか遠い。
「少なくとも……貴方の生まれた国では、周りと同じであることは美徳とされていると聞きました」
「まあ……そう思うやつは多いだろうな。けどお前もさっき言ったろ? 機嫌損ねちゃいけないやつの前で、悪意ある物言いしない限りは個人の自由だろ。お前がそう感じるんなら『そう』なだけで、そこには正解も間違いも優劣もない、っつーかあっちゃならない。最終的にはもう、法に触れるようなことしないんなら大体自由でいいと思うけどな、俺は」
それに、と言葉を選びながら続ける。いったいどう組み立てれば、意図したような伝わり方をするだろうか。
「みんながみんな同じ方向向いてたら、後ろから襲撃された時まとめて死ぬしかなくなるだろ。だから反対向いてるやつも上から眺めてるやつも下から見てるやつも、全部必要というかそうじゃなきゃまずい。なんなら俺としては、俺のこと嫌いって刀がいてほしいとすら思ってる」
こんな状況でなければ、何言ってんだこいつと首を傾げられたかもしれない。だが一期の瞳に、その時静かな揺らぎを見たことが妙に嬉しかった。
「例えばこうやって、放っておいてほしい時に世話焼き顔で来て自分の話しかしねえ、とか。話の流れでセクハラを正当化しようとする、とか。そもそも主と刀っつー関係があるだけなのに、馴れ馴れしく踏み込んできやがってうざったい、とか。今までの色々をそう言われたら、俺はもちろん反論できねえわけ。だってそれは、そいつがそう感じてる以上事実だからだ」
「そんなこと……」
「あるかもだろ? まあ本当のところは、お前にしか分からないことではあるんだけどさ」
……沈黙が落ちた。かすかに唇を動かしこそすれ、何かが言葉になることはないらしいままの一期を見つめ、俺は右手を差し出して。
「とりあえず、朝になる前に戻らねえ? もし甘えさせてくれるんなら、ちょっとの間手もつなぎたい」
「……私と、ですか?」
「そ。お前は強いし、桜に攫われるーみたいな表現をしたいわけじゃないんだが……なんていうかね、攫われるんじゃなくて桜と一緒にいなくなっちまいそう、みたいな? まあ簡単に言えば、桜の手じゃなくて俺の手を取ってほしいわけなんですよ」
「……ふむ、つまりは妬いていらっしゃると?」
「そういうこと! 不快だって思わねえなら、ぜひ」
「……では、僭越ながら」
握りこんでいたひとひらを手放し、そっと重ねられた彼の手は、刀を持つ武人のそれだ。暑い時期じゃなくてよかった、手汗ダラダラだったらかっこつかねえよなあおい……なんて緊張を押し殺しつつ、ひとまず一期の表情が穏やかであることに安堵する。
……おそらくは、我慢ができてしまう性質なのだろう。常にここではないどこかを見つめていて、俺に対しては目線を向けることはあっても「見て」はいないのだろうなと思う。
そして同時に──きっと底のない空虚なのだ、彼は。
怯えや苦しみは感じているように見えるが、いつか焼け落ちたと語る「思い出」が、彼にとってどれほど大きなものだったのか。今となってはもう、それを知る術はどこにもない。
「いなくならないで、くれよ」
心からの笑顔を見せてくれる日はきっと来ない。俺といることでそれを取り戻してくれたら、なんて傲慢が叶うこともきっと、ない。
だから今だってこうして、俺の手を握り微笑むばかりだ。けれど俺の身勝手がひとつ許されるのなら、いつか動かなくなった俺のそばで涙してほしいと思う。
風が、吹く。そうしてまた、無数の花弁が宙へと舞い上がるのだ。
「……散っていくさまをうつくしいと、褒めそやされる理由がずっと分からなかったのです」
「そっか、そりゃそうだ。皮肉なもんだよな」
「ですがそれを、言葉にしてもいいのですね」
「そう、少なくとも俺と二人の時はぜひ。色々聞きたいよ、お前の考えてること」