半日未満の逃避行 遠くの波間には、クラゲの代わりにビニール袋が揺蕩っている。
人間の手で作られ、自然に還らない――可哀想な亡骸だ。
ダイバーのくせに。海に親しい人間くせに。
真っ先に怒りや悲しみを感じないなんてどうかしてるな。
自分に軽く罵ってみたけれど、そのような感情を無理にひねり出して放出する必要もない気がしてきた。
「まったく、実にけしからんッ! 母なる海を、我が友が泳ぐ大切な海を汚すなど決して許されんッ!」
なにせ、隣では鬼の形相で怒ってくれる人がいるからな。
ぼくは水筒の蓋を開け、中に入った氷水で口内を潤し冷やしていた。
ヒートアップする隣の赤鬼くんの横で、平静を保ったぼくがクールダウンをする……というのは奇妙なものだ。
海沿いの道路は人影もまばらで、風もなければ、照りつける日差しもない。
雲消さんが行きたがっていたジェラート販売のキッチンカーもない。
あるのは何食わぬ顔で、獲物を待ち構える怪物のように蠢く海。
昼間にめいっぱい日光を吸い込んだコンクリート。そこから発せられる熱気。
そして、浅黄色を水で薄めたような夕空だ。
「やはり、海底にはゴミが多いのかッ?」
「そうだね……ビニール袋も、ペットボトルも缶もいっぱいある。魚よりも増えるんじゃないかな」
「なんということだ……我が赤鬼も潜って回収できればいいのだが……ッ!」
「い、いや、きみが潜るのは似合わないし、シャレにならない気がするんだよな」
「何故だッ!? たしかに、我が赤鬼は子どもの頃は、頭がだるまの如く大きかったッ! だから、泳ぐたびに頭がどんどんと沈んでいったことはあったのは事実だッ! だが、今は違うぞッ! クロールであれば真っすぐに25メートルは泳げるようにはなったからなッ! 平泳ぎは練習中だがなッ!」
真っすぐ泳ぐだけじゃダメなんだよな。しかも平泳ぎ泳げないのかい。
水筒の中で、かぷかぷとお気楽に浮かんだ氷を口に流し込む。
*
――赤鬼が水辺にいると、ある昔話を思い出す。
以前、体育の授業でそう語ったのは、プールサイドに座った木ヶ原くんだ。指先で文字を連ねて語ってくれた話が、ゆっくりと頭の中で浮上する。
昔、ある島では、来る日も来る日も、海が荒れに荒れていた。そのせいで多くの人が犠牲になり、住人たちは悲しみの中、絶えず祈っていた。
「どうか海が鎮まるように。家族が、愛する者たちが無事であるように」と。
そんな彼らの姿を見ていた山の鬼は、住人たちのために波を止める大きな岩を持って波を食い止めた。しかし鬼は、荒れた波に揉まれたために海に沈んでしまった。
島の人々は、鬼が持ってきてくれた大きな岩によって荒波から守られるようになったという。
――赤鬼に教えてやったらどうだ? 「善良な鬼」の話は珍しいからな。
そう伝えて、木ヶ原くんは髪を拭くタオルを取るために歩き去った。
その後、風に煽られてタオルがプールに投身したため、木ヶ原くんはこの世の終わりが訪れたような顔になっていた。
*
(でも、教えたところで、どうするんだよ)
いま、彼は鉄製の柵に腕を乗せて指を組んでいた。
祈っているのだろうか。はたまた手持無沙汰のための何気ない仕草だろうか。
瞳の半分を瞼が覆い隠し、海面に視線を落としていた。
Yシャツの首元から覗かせるロザリオが一番星のように薄すらと光った。そのまま流れ星として滑り落ちるかと思うほどに、呼吸の度に十字架が微かに揺れる。
「きみ、落ちないでくれよ」
「まさかッ! 落ちるものかッ! 万が一、落ちてしまってもなにをするべきか、我が赤鬼は充分に理解しているからなッ! 落ちてしまった時は、身に着けているものは早急にすべて脱ぎ捨て、大声で助けを呼ぶぞッ!」
「それならいいんだけど……」
ようやく風が吹いてきた。首を挟むように吹き込んできた風がくすぐったい。
赤鬼くんは腕時計を横目に踵を返す。たん、たんと、砂混じりのアスファルトを革靴が打ち鳴らした。
「潮村、名残惜しいがそろそろ駅に向かおうッ! 外出届の門限に間に合わなくなるぞッ!」
「うん。泳げないのは残念だけど、見れただけで充分だ」
「それなら良いッ! この時期に『海を見に行きたい』と言われて面食らったが、我が赤鬼も頭の中が整えられて良い気晴らしになったぞッ!」
「……そうだね」
なにも問題は解決していないけれど。
なんて、そんなことを言ったらややこしくなる。
「明日が来なければいいのにな」
冷えた口から零れた言葉は赤鬼くんの背中には届かなかった。
*
冷房が稼働された電車の中で、ようやく向き合わなければならない波と対面した。
まさしく海の向こうからやってきたアルファベットの波だ。
リングで繋がれた紙の束をめくって、めくって、めくって――ああ、いつまで続くんだ、この波は。
赤鬼くんは隣の座席でイヤホンを耳に入れて本を読んでいるようだ。
「待て。貴様、今のcooperationの意味が会社になっていなかったか? 『協力』だろう?」
「読書か音楽に集中したらどうだい?」
おもむろにイヤホンを外した赤鬼くんが話しかけてきた。一語一語の発音は明瞭で滑らかとはいえ、公共の場だからかさすがにボリュームは落としている。
「偶然見えただけだ。間違いを指摘するのも親友としての努めだろう。それに我が赤鬼も英語のリスニングの勉強中なのだぞ」
「……リスニングなんて、あるのかい?」
「あるだろう……いいや。『だろう』じゃなくて必ずある。授業中で先生がおっしゃっていた」
「なるほどね。追試のときに全力出そうかな」
「始まってもないのに弱音はよすんだ。今日で充分に気分転換はしただろう。気持ちを切り替えて取り組め。わからないことがあったら、我が赤鬼も手伝うぞ」
「我が赤鬼も辛いぞ」という生半可な情けはかけてはくれない。
それでも助けを求めたら、体を動かし、知恵を働かせて願いに叶ったものを与えてくれる……なるほど、善良な鬼か。
逃避行先は遠のき、本来帰らなければいけない場所に着々と近づく。
車両が揺れる度に、気だるげな夕刻も着々と幕を下ろしていく。
これから蒸し暑い夜になって、またカンカン照りの朝がやってくるんだ。
毎年、夏が始まると胸が空いて落ち着かないものだ。一日、また一日と、夏が終わるのだから。どんなに足掻いても嘆いても、たとえ地球上の人類が「この夏よ、終わるな」と祈ってもムダなことだ。
降り注ぐ蝉時雨が次第に止んでいくのと同時に、日に日に夏も死んでいく。
この季節は生命が溢れているから、そいつらの死を毎年見届ける度に、ぼくは。
「だから、明日が――」
ふいに飛び出してしまった言葉に、『鬼』が名前に入った彼はこちらを見遣る。
「いいや」と頭を振って単語帳を指先でめくる。
「明日の試験、いやだなって」
「明日のことむやみにを憂うのはよそう。今日は今日のことを、明日のことは明日に悩めばいい」
「じゃあ、勉強は明日に回そうかな」
「そういう意味ではないぞ」
「……わかってるさ」
息を大きく吸うと、冷房の機械的な空気が喉を通り抜けて、肺に満ちて膨らむ。
とっくに窓の外の太陽は沈んでいた。
――あんまり早く沈むなよ、太陽。
くだらない祈り。いいや単なる悪態だ。
もっと強く願えば、善良な鬼が大きな岩を持ってきて太陽が沈まないよう食い止めてくれるだろうか……いいや、そこまでされても困る。
うだうだと息と一緒に愚痴を吐きながら、試験があることも、夏が始まって終わることも、最悪だと憂鬱に振り回されながらも、ここで生きるんだろう。
何度も何度も何度も、充分に生きた夏の死を見届ける。
そしてまた、未熟なぼくだけが取り残されるんだ。
「だから、逃げたくなるんだよな」
またイヤホンをした赤鬼くんが「どうした」と怪訝に首を傾げる。
「ひとりごとだよ」と、リング帳をめくる。
一周目、また振り出しに帰ってきた――なにも覚えてない、くだらない、ぼくのままだった。