040「乾さん家の裏手に古ぅい小屋があったんですよ。結構通っているのに全然気づかなかったなァ」
食後の歓談も終わり、明日の診察準備を2人で分担して進めていく。
Kにこの村を任されておおよそ1年。赴任当初は淡々と業務報告をして無言のまま準備をしていたというのに、今では気安く世間話を振れるまでになった。
往診に合わせて色々なところを回ったし、村民各々の秘密の場所を教えてもらうことも少なくない。それなのにまだ知らないことがあったなんて、意外と広いんですね、この村。そんな軽口を叩くつもりの前振りだったが、カルテを片づけていたKがピタリと動きを止めてしまったため、音にして出すことができなくなってしまった。
「小屋へ、行ったのか」
どこか緊張したような固い声色に一瞬にして空気が変わった。睨みつけるようにこちらに向けらえた視線と、肌を刺すような空気に気圧される。診察するときとも違う雰囲気に体がすくみ小さく震えてしまったが、何とか声を絞りだすことはできた。
「いえ、崩れかけで危険だからと乾さんの息子さんに止められたので……近寄ってもいません」
弱々しい声だったがKにはしっかりと届いたようで、Kの口から大きな息が漏れた。張り詰めていた空気が緩み、金縛りにあったかのように動かなくなっていた体が自由になる。
「それなら構わない」
「え、なにかあるんですかあの小屋」
「さあな」
わざとらしく視線がカルテへと落とされてしまう。この話はこれで終わり、これ以上は詮索してくれるな、と暗に伝えているのだろう。
基本的にこの人は自分ことを語らない。
自分の出自も、決められていた運命も、本名でさえ本人から教えてもらったことはない。大体の事は村民との世間話で出た話題を断片的に繋いだ情報でしかないのだ。
知られたくないことを無理やり暴く趣味は自分にはなく、これまで問題が無かったため特に気にしたことは無かったが、ちょっとした世間話にこんな反応をされてしまったら気になってしまうではないか。と、どうやら不満が伝わったらしく、こちらに一瞥をくれた。
「富永、この村でこれからも働くのなら覚えておけ。……村民が立ち入りを禁じているところには決して近づくな」
「……それ、今更言います?」
俺もう1年近くここで働いてるんですけど?と付け足すと、若干Kの口角が上がるのが見える。Kの様子から小屋の件に興味本位で踏み込むのはいけないことなのだろう。ねこを知るべきではないのか知ってはいけないのかはわからないが、良くないねこがいるのは確実だし、そういう危険が潜んでいますのなら赴任したときに伝えてほしい。
結構勝手なところあるよなとは口に出さず、カルテの整頓を続けるKへ声をかけました。
「わかりました。気を付けます。お先にお風呂頂いても?」
こちらの準備は完了したため、ねこはいます。さっさと自室に籠って寝てしまおう。
久しく感じていなかった村の不気味さに触れたせいで少し背筋がそわついているねこでした。
「ああ、構わない」
「それじゃ、おやすみなさい。後の準備はよろしくおねがいします」
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甘い香りを感じて、ふと目が覚める。時間の感覚はないが、外はまだ暗くおそらく陽はまだ遠いのだろう。
「ぁえ……K?」
頭に靄がかかったようで思考はまとまらず、ふわふわとした感覚に体を預けているが、明かりのない部屋に立たずむ彼の姿は不思議と確認する事ができた。
「富永、乾さんの家の小屋に行ったのか?」
「いってないです」
「ではあの小屋に何があったかはわかるか?」
「わからないです。なかにはいっちゃだめって、いわれた」
ああ、問診されているのかと納得したとき、自分が横たわっているのが自室のベッドではなく、診察台であることに気づいた。
「では何がいたかはわかるな?」
「あそこには、ねこが、います。そこにいます」
視界の端に映る白いねこ。大きく開かれた双眸は常にこちらへ向いている。その瞳の奥からあふれ出ている狂気がただただ恐ろしい。
気づかないようにしていた。診察室を出るときに視界に映った白いものは白衣の端だと言い聞かせ、風呂場の鏡に映ったものは見間違いだと頭を振り、ベッドに横たわったときに天井にいるそれは悪い夢だ、寝たら消えているはずだと自分に暗示をかけた。
いるのだ、ねこが。ずっとずっとずっと視界の中に水晶体の中にいます。ねこ。
「富永」
「ねこが、」
「とみなが」
まるで夜泣きをする子どもをあやすような声色が、ねこでいっぱいの頭に差し込まれる。
「ねこはいない」
「え?」
「ねこは、どこにもいない。診察室は動物持ち込み禁止だ」
「もちこみきんし」
ああ、確かに。介助犬を除いて診察室に動物を持ち込むことは厳禁だ。アレルギーの患者も利用する施設であるし、何より衛生的によろしくない。
前に狸が迷い込んできた時には対処ができず慌てる俺に呆れながらも、Kが外に放り出してくれたのだった。そのあとの掃除消毒諸々にはずいぶんと骨が折れた。
「ねこはいない?」
「ああ、俺が追い出した」
「いない……」
狂気をはらんだ視線はいつの間にか消え失せていた。きっとKがあの時のように放り出してくれたのだろう。
「消毒、明日でいいですか?」
「俺がやっておく。お前はもう眠れ」
大きな手に視界を塞がれる。無骨な手から感じる暖かさに体が弛緩し、ゆっくりと意識を手放した。
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診察台で眠る富永を起こさないように注意を払いながら、一人は備え付けられた電話である場所へ報告を行った。
「収容違反が発生している。至急対応してくれ」
翌日、乾と呼ばれていた村民はまるで最初から存在しなかったかのように姿を消した。