過去ログ26全身に走った衝撃と痛みで意識が朦朧とする。受け身も取れず後頭部を叩きつけたせいだろう。薄い膜を隔てたように視界はぼやけて痛みも吐き気も衝撃も、全て現実味がなかった。しかし、現実味がないのは今日だけではなかった。クレタスにとって全てが古いレンズ越しに覗いたように色の褪せた虚像でしかなかった。祖母も母も飼い犬も。
そんな中、暴力だけが常に自分に親身に寄り添っていたとクレタスは確信していた。家族の虐待も、父の暴力も、孤児院の子供のいじめも全てが自分を親身に育ててくれたのに何故。どうして今となって暴力までもが自分を負けに導いたのかクレタスにはわからなかった。
焦点が定まらぬ視界に真っ黒な影が落ちる。昔、孤児院で夜中まで起きていると悪魔がやってきて攫っていくという噂が流行ったことを思い出した。フランシスもクレタスもそんな噂話を恐れなかったし、そんなものがいるのなら皮を剥いで標本にでもしようかと肩を並べ語り合ったこともしっかりと思い出せる。あれは、雨上がりの午後のことだった。蜘蛛の巣には雨粒がいくつも煌めいていて、羽をむしり取った蝶を巣に引っ掛けながら話した日のことだった。指についた鱗粉は妖精の魔法の粉のように輝いていた。それをフランシスの手指に擦り付けた瞬間にだけ、クレタスは確かに安らぎを感じていた。その日々さえ遠くに去り、ここにはない。
死刑が執行されるあのとき、自分は永遠の眠りにつくべきだったのだ。だが得た力のままに殺して逃げ、今の今までずっと瞼は閉じなかった。だから悪魔が攫いにきたとでもいうのだろうか。だが、その巨大な影が悪魔でないことは当然理解している。
視界の端で血に染まるカーネイジのシンビオートが貪られる。並んだ牙に必死に触手を絡めて死から逃れようともがく様が見えた。シンビオートの痛みは宿主であるクレタスに直接伝わってきた。咀嚼される痛みだ。その痛みは自分の肉体で感じる痛みとは異なる。牙が肉に食い込む鋭い痛み、歯ですり潰される痛みに声にならぬ悲鳴が喉から搾り出される。だが落下の衝撃で横隔膜にダメージが入ったのだろうかその悲鳴は弱々しい吐息となって溢れるだけだった。
深く深くシンビオートと結合したためか、シンビオートの断末魔が頭の中に長く響く。断末魔も苦痛の喘ぎもクレタスの耳には福音だった。そして今も、変わらずその濁った苦痛の悲鳴は教会の鐘のように清らかに響き渡る。
シンビオートの最後の声は決してヴェノムたちの耳には届かないのだろう。こんなにも心が満たされるものがないというのに。こんなに近しい存在でありながらヴェノムは決して同じではない。いくら望んでも友達になれはしないのだ。
ボロ雑巾のようになったクレタスをヴェノムが掴み上げる。重力と自重が加わり折れた骨が悲鳴をあげる。だが声帯は震えなかった。苦痛の吐息がやはり漏れるだけだ。両足は膝から下は砕けたのだろう。シンビオートも失った今は力なく揺れるだけだ。多くの人間の命を殺めた両手も砂を詰められたように重たく自由が効かない。抵抗の手段もなく間もなく死ぬ。
『人の気持ちがわからないのか』
カウンセラーだっただろうか。それとも事情聴取の警察官だったか。クレタスはくすむ過去を思い出すことは少なかった。だが確かにこの言葉を思い出していた。そして今、同じように聞かれても同じように答えるだろう。
「分かるわけがない」
他人は他人で自分は自分だ。家族であっても当然だった。そして一つの存在になったはずのシンビオートが貪り食われてもそれは覆らない。フランシスだけが他人である自分を理解して愛してくれた。全てを知った上で守ってくれた。だが彼女は一足先に地獄行きだ。巨大な黒い釣り鐘の下で彼女は命を散らしてしまったことをクレタスは察していた。彼女の最後の声は聞こえなかった。果たして彼女の最後の悲鳴は空っぽの心を満たしてくれたのか。それとも、痛みを伴っただろうか。それを知る術もない。
聴覚は最後まで残るということをどこかで聞いたが、自分の最後の悲鳴は自分の耳に届くだろうか。人間の頭程度なら容易く一呑みできそうなほどに大きな口をヴェノムが開けた。ずらりと並んだ鋭い白い歯に噛み砕かれる痛みはシンビオートを通して経験済みだった。だからこそその鋭い牙も、肉色の生々しい粘膜も恐ろしいと思った。冷たい汗が額に滲んで伝う。だが、もう間も無く訪れる死の瞬間をクレタスは焦がれた。
その牙が皮膚を刺し貫いた瞬間、一生頭の中に木霊する悲鳴を上げてやる。
俺の血と肉の味を忘れないような。とっておきの最後の声を。
その声がヴェノムの頭の中に僅かにでも残ればクレタスの悲願は叶う。エディと対等な友人になることが叶わないのであればお前の中に一生居座ってやる。血肉となってお前の一部になってやる。そのとき、エディと初めて他人以上の関係になれるのだとクレタスは信じていた。シンビオートの親子関係も越えた存在になるのだと。
クレタスのことをエディが忘れる日が来ても必ずその中に居座り続ける。その願いが叶う瞬間、鉄くささが香る唾液が頬を濡らした。死の恐怖を本能が感じ取り、砕けた指が震えた。折れていなければヴェノムの頭を掴んで必死に抵抗をしたのかもしれない。だが、表情だけは綻んでいた。雨上がりの午後、生まれて初めて安らぎを実感したときのように。
横隔膜が死への緊張で震えた。思わず前のめりになるほどの痛みを腹部に感じながらもクレタスの喉からは最後の悲鳴が迸っていた。その邪悪に取り憑かれた脳に鋭い牙がねじ込まれても、なお。