供養机の上に置かれているのは真新しいフォークだ。どこでも買えるような安物だがその切先は鋭い。肌を突いてみれば容易く皮膚が裂けて血が溢れるだろう。そんな物騒なことをクレタスは夢想した。だがそれが叶わない妄想だということはよく分かっている。拘束されてもいない腕は自由にならない。害意を持ってそのフォークを握ることはできないのだ。ましてやそれを自分の首に突き立てることだってできない。自由を奪われることは苦痛だ。その苦痛をより上回るのが現状だった。
陽光が差し込む一室は穏やかな日常そのものだ。机の上に置かれた白い皿が反射して目が眩む。舌打ちをして目を逸らせば陽の光を遮るように腕が伸びた。そうして皿の上に置かれたのは焼き立ての薄いパンケーキだった。バターの溶ける香りはこの状況でさえなければ食欲を誘っただろう。だが今は胃がひっくり返るような拒絶感を招くばかりだ。挽いたコーヒー豆の香りも嫌に脂っこく感じて喉の奥がひりつく。檻の外で、ダイナーでもなく何処かのアパートらしき一室で朝食を用意されるなんて経験はクレタスは初めてだった。だが新鮮な驚きもない。あるのは焦燥感だけだ。どうすればこの現状から逃れられるのかそればかりが思考を渦巻く。
「どうした、食べないのか?」
汗で前髪が張り付く。それに気づいたのか指で優しく払われた。まるで寝起きの子供の髪を整える親の仕草だ。その優しい声音にも行動にも戦慄が走る。反射的に払い除けよう腕が上がる。だが払い除けることどころか椅子から立ち上がることすらできなかった。できたのは大袈裟なほどに椅子が音を立てただけ。やはりこの男の行動を阻害するような真似はできなかった。血の中を巡るシンビオートがクレタスの暴力を押さえ込んでいる。相棒であるシンビオートは今ばかりはクレタスの味方ではない。シンビオートは産卵を迎えようとしていた。卵を内包しているということをクレタスが知ったのはほんの数日前だった。そしてヴェノムの目的と合致した。スパイダーマンを滅ぼすための脅威となる子を産み落とすという目的だ。そんなヴェノムの目的にエディの意識は介入していないのは明らかだった。クレタスを軟禁し食事を摂らせようとすること、優しく髪に触れる仕草、全ての行動はヴェノムのシンビオートのものだ。エディの姿をしていてもそこにエディの意識はない。それがクレタスの神経を逆撫でる。同時にひどい混乱が続いていた。赤い髪を掻きむしる。エディが今この瞬間、意識を取り戻せばまだマシなことになるだろうに、それが願っても叶いそうにない現状に苛立つ。だがその苛立ちを紛らわす手段はクレタスにはない。
「後悔させてやるからな……」
ヴェノムのシンビオートはこの後のことを考えているのだろうか。もし無事に産卵を終えたとして、カーネイジがヴェノムを殺そうとすることを考えていないわけではないだろう。殺意が煮えたぎり、血走った瞳でエディを睨む。見れば見るほどにシンビオートに自我を奪われているとは思えないほどその行動は日常的だ。クレタスの睨め付ける視線に気づいていないわけがないだろうに涼しい顔でマグカップにコーヒーを注いだ。そのカップの一つをクレタスの前に置く。湯気たつコーヒーでさえ口をつける気にはならない。だがクレタスの意に反して腕がマグカップに伸びた。その理由は簡単だ。クレタスの中のシンビオートがそうさせている。やめろ、と声に出さず訴えても彼女はクレタスの意思を尊重しない。それどころか聞こえた声はクレタスを労るようなものだった。ここに来てから何も口にしていないだろうと。いい加減にしろと必死に抵抗をしても結局力負けするのは無力な人間側だ。車は運転手には逆らえない。
「難儀だな」
嫌々マグカップに口をつけ、諦めたように嚥下するクレタスを見て呆れたようにエディの声が語った。だがやはり人間の体は渇きと飢えには勝てない。一口啜ってしまえば渇きを自覚して一気に飲み干した。チッと舌打ちをしながらマグカップの底を机に叩きつける。こうなったらもう開き直りだ。どうせ抵抗を続けてもジリ貧になる一方だ。日を跨ぐことになるだろう長期戦で体力を削るのは賢くはない。敵意とは違う目的を定めればようやくフォークを握ることができた。しかし奇妙な感覚は否めない。エディと同房だった時期は同じ食事を檻の中で摂ることはあった。だがお互い顔を見ながら食べたことなんて一度もない。もし互いに一言でも声をかければ食事の乗ったプレートを叩きつけ合うことになっただろう。そんな一発触発な空気が漂っていた。エディはクレタスを心から嫌悪していたし、クレタスはエディにほとほとうんざりしていた。だからこそ、この状況がシンビオートたちによって擬似的に作られたものであると理解してもクレタスの内心は冷静ではいられない。ため息を漏らしながら狐色のパンケーキをフォークで突つく。あの同房での日々を思い返してみれば、これがエディの手作りの食事であるということが余計に信じられなかった。筋肉で包まれた肉体からは想像ができないほど綺麗に焼き上げられたパンケーキを見れば一層のこと。平たい表面でバターが溶けて崩れていく。フォークの先が触ればバターは生地の中に吸い込まれていった。そのまま生地を一口サイズに刻んで口に放り込んだ。香りと見た目を裏切らない味が口いっぱいに広がる。バターの塩気とメープルシロップの甘味、その下に敷かれていたベーコンはメープルシロップでひたひたになっていた。理想的な朝食であればあるほど、不愉快な焦燥感で喉が詰まる。注ぎ足されたコーヒーで流し込んだ。そうでもしないといけない理由がモヤモヤと脳内を満たしていく。その霧は晴れない。窓の向こうは晴天だというのに気分は悪くなる一方だ。
「いい加減諦めて食事を摂れ」
「……俺に指図すんじゃねえ」
ブロック、と言いかけて唇を噤んだ。ここにいるのはエディじゃないと理解していてそう呼びかけたことに一層苛立つ。エディがクレタスに尽くそうとする日など来るはずもないというのに。
惰性のようにダラダラとフォークを口に運ぶ。パンケーキの表面は熱を失って、固まったバターの脂がベッタリと皿に張り付いた。それでも味は落ちることはなかった。時おり投げかけられる、観察するような視線とそれを取り繕う優しげな表情だけが気味悪く感じる。意識を窓の外に向けながらなんとか食事を終えれば、ため息混じりにフォークを空になった皿の上に投げつける。これで満足かよと太々しい態度を振る舞ったところであの黒い寄生体は気分を害すことはない。仮にこの窓を破り、一般市民を襲ったところで何も感じないのだろう。この状況においてはクレタスの気まぐれめいた殺意も看過される。そんな考えれば余計に神経がささくれ立つ。
「お前が怒る理由はわかる」
地球外生命体が何を理解するというのだろうか。シンビオートは人間の、ましてやクレタスの感情になんの興味を持ってないはずだ。あったとしても自分の利害が一致する悪意や怒り程度。そう思うもなぜエディの姿で、かつクレタスに妙に親身に関わろうとする理由を探ろうとしてやめた。どうせ考えたところで行き場のない怒りが増幅して終わるだけだからだ。
誰かに理解されたいと思ったことはない。エディ。ブロック。この男に限っては何一つとて、自分のことを分かって欲しいと願う日もないだろう。きっとこの場を切り抜けることができればそのことを叩き込んでやろう。理解され難いほどの悪意と痛みを持ってその肌を刻んでやる。
「理解されて堪るか。クソが」
窓の外で小鳥が可愛らしく鳴いている。その声を聞きながら、増幅し続ける悪意で混乱を追い込むことにだけ集中した。