ノスタルジア 自慢の髪を傷めてしまわないように、乾かす時には気を遣う。
一日の仕事を終えて、疲れと汗を流した健十はふかふかのタオルに残った水分を吸わせながらリビングにやってきた。どうも騒がしいと思ったら、帰る頃には気にならない程度だった雨が本降りになっている。仕事が長引いてしまわなくて本当に良かった。
ドライヤーを手に取り、浴室以外では滅多に手放さない携帯を確認すると一件の通知。カラフルな絵文字が踊っているそのメッセージは、悠太が竜持のところに泊まるという旨を伝えていた。どうりで窓の外に反して部屋の中は静かだ。
コンセントをさしてソファに腰掛けたところで、視線が背もたれにかかったジャケットに奪われる。もう一人の同居人が今朝着ていたものだろう。
ーなんだ、剛士のやつ帰ってたのか
帰宅した時には居なかったから、健十が風呂に入っている間に帰ってきたようだ。一度ドライヤーを置いて部屋を覗いてみるが、もぬけの殻だった。やけに静かな部屋と窓の外で降り続ける雨に、健十は「またか」とため息をつく。
髪は濡れたままにすると傷むのだけれど、どうやらそうも言っていられない。頭の中は剛士への悪態でいっぱいだ。
冷えてはいけないからと適当に上着を羽織り、ソファにかかったままのジャケットと、中身が一本も減っていない傘置きから自分の傘を引き抜いた。
エントランスを出て、さてどうしたものかと思考を巡らせる。
剛士は時たま、こうしてふらりとどこかへ出かけることがあった。頻度はそれ程高くはないけれど「ちょっと出てくる」と告げてから出ていくこともあれば、今日のように何も言わずに出て行くこともある。しかもそれは決まって雨の日で、健十には到底理解できないのだが、注意をしなければ傘も持たずに出て行くのだ。雨の多いこの時期になってくると、その頻度も自然と高くなってくる。
剛士が向かうのは公園のベンチだったり、人の少ない通りにある楽器屋のショーウィンドーの前だったり。殊更雨のひどい日、例えば今日なんかは……と大体の当たりをつけて、傘をさしているとは言え降りつける雨粒に眉をしかめる。
細い路地を抜けて住宅地に入り、駅前に賑わいを奪われたスーパーやリカーショップなんかが並んでいる通りへ抜けると、どれほども使われていない駐車場に出る。その隅っこに身を寄せ合っている赤や白や青の自販機の横に、同じように身を寄せている黒い影が見つかった
「やっぱりここにいた」
ぼんやり空を眺めていた赤い瞳が緩慢な動きで健十へ向けられる。
自販機の横でブロックに腰掛けていた剛士は野良猫みたいに全身ずぶ濡れで、黒い髪もシャツも肌に貼り付いていつもより一層小さく見えた。冷えるだろうにジャケットを脱いでそのまま出てきたのだろう。まあ、濡れてしまえば一枚二枚着ていてもどれほどの効力を発揮するかは知れていた。
雨を遮るものが何にも無いこの場所へ、土砂降りの時に限って剛士はやってくる。やめろと言っても最早習性のように染み付いた行動には健十ももう半ば諦めているのだが、風邪を引かれても困るし、こうして迎えに来なければ何十分ここに居るかも分かったものではない。
薄い唇が色を失って居るのを確認して、また盛大なため息が漏れる。いや、わざと漏らしたと言っていいだろう。剛士がバツの悪そうな顔をした。
「傘くらい持っていけって毎回言ってるだろ。風邪ひいたらどうするんだよ。俺風呂入ったのに、体冷えちゃうだろ」
「……すぐ帰るつもりだったんだっつうの」
「あっそう。台風の日に三十分も帰ってこなかったの俺許してないから」
「……」
すっかり黙り込んでしまった剛士の頭に持ってきていたジャケットを放って、手を取る。その手の余りの冷たさに体の芯まで冷えるような心地がした。
「ほら。帰るよ」
思いのほか素直に立ち上がった剛士を傘に入れてやれば、不機嫌そうな顔になった剛士が「何で傘一本しか持ってこなかったんだよ」なんて生意気なことを言ってくるものだから、「一本あれば十分でしょ」と返してやる。
折角十分に温もったのに、と思わなくはないけれど、どうせこの面倒くさがりを無理矢理にでも温もらせなければいけないのだから、二度目の入浴は避けられないだろう。
ザアザアと傘を叩き続ける雨の音に、隣で大人しく着いてくる剛士がまたぼんやりと空を眺めていた。
◇◇◇
「熱い」
「身体冷えてるから。これまだぬるめなんだぞ。ったく、雨になったら出てくるって、剛士はカエルか何かなの」
温度を調節してシャワーを浴びせてやると、終始大人しかった剛士がようやくいつもの調子を取り戻したように刺々しく文句を吐き出し始めた。まるで解凍しているみたいだと思う。
血の気が引いて真っ白になっていた身体を温めるように湯を浴びせ続ける。雨より余程強く肌を打つそれに剛士が目を細めた。心地よさそうだ。
雨の日限定の剛士の放浪グセは、剛士本人ですらよく理由が分かっていないらしい。雨を見てはしゃいで飛び出していくのは子供心にはあるかもしれないが、剛士のこれははしゃぐというよりはそれこそ、呼ばれるように顔を出すカエルの類である。
体調管理に対して無頓着というわけでもなく、寧ろそういう面でも持ち前のストイックさを発揮する剛士であるはずなのに、何故自ら雨に打たれに行くのだろう。
「剛士ってさ、マゾだろ」
「あ?」
「その喧嘩腰やめろよ。だって、いいことなくないか。濡れるし寒いし俺に小言言われるし。なのに何で雨の日にばっかり外出て行くのかなって」
「……知らねえェ。けど」
「……?うん?」
いつものように切って捨てられるだろうと思っていたお馴染みの会話に、剛士が首をかしげる。唇は赤さを取り戻して、肌にも赤みが戻ってきていた。
「なんか。……懐かしく?なるんだよ。雨降ると」
「……なにそれ?」
自分で言いながら困ったように眉を下げた剛士がどこか子供っぽくて、思わず吹き出していた。
雨の日に、傘もささずに出かけて行って、と思っていたけれど。もし剛士にそれをさせているのが懐かしさなら、懐古だというのなら。
雨降りの駐車場の片隅のどこかに、公園のベンチのどこかに、剛士の郷愁のスイッチがあるのだろうか。