ある晴れた日の話 あたたかな風がふわりと全身を撫でていき、揺れた前髪がやわらかな光に透ける。季節の変化を肌で受け取った王子は目を細めた。
しかし春の訪れを感じさせるのはたったそれだけで、眼前には無機質な人工物が広がっている。
ボーダー本部基地の屋上にいた。手すりに腕を乗せた王子が隣の人物に視線を投げるが、彼はずっと熱心にファインダーを覗いている。
「クラウチ。よく飽きないね」
高価なデジタルカメラを構える蔵内は王子の言葉に返事をしなかった。撮影するのに集中しているようだから気づかなかったのかもしれない。べつに意味のある問いかけではなかったから構わないのだが、それはそうとして。
屋上には建物を維持するための設備があるだけで遊び場や休憩所などはなく、一般のボーダー隊員には無縁の場所だ。高さだけはあるから展望はできるが、あいにく周囲数キロは放棄地帯だから眺めがいいとは言えない。
黒い隊服が太陽の熱を吸収して背中のあたりがあたたまってきたが、目の前の風景はどうにも寒々しい。
淡い光を浴びた建造物は古びた水彩画のように色褪せていた。高いビルの影になった建物が地面にまた深い影を作って鬱々として、まるで間伐していない森林のように殺伐とした印象を受ける。
捨てられた建物はこんなに早く朽ちてしまうものだということを、王子はボーダーに入隊してから知った。人が使わないぶんだけ建物の寿命は延びそうなものだが、手入れをする人もいないから劣化するのが早いのだろうか。そういえば建物だけでなく部屋もそうだ。長いあいだ使っていない空室は傷むのが早い。今度神田に理由を聞いてみようか。
近界民侵攻からまだ四年も経っていないのに、このあたりの建物は十年の時を経たかのように荒れかけていた。ただ放置されているだけなら経年相応の風化で済んだのかもしれないが、無断で侵入して建物を荒らす市民は少なからずいるし、ボーダー隊員も防衛任務で壊すこともあり、傷むのが早いようだった。
だから、ただ崩れていくだけの建物を蔵内がカメラに収めようとしているのが不思議なのだ。今日だけでなく、昨年もこの景色を撮影していた。確か訓練生だった一昨年も。
そんな蔵内の行為は王子には儀式めいて見えた。まさか退役するまで続けるつもりだろうか。
「そんなに不思議か?」
景色を撮影していた蔵内の瞳がようやく王子のほうに向く。目的を果たしたのかカメラも下ろしている。
「まあね。写真が好きだって言ってたから撮ってるのかと最初は思ったけどまさかこんなに続くなんて」
蔵内はもっともというふうに穏やかに頷いた。
「今はただ朽ちていくだけだが、そのうち変わるさ」
「変わる?」
予想外の言葉を受けて王子は鸚鵡返しした。
「俺たちが全てを終わらせたらな」
全てを終わらせる。自分たちが。何を。いつ。どうやって。蔵内の言葉を理解するのに王子はいくらかの時間を要した。
自分がここにいる理由は強くなること、ランク戦に勝つこと、A級に昇格すること。いや、それは通過点であって目的ではない。目的は異世界との戦争に終止符を打つこと。ああ、そうだ、全てが終わればこの廃墟は――。
「それまでにいろんな建物を覚えておきたい。神田が三門に帰ってきたら建設に携わるビルもあるかもしれないだろう。そのときあいつに写真を見せてやるんだ」
ロボットのようと例えられる彼の表情がほころぶ。存外に彼は表情も感情も豊かだ。
断続的に続く戦争に終わりの気配はなく先行きは不透明だ。王子が現役の隊員のときに終戦を迎えられるかどうかも分からない。蔵内は退役してもここに残るかもしれないが。トリガーの研究に熱を上げている彼のことだからボーダーに就職してもなんら不思議はない。
「クラウチにしてはずいぶん夢見がちな考えだね」
王子の言葉を蔵内は静かに肯定した。戦争を終結させて、街の再建を近くで見届ける。ずいぶんな青写真だが、希望がなければボーダー隊員などやっていられない。彼も自分も。
王子は再び外に目をやった。あまりにも廃墟の記憶が強すぎるせいで、活気があったころの街並みが思い出せない。それを以前は少し悲しく思ったが、今はそう悪くない気持ちで眺めることができた。
<了>